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北の離れ 2017

古書店主が綴る日常雑記 古本屋な日々...  profile

・6月6日 悪夢
・5月24日 お不動さん
・4月20日 聖蹟、桜ヶ丘
・4月18日 紛らわしい
・3月16日 退院、入院
・3月6日 陸軍燃料廠貯蔵タンク跡
・2月14日 多摩陸軍技術研究所 補遺
・2月13日 多摩陸軍技術研究所
・2月10日 サドル
・1月19日 もう一つの古戦場
・1月3日 再入院


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悪夢
 「テロ等準備罪」は心配である。テロ対策には国際間の緊密な連携、情報の共有など絶対不可欠なので、相応の国内法の整備は必要ではあると思う。しかし、だ。いろいろ心配である。
 「一般市民」は捜査対象とならないとは言うが、テロを行おうという人々は、まさにその「一般市民」に紛れることに心砕いているのではなかろうか。そうした人々と無関係な人々を区別するためには「一般市民」とて捜査対象とせざるを得ないのではないであろうか。
 「思う事は自由」の内心の自由や「言う事・書く事は自由」の表現の自由は、人権の基本中の基本である。これが脅かされれば、環境問題に関する運動や反原発運動或いは反戦運動などにも広く影響しかねない。

 「テロ等準備罪」。どうも、「治安維持法」や「予防拘禁」などの名前が思い出されてしまう。
 「治安維持法」は、大正14年(1925)に制定された、天皇制・私有財産制否定を目的とする組織や行動を取り締まるための法律。お分かりのように、元来は当時の日本共産党を中心とした共産主義運動・革命運動を取り締まることを想定したものであったが、その後、共産主義運動・革命運動とは無関係な宗教団体や組合活動、政府批判などにも適用対象が広がり、思想統制・弾圧のために利用された法律。「予防拘禁」は、治安維持法違反者で、再犯の可能性ありと認められた場合、刑期満了でも既に出所した者でも拘禁可能とするもので、昭和16年(1941)に導入され思想犯に対し採用された。
 なんともオソロシイ法律だが、ほんの数十年前、この国に確かに存在していたものなのだ。

 自由が脅かされるときは、人間の人間らしい生活が脅かされるときなのである。
 そんな時代は、悪夢以外の何物でもないのだ。

2017年水無月6日

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*内心の自由、表現の自由:前者は憲法十九条で、後者は憲法二十一条でそれぞれ保障されている

お不動さん
 日野市高幡にある、高幡不動尊(金剛寺)に行く機会があった(鉄塔絡みだ)。多摩地域では、「お不動さん」と親しまれる存在で、江戸期には火除けの信仰を広く集めた。昔は多摩地域の学校では遠足の定番であった、ように記憶しているが、私自身は正直遠足で行ったかどうか、もう憶えていない。プライベートでは、幼少時少なくも一度か二度は行っている(はずだ)。

 今回は自転車で行ったが、京王線高幡不動駅前から伸びる参道の向こうからも、仁王門が見える。

日野市、高幡不動尊不動堂 日野市、高幡不動尊扁額
高幡山明王院金剛寺(真言宗智山派別格本山)
左、不動堂 右、仁王門の扁額
お堂、門共に重要文化財だ

 本尊は大日如来(最奥の大日堂にいらっしゃる)だが、不動明王像のある不動堂がメインの様な雰囲気だ(像は身代わり。重文の本尊は奥殿にいらっしゃる)。不動堂は、元は山中にあったものが倒壊したため、康永元年(1342)に移築されたものとされている。
 その本堂左手には、この方がいらっしゃる。

日野市、高幡不動尊、土方歳三像
土方歳三の像(平成7年)

 菩提寺であるからだが、お墓はここには無いのだ。お墓は末寺である石田の石田寺(せきでんじ)にある(でも位牌や手紙等の資料はある)。

 立派な五重塔もある。竣工昭和55年(1980)のコンクリート製。塔高39.8m、全てを含めた総高は45m。どうも、子供の頃何度か来ているはずだが、お不動さんに五重塔があったというイメージが無いので、不思議に思っていたが、矢張り最近出来たのね。
 元来存在していた塔を再建したのではなく、全くの新築だそうだ。

日野市、高幡不動尊五重塔
五重塔

 初めて知ったが、裏手の山、不動ヶ丘(高幡山とも。日野市観光協会HPにある昭和10年の絵葉書では「武州高幡山」とある)へ登る道が付けられている。眺望が得られそうなので、登ってみることにした。
 可也の急斜面を九十九折(つづらおり)に登る。ここは高尾山か、と思うほどの深い木立の中行けば、天辺間近と思しき地点に「高幡城址」と言う表示があった。ここが城郭であったことも初めて知った。
 行ってみずばなるまい。

日野市、高幡不動尊、高幡城本丸
高幡城本丸址から

 山頂、本丸跡と伝えられる平坦な広場(標高126m。不動堂辺は69.9m)からは、北方の眺望が見事だ。江戸の人々も、この眺望を楽しんだのであろうか。
 城の詳細は不明だそうだが、享徳4年(1455)の「分倍河原の戦い」(元弘3年/正慶2年のとは別)で、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)との戦いに敗れた、関東管領方上杉憲秋がこの地に逃れ自刃しているので、その頃には城は存在したと考えられている。

 城跡のある不動ヶ丘は、嘗て愛宕神社があったため愛宕山とも呼ばれる。今では少なくなったが、クロマツ群落が有名であったとか。

日野市、高幡不動尊、愛宕山クロマツ群
「愛宕山クロマツ群」解説板

 解説の中にある、「現存するものにも、ほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷あとを根元に刻み込んでいる」と言う記述が気になった。「傷あと」を確認しようと周囲を見渡したが、クロマツは見当たらない。
 やっと見つけた一本のクロマツの巨木。その根元近くにあったのがこれだ。

日野市、高幡不動尊、愛宕山クロマツ
クロマツの「傷あと」

 少々イメージしていたものとは違ったが、これで間違えは無いであろう。明らかに人工的なものであるし、中央に向かって斜めに切り込まれた線は樹脂を集めるためのものと思われる。
 しかし、樹脂=松ヤニから何を作ったのであろうか。WW2中マツの根から「松根油(しょうこんゆ)」を得て航空機燃料にすることが試みられたのは知っているが(陸軍燃料廠でも研究していたという記述も見受けられる)、松ヤニと松根油は違うものだし。松ヤニは精製しテレピン油が得られるが、これが燃料に利用されたのであろうか。調べたが、良く解らない。

 樹々が茂る山の斜面や尾根筋には、四国八十八ケ所を模したコースがあり、それぞれの札所の小さな弘法大師像(皆微妙にお顔など異なる)が点在し、巡拝できるようになっている。私は信仰心が無いので完全スルーしてしまったが、一つ一つ丹念にお参りされている方も、老若男女、多く居られた。
 そのコースの一部から見た絵がこれ。

日野市、高幡不動尊、不動ヶ丘から
不動ヶ丘から五重塔他

 こちらは上画像の場所よりやや下方の位置から。高さ45mの五重塔の相輪がほぼ同じ高さだ。塔基部辺は標高74.6mなので、単純計算すると私のいる場所は標高119m弱程となろうか。実際は、もう少し下の様な気もするのだが。

日野市、高幡不動尊、不動ヶ丘から
不動ヶ丘から五重塔相輪
左端は桜ヶ丘線25・26号と石田大橋

 歳三さんの生地、日野市石田から多摩川対岸、国立市方面をバックに黄金に輝いている。

 もし、高幡不動にお出掛けの機会があれば、裏手の不動ヶ丘に登ってみるのは如何であろう。確かになかなか上り甲斐のある山道ではあるが、登山には大分ご無沙汰のオジサンである私も苦も無く登れた。
 道は整備はしっかりされている。お辛そうではあったが、ご年配の女性方も、巡拝しながら登っておられた。一寸したハイキング気分は味わえる。

日野市、不動ヶ丘
石田大橋から不動ヶ丘
(撮影は後日)

 これは、お不動さんからは2km程北の石田大橋から望んだ不動ヶ丘。右の桜ヶ丘線25号鉄塔の左脇、多摩モノレール(丘の下左右に細長く)の上に五重塔が見えている(上の五重塔相輪の画像とは反対の方向から見ていることとなる)。多摩丘陵の一部であるこんもりと樹の繁る不動ヶ丘が、手前の沖積低地石田の市街(標高約60m)からは、大分高くなっているのがお分かり頂けるであろうか。

日野市、高幡不動尊、高幡城本丸から
本丸址から東方
お馴染み、東◯エレベーター試験塔も見える

 麓からの比高(二地点の高度差)はそこそこあるが、最上部、高幡城本丸址からの眺望は、登高の対価としては充分なものと思う。少なくも私は感動した。ただ、夏場はちょっと、しんどそうだな。

2017年皐月24日

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*大日如来、不動明王:前者は真言密教の教主、宇宙の根本仏。後者は大日如来の化身として煩悩を断ち行者を護る
*鎌倉公方(くぼう)、関東管領:前者は室町幕府が東国支配のために置いた鎌倉府の長。後者は鎌倉公方の補佐職で上杉氏の世襲
*元弘3年/正慶2年:後醍醐天皇で元弘、光厳天皇で正慶。5月25日までは正慶であった
*松ヤニ:これを精製しテレピン油を作る
*松根油:マツの根を乾留(個体を空気を断って加熱分解すること)して得る油状物質。溶剤・塗料として用いられる。松ヤニとは別。WW2末期日本では航空機燃料(ガソリン)の原料としての使用が試みられた
・標高は国土地理院地図(電子国土web)によります

聖蹟、桜ヶ丘
 「Fe塔」で以前少し触れた、多摩聖蹟記念館と向ノ丘に、サクラの季節に訪ねることが出来たので、ご紹介したい。

 まず多摩聖蹟記念館。
 この記念館周辺は大松山と呼ばれ、古くから桜の名所として親しまれてきた地である。明治天皇まだ30歳の頃、ここ、現在の多摩市連光寺周辺に度々行幸(ぎょうこう。お出掛け)し、また一帯が後に天皇・皇族の狩猟場に指定されたことなどから、昭和5年6月(1930)、明治天皇を偲びまた讃えるため元宮内大臣田中光顕(みつあき)伯爵(1943-1939)が中心となって建設したのが、このモダンな記念館。広い公園内ほぼ中央、標高130mに地に建つ。

 時代など考えれば、当時一般的だった国家神道的思想、或いは1930年代から1945年にかけ全盛を極め、帝国主義を支える一つのイデオロギーとなった皇国史観的思想をバックに生み出されたものとも言えそうだが、その辺は一応置いといて、まったく虚心に、一つの造形として見れば、なかなか以て美しいではないか。同じ年に建てられた、多磨霊園シンボル塔に相通ずるような、曲線と直線のシンプルなフォルム。私は好きだ。これもアール・デコ調と言えるのであろうか。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館 多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
多摩聖蹟記念館
下右は背面

 銘板を見てもらえば、「多摩聖蹟記念館」となっているのがお分かり頂けると思う。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
銘板
「昭和五年九月 伯爵田中光顕敬署」とある

 しかし現在は頭に「旧」と付く。建物は、昭和61年(1986)に多摩市指定文化財・東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」に選定されたが、その年、それまで維持管理を行っていた財団法人多摩聖蹟記念会から多摩市に丸ごと寄贈され、その時「旧」が付けられたのだそうだ。

 それにしても、ユニークなデザイン。近くを走る多摩モノレールを彷彿させるような、緩い弧を描くテラスの屋根と、それを支える円柱のコンビネーションも良い。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館 多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
屋根と円柱

 設計は関根要太郎氏、蔵田周忠(ちかただ)氏。解説には、「オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます」とあるが、私には全く分からない。

 外灯もシャレオツ。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
外壁の外灯

 記念館前には、ベンチが三つあるが、これも記念館同様の歴史があるのであろうか。おそらくコンクリート製だが、白い厚紙を緩く折り曲げた様なフォルムが印象的。散り敷いた花弁を払って座り、此処でランチにした。
 座り心地は悪くはなかったが、塗装の傷みは大分進んでいる。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館 多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
記念館前のベンチ

 ベンチの並びには、五賢堂。

多摩市桜ヶ丘公園、五賢堂
五賢堂

 岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛そして三条実美(さねとみ)の明治維新に貢献度の高かった五人の胸像を置くもので、昭和43年(1968)の明治百年祭時に建てられたもの。

 「耳をすませば」の影響で今では全国的に知名度の高い「聖蹟桜ヶ丘」だが、この駅名(地名は存在しない)の由来となったのが、この「聖蹟」記念館と大松山の桜の丘。そしてもう一つ同じく「聖蹟」と桜の丘である、向ノ丘(むかいのおか)だ。以前紹介したときはまだ冬であったが、今回は、嘗て江戸の頃より桜の名所であったことを彷彿させるような絵をご紹介したい(上手い下手は問わないでね)。

 丘は標高は70mであるが、標高50mの坂下からは自転車で結構上り甲斐のある勾配の上だ。

多摩市連光寺、向ノ丘 多摩市連光寺、向ノ丘
向ノ丘

 嘗ては、長さ約15町(約1,600m)、幅約3町(約330m)の芝生の地(東京府発行「東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志」)であったことを思えば見る影も無いが、今も桜の名所として近隣の方がたに親しまれているであろうことは、全体のコンディションの良さから伝わってくる。
 ここには石碑が三つあり、うち二つは明治天皇に関わるものだ。

多摩市連光寺、向ノ丘御駒桜 多摩市連光寺、向ノ丘御野立所
左は、「御駒桜」碑で、愛馬金華山号をつないだ桜(今は無い)
右は、「御野立所」碑で、休憩所

 碑文には何方も、明治14年2月20日、同15年2月15・16日、同17年3月29・30日に明治天皇がここに立ち寄ったことが記されている。両碑とも「伯爵 田中遜謹書」或いは「奉献 伯爵 田中 遜」(奉献は物をたてまつること。遜はへりくだるの意)とあるが、この田中さんは、聖蹟記念館建設の中心人物の、あの伯爵の光顕さんであろうか。

 もう一つの碑は、上の二つとはやや離れて建つ、小野小町の歌碑。

多摩市連光寺、向ノ丘小野小町歌碑
小野小町歌碑

 武蔵野の 向の岡の 草なれば 根を尋ねても 哀れとぞ思う

 「新勅撰和歌集」(文暦2年(1235))巻十九にある歌で、彼女が父を尋ねみちのくへ行く途上この丘を詠んだものとされる、と解説にはある。

 向ノ丘三碑は、何れも昭和15年(1940)に建てられている。この年は、神武天皇即位の年(西暦660年)を元年と定めた紀元「神武紀元(皇紀)」の2600年を、国を挙げて盛大に祝った年である。「きげんはにせーんろっぴゃくねん♪」と言う歌も作られ多くの歌手によりレコードがリリースされた(うちのおばあちゃんもよく歌っていた)。歌碑を除く二碑の解説には、「御駒桜」と「御野立所」の両碑はこの紀元2600年を記念して建立されたとある。此方も「皇国史観」が支配的な時代背景の中から産まれたもの、と呼べるのであろうか。

 これ等、記念館そして歌碑を除いた記念碑も、歴史的存在として虚心に見たいのだが、「戦前回帰」的にほいの漂う現在、残念ながら、そのように見るには、多少の努力が必要だ。

 元は所在地名関戸に由来する「関戸駅」から、「聖蹟桜ヶ丘駅」へと改められたのは、昭和12年(1937)5月。日本と中国とを全面戦争へと引きずりこむ切っ掛けとなった、「盧溝橋事件」が北京郊外で起きるのは、その二か月後である。

 少々話が堅くなったので、最後は柔らかな春景色で閉めよう。

多摩市桜ヶ丘公園
奥多摩方面の眺望

 桜ヶ丘公園、聖蹟記念館300m程東からの、奥多摩方面の眺めだ。

2017年卯月20日

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*旧多摩聖蹟記念館:高さ11m、面積397.19平方m。1970年代特撮ヒーローもので度々登場
*アール・デコ:装飾美術の意。1910年代から1930年代にかけフランスを中心に流行した美術工芸の様式。実用的で単純・直線的なデザインが特徴
*国家神道:明治期以降国家が国民精神統合のため形成し振興した国民宗教。天皇及び祖先神の崇拝が中心。教育勅語は事実上の教典ともされる
*皇国史観:日本歴史を万世一系(永久に一つの系統が続くこと)の天皇中心に展開してきたととらえる歴史観
*神武紀元:有名な零式艦上戦闘機、所謂「ゼロ戦」の「零(れい)」は、この紀元2600年に正式採用となったためのものである。他の「零」の付く海軍機、零式観測機、零式水上偵察機、零式輸送機なども同様。陸軍ではこの年採用のものは「一〇〇式」とした。一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式輸送機などがそれにあたる
*紀元二千六百年:一般公募から採用された「国民歌」。作詞増田好生氏、作曲森義八郎氏
*田中光顕:土佐藩士。中岡慎太郎の陸援隊幹部。中岡暗殺事件の際現場で事件の経緯を中岡から聞いたそうだ。警視総監、学習院院長、宮内大臣等歴任。伯爵。我が幼き日のヒーロー、田中光常さんのお祖父さんだ

紛らわしい
CT ある夜の事、入浴中ではないが、お風呂場で手を滑らせ、タイルの壁で頭(側頭部)を強打した。
 特にその時は、意識を失うことも無く痛みも吐き気もなく、如何と言うことは無かったのだが、翌朝だ。めっちゃ頭がイタイ。おまけに吐き気も可也する。
 当然昨夜の、頭部痛打、これに関連付けたくなる。しかし、だ。私は以前から何度か書いたように、偏頭痛持ちである。しかもその朝は低気圧通過という偏頭痛発作の非常に起きやすい状況。
 迷う。病院へ行ったものか、あるいは様子を見るか。経験から言って偏頭痛っぽいのだが、もし頭蓋内出血を起こしていたら場合によっては命に係わるし。

 取り敢えず、偏頭痛にしか効かない薬を服用。これで収まれば、偏頭痛の可能性が高い。・・・

 ほぼ一時間後に痛みも吐き気も、ほぼ収まった。が、一時的に静まっただけやもしれぬ。矢張り心配である。偏頭痛の薬ももう無いし、やっぱり脳外科へ行こう。

 CT(Computed Tomography コンピューター断層撮影)検査を受ける。
 頭部のみ撮影なので、服はそのままに帽子をとり靴を脱いで、撮影テーブルに横になりガントリーに頭を入れる。額、顎、腕を固定され、検査開始。頭に響くので、足も動かせない。
 断続的に、ガックンガックンと、私を載せたテーブルが少しづつ移動する。頭を輪切り撮影している訳だ。昨年受けたMRI検査の経験から、検査中は数を数える。5分ほどかかると言われたので、一秒間隔で300数えればよいと思っていたのだが、随分と早く3分ほどで終了。MRIに比べたら、ほんの一瞬くらいの感じである。

 結果。出血も無く、骨折も無かった。矢張り偏頭痛であったのだ。なんと紛らわしいタイミング。でも良かった、偏頭痛で。

 偏頭痛の薬だけ頂いて帰る。CTの費用は、三割負担で¥5,000ほどでした。思わぬ出費でイタイが、安心できた。

2017年卯月18日

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*頭蓋内出血:硬膜下失血、くも膜下出血、脳室内出血、脳実質内出血の総称。多くは頭部への強い衝撃で血管が破損するのが原因
*CT検査:X線で身体の断面画像を得る。部位等により造影剤を注射するパターンもある

(画像は、シルエットACより拝借しました)

退院、入院

ホイールチェア

 長らく病院のお世話になっていたおばあちゃんだが、大腸がん及び洞不全症候群に関する治療は終わり、先月から自宅復帰前提のリハビリ主体の病棟に移っていた。しかし、そういつまでもお世話になることは出来ず、しばらく前から、「介護老人保健施設(老健)」という、自宅復帰を目指すリハビリ主体の施設への移動を、病院相談員さんにお願いしていた。
 そして、今月半ば、そうした施設の一つへと、やっと入ることが叶った。ここは、「介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)」の入所対象となる様な、常時介護が必要となる方々よりは、もう少し自立した日常生活が可能な方々が対象となる施設なので、基本、3か月と言う入所期限があり、3か月ごとに退所または継続の判定が行われる。
 3か月後どうなるかは、全く不明であるが、取り敢えずは、まだまだ寒さも続くので、安心している次第だ。ただ、安心はしているが、病院でおばあちゃんの隣のベッドに居た方は、同じ様に老健への入所を希望していたのに入所先が見つからず、非常に困惑しておられた。「待機高齢者」の問題も深刻なのである。我が家は偶々運よく入所先が見つかったが、素直には喜べない。

 おばあちゃんの件は、取り敢えず落ち着いたのだが、ほぼ同時に、新たな問題が生じた。ご近所に住む、おばあちゃんの古くからのお友達が、緊急入院となったのだ。
 その方は一人暮らしで、中程度のアルツハイマー病であるおばあちゃんよりは、大分しっかりしてるなと、思っていたのだが、ここ暫らくの比較的短期間に、認知症(アルツハイマー病だと思うのだが)が進行し、いろいろと気にかかることが増え始めていた。出先で迷い保護されたり、まったく悪意なくゴミを不法に投棄したり、汚れた服をずっと着続けるなどなど、心配だな・・・と感じることが多くなった。
 為に、地域包括支援センターの方や民生委員さん或いは他のご近所の方(たまたま介護士さん)また遠方ではあるがご親族の方などと情報共有し、見守っていたのだ。
 そんなある日のことである。
 階段からの転落で複数個所頭部に裂傷があったり、その他腎臓機能の低下或いは認知症があったりするので、診断・治療のため、包括支援センターの方が受診に連れ出してくださっていたのが、何度目かには拒否されるようになり、玄関も開けてくれなくなってしまった。為に、流石に安否の確認ができないのは危険と思い、お隣の奥さん(介護士さん)とも話、本人から、何かあった時は、と預かっていた合鍵で中に入ってみた。すると、布団の中で動けないような状態であり、会話も成り立たないようになっていた。様子からして水も食事も摂れてはいないようだ。布団からは、明らかに失禁の様子がうかがえる。
 これは、もう一人では無理と考え、プロであるお隣の奥さんや包括支援センターの方に連絡し、来てもらった。そうして話し合い、救急搬送を頼むこととした。

 無事救急車を見送り、これで一応、お友達の方は生命の危険を考慮する必要はなくなったので、ひとまず安心。翌日は、おばちゃんの老健への引っ越しだ。
 明くる日午後、病院で退院手続きを行っていると、昨日救急搬送されたおばあちゃんのお友達のご親族の方を偶然見掛けた。声を掛けて聞くと、昨夜この病院に搬送されたと仰る。まあ、この近辺では、救急の場合この病院に送られることが多いので、そう驚くことは無いのだが、出会えたのは偶然である。その方はおばあちゃんとも旧知の仲で、数十年ぶりの再会ができたと、喜んでおられた。

 その後、退院した病院からは左程遠くはない老健におばちゃんをタクシーで連れ、種々手続きや荷物の整理、また車いすを押しフロアを見て回ったりなどし、夕刻となった頃、その日昼過ぎまでおばあちゃんのいた病院で、お友達に面会した。面会票記入のため、おばあちゃんが2月までお世話になっていた循環器系病棟のナースステーションに立ち寄ると、もう来るはずのない私が来たので看護師さん達に驚かれた。昨晩救急搬送されたのはおばあちゃんのお友達で、救急車を頼んだ内の一人は私ですと事情を話すと、また驚かれた。
 お友達は、暖かな病室で気持ちよさそうに眠りながら、ベッドで点滴受けていた。家では暖房も無く(リモコンの電池切れでエアコン動かず)、布団も失禁のため汚れていたので、さぞ心地よかったのであろうと思う。

 おばあちゃんは90歳超、お友達はもうじき90歳。身近に高齢者の直面する様々な問題を直に見あるいは感じていると、私は、年齢的にはまだ大分先の事ではあるが、相方(奥さん)も居らず子供も居らず、一人老いた時のことを思うと、大きな不安を感じるのが正直なところである。認知機能が低下して、火の不始末でもやらかした日にはゴメンナサイでは済まない。理解力、判断能力のあるうちに、日常生活支援事業や成年後見制度を利用したり、適当なところで見切りをつけて、どこぞの施設にお世話にならねばならないな、等とも考える次第だ。

2017年弥生16日

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*介護老人保健施設、介護老人福祉施設:前者は要介護1以上、後者は要介護3以上が対象(例外有り)
*日常生活支援制度、成年後見制度:共に判断能力が低下した場合利用できる。前者は福祉サーヴィス利用援助やお金の管理また定期的訪問など受けられるもので、支援があれば自立生活が可能な場合のもの。後者は判断能力が可也低下した場合のもので、施設入所や入院或いは不動産売却など日常生活援助の範囲を超える事柄の支援が受けられる

(画像は、シルエットACより拝借しました)

3.11 原発事故 被害者の人権をまもる国際署名

陸軍燃料廠貯蔵タンク跡

府中市、浅間山、燃料タンク跡周辺
浅間山、中山と前山の間

 多摩地域、府中市にある残丘、古多摩川の削り残し、浅間山(せんげんやま)である。昭和45年(1970)に都立公園となっている。
 この丘は、堂山、中山そして前山の三つの頂があり、最高点は堂山で約80m。大雑把に言って、堂山、中山、前山が北東から南西へ反時計回りで緩い弧を描いて並んでいる。画像は、東側にある明治大学の「内海・島岡ボールパーク」との境をなす「すその道」側入り口付近から、中山と前山の間にあるごく浅い谷を見ている。中央の遊歩道は、画像奥方向に四阿があるので、「あずまや道」と呼ばれている。

 以前に少し触れたが、WW2中、この辺りには、昭和15年(1940)にここの西隣に設けられた、石油の代替となる燃料や潤滑油などの研究・開発を行う陸軍燃料廠(現在の航空自衛隊基地や府中の森等)の、燃料貯蔵タンクが置かれていた。
 態々、廠内から数百mも離れた山の斜面にタンクを設置するなど、秘匿する意味合いあっての事であろうか。浅間山はその木立ちを利用し、東3km弱の距離にあった陸軍調布飛行場(当時)所属の戦闘機を空襲から守るための秘匿場所にも使われていたので、同様の理由と考えても、無理はなさそうである。

 その当時、タンクが設置された斜面窪地の法面には、石垣が設けられていたという。
 その石垣の一部が、僅かだが、雑木林の斜面に残されている。上画像で言うと右手奥の方向だ。

府中市、浅間山、貯蔵タンク跡
斜面下から窪地の石垣を見る

 その斜面を下から仰ぐ。場所は、「すその道」にある入口から、「あずまや道」を60-70mほど入った所であろうか。
 画像中央上、空を区切る稜線のすぐ下、小さな常緑樹があるが、その下右側、窪地上部に、厚く積もる落葉の中からほんの僅かに、花崗岩製の白い石垣が顔をのぞかせている(画像では小さすぎて確認不可。申し訳ご座いません)。それと知らねば、まず気付かぬであろう。
 昔はもっと露出していたように記憶しているが、徐々に埋(うず)もれてしまったようである。今の時期、落葉もまだふんわりしているので、余計にお隠れ気味だ。

府中市、浅間山、貯蔵タンク跡周辺
紅白のウメが満開

 画像、ウメ咲く左手、石垣は杭に張られたロープの奥上の斜面である。近づくことは叶わぬが、目を凝らせば確認はできる。

 前山上から、中山方向に、窪地のある谷を見下ろすと、この様な感じだ。中央に紅梅が垣間見えている。

府中市、浅間山、貯蔵タンク跡周辺
前山から谷を見る

 季節が進み、青葉繁れる頃となれば、だんだんと石垣の確認はし辛くなるであろうと思われる。

 但し、石垣を構成していた石は、間近に見ることができる。
 これだ。

府中市、浅間山、貯蔵タンク石垣石 府中市、浅間山、貯蔵タンク石垣石
石垣石、と考えているのだが・・・
(右画像は左画像の石のうち左側三つのアップ)

 浅間山西側、新小金井街道(都道248号)脇の登り口(下り口でもあるが)に、並べられている。
 公園として整備する段階で撤去されたもの、ではなかろうかと、個人的に思っている。そう、あくまで私がそう考えているだけで、確証は有りません。スミマセン。
 しかし、同じ花崗岩であり、大きさといい形といい、昔サイクリングで訪れたときに見た石垣の石とクリソツである(当時は近づけたのだと思うが)。画像奥、階段脇にはセメントで固定され並べられているが、それにしろ、この六つの石にしろ、何処か不自然ではないか。こんな所に何故置き或いは並べる必要性があるのか。

 撤去はしたものの、歴史的な遺物であるし、廃棄も出来ず、土留めとして或いはオブジェ的に並べたのではなかろうか、と私としては推測するのだ。こんなにも形も大きさも揃った明らかに人工的は石は、石垣のパーツ以外には、ちょっと考えにくいのではないか。
 丘を下り、自転車で走りながら、この石たちを目にした瞬間、あ、と思ったのだ。瞬時に、石垣の石だ、と私の勘が叫んだのである。

 私の勘を信じるか信じないかは、これをお読み頂いている貴方次第だが・・・。

 まあ、上り口の石が石垣のものであったかどうかは別として、現在残る石垣は、都立公園の中であるし、当面は破壊されることなどはないであろうと、安心はしている。しているのだが、園内のどこにも、「燃料廠タンク跡」的な表示も解説も何もないのが気になる。行政には、ちゃんと把握されているのであろうか。
 戦跡(例1例2例3例4)は、戦争という日常がその地域に存在していたことをそこに暮らす人びとに伝える歴史的文化財である。人々に戦争について或いは地域の歴史について考えるきっかけを与え、生活を深化させることに資する存在だ。
 文化財は地域住民の共有文化資源であり、文化財に関する行政はその住民の持つ文化財享有権を守り保つためのものである。まずは、存在を利用者に知らせて頂きたい。全ては知ることから始まるのだから。
 戦跡の存在を知らせるのも、浅間山に棲む動物や育つ植物をビジターに知らせるのと同等の意味は、持つと思うのだ。

2017年弥生6日

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*残丘:浸食で周辺から取り残された丘陵
*陸軍燃料廠:敗戦後は米軍施設となり、後大部分が返還され現在は航空自衛隊基地、学習センター、公園、美術館、ホール、斎場他が建設され利用されている
*内海・島岡ボールパーク:「内海」は明大野球部創設者の内海弘蔵さん、「島岡」は明大野球部監督を長年務めた島岡吉郎さん

多摩陸軍技術研究所 補遺
 多摩陸軍技術研究所の話とは直接関係はないのだが、第一研究所跡の上水公園やそれを含む研究所跡周辺に面白いものがあるのでご紹介。

 まずは、上水公園。

小金井市、上水公園地上絵、土偶 小金井市、上水公園地上絵、オバケ
土偶、オバケ

小金井市、上水公園地上絵、ネコ 小金井市、上水公園地上絵、モモンガ
ネコ、モモンガ

小金井市、上水公園地上絵、カブトガニ 小金井市、上水公園地上絵、タヌキ
カブトガニ、タヌキ

小金井市、上水公園地上絵
上水公園管理棟南側の地上絵たち

 「地上絵」である。小金井市市制55周年記念の「コガネイの地上絵制作プロジェクト」で2014年に描かれた物(主催:小金井市 企画・制作:NPO法人アートフル・アクション 製作協力:東京学芸大学、鉄矢悦朗デザイン研究所、デザイナー淺井祐介、小金井市民の皆さん)。道路表示詰まり停止線や横断歩道などを書くために使われる、トラフィックペイントと呼ばれる塗料が使用されているそうだ。この塗料で細かいパーツをボランティアや市民の方々などが切り出し、アーティストさんの描いた下絵に沿って並べ、バーナーで加熱し焼き付けたとか。見たことがきっとおありだと思うが、横断歩道などを業者さんがバーナーを使って焼き付けている工事、あれと同じ様にして書いたということだ。
 他にもかわいい絵が沢山あったのだが(イヌ、人魚、ゾウ、フェニックス、チョウチンアンコウ、クジラなどなど)、植え込みの影が絵にかぶり非常に見難くまた露出も難しく、なかなかうまく写せなかったのである。
 それにしても、厳めしい軍事施設跡にこのようなユルク可愛らしいもの達は似つかわしくないようにも思えるが、陸軍は、飛行戦隊部隊マークの話だが、意外なほどにユニークでカラフルで、少なくも文字数字のみで実用一点張りの海軍比べれば、結構ユルイと言えなくもないものが使用されていたのだ。内地の陸上基地で活動し一般市民が接する機会の多い陸軍機は、親しみやすさを重視したものの様だが、この色・デザイン様々な部隊マークなど考えると、地上絵と遠からぬものを感じられないことも無い(これもこじつけか)。

 次に研究所跡周辺。おおよそ第一研究所跡と第二研究所跡との間辺りの場所である。
 此方は今回知った地上絵と異なり、以前から知っていたのだが、この辺り結構高低差があり、南北方向の坂が多いのだ。古多摩川が作った河岸段丘である国分寺崖線(はけ)よりは大分北の地帯になるのだが、「崖線」とまでは呼べなくも、それに近い段丘的な地形が見られる。
 東西方向に、小さな坂が幾つも並んでいるが、下はその内の二つである。

小金井市、段丘、弥五ちゃんの坂 小金井市、段丘、団地の坂
左、本町「弥五ちゃんの坂」
右、小金井本町住宅「団地の坂」

 弥五ちゃんの坂(やごちゃんのざか)は高さ2m強であるらしいが、団地北縁の坂は私が立っている辺り団地の土地自体が少し低くなっているのでもう少し高そうだ。
 団地の坂(だんちのざか。私が勝手にこう呼んでいる)は弥五ちゃんの坂の少し北西に位置するが、どちらも南側を仙川(せんかわ。一級河川。野川の支流)が東西方向に流れている。この仙川が台地を削り作った高低差なのであろうか。それとも、古多摩川の流路であった名残りなのであろうか。常々疑問に思っているのだが、調べても良く解らない。
 写真の坂を上がった向こうの平坦地に、前回紹介した上水公園があり、そのすぐ北に玉川上水が流れている。

 今回、研究所跡地を巡って思ったのだ。このような広大な土地に有無を言わせず軍事施設を作ってしまうような時代は真っ平御免であるが、しかし、研究所と農地以外ほとんど何もない、人も車も建物も少ないそんな時代に、この辺り、自転車で走ってみたかった、と(ウロウロしてたら憲兵さんに捕まるかもしれんが)。

2017年如月14日

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

*部隊マーク:稲妻、帯、矢印、弓矢、星、トラ、また部隊番号(数字)の意匠化などさまざまで、色も白、赤、青、黄、緑などこちらもさまざま。垂直尾翼に描かれたが胴体や機首に描かれたものもあった。なお海軍は秘匿性や視認性重視で文字数字だけであったらしい
*小さな坂:弥五ちゃん及びその東に並ぶ坂には以下の様なものがある。なお、解説・数値は「坂マップ」さん(解説は「続小金井風土記」より)によらせて頂きました
・弥五ちゃんの坂(長さ101m、高低差2.24m):坂西側に弥五ちゃんと呼ばれる家が一軒のみあったことに因む
・権虎さんの坂(長さ99m、高低差2.224m):明治初め権さんと寅さんの親子が住んでいたことに因む
・島崎の坂(長さ91m、高低差1.51m):島崎家を迂回するものであった
・虎さんの坂(長さ112m、高低差2.47m):上水公園に向かう道。キジ撃ち名人大久保虎吉さんに因む
・三五郎さんの坂(長さ97m、高低差0.9m):虎さんの坂に続くもの。上水公園に向かう。坂東側の中川三五郎さんに因む
*憲兵:軍隊内の警察的組織またそれに属す兵士。研究所に憲兵さんが常駐していたかどうかは分からないが

参考:「坂マップ」、「坂道散歩」さん、「坂学会」、「未来の小金井へ!コガネイの地上絵制作プロジェクト」他

多摩陸軍技術研究所

小金井市、多摩陸軍第二技術研究所境界石柱
旧陸軍境界石柱

 「陸軍」とお読み頂けるであろうか。大分風化が進み磨滅しているが、肉眼でははっきりと「陸軍」の文字が判読できる。
 現在の日本には「陸軍」は一応存在していないことになっているので、当然これは、旧陸軍を指すものである。ここから先は陸軍の土地ですよ、という意味の境界石柱なのだ。

 場所は、小金井市西部、JR中央線の北にある住宅街。西側に植木畑の広がる生活道路路傍だ。この植木畑から向こうが、多摩陸軍技術研究所の、観測・指揮連絡兵器を研究した第二研究所の敷地であったらしい。
 下画像、何方も道路を斜めに切る電柱影の先端横辺りが石柱だ。

小金井市、多摩陸軍技術研究所第二研究所境界石柱 小金井市、多摩陸軍技術研究所第二研究所境界石柱
左、南を見る 右、北を見る
この道は、玉川上水から野川に至る「小金井村分水」の跡だそうだ

 縁石は明らかにこの花崗岩と思しき石柱をよけている。保存の意図有ってのことであろうか。だとしたらば、喜ばしきものである。

小金井市、多摩陸軍技術研究所第二研究所境界石柱
旧陸軍境界石柱

 第二研究所は、現在この石柱の南西にある小学校周辺にあったことは確からしいが、範囲が何処までであったのかは、定かでないようだ。

 石柱から北北東に600m程進むと、運動施設メインの「上水公園」がある。この周辺一帯は、多摩陸軍技術研究所の、銃器・火砲・馬具の研究施設である第一研究所があったらしい。
 下右画像、ご年配の方々が、極寒の中元気にゲートボールに興じていらしゃるグラウンド、及びその向こうの木立の更に向こうに白く横たわる小学校(右)、中学校(左)、またその向こうの市営住宅辺りまで研究所であったようだが、こちらも第二研究所同様範囲は明確ではないようだ。

小金井市、上水公園(多摩陸軍技術研究所第一研究所跡) 小金井市、上水公園(多摩陸軍技術研究所第一研究所跡)
左、上水公園横の児童公園より(この公園も敷地内であったろうか)
右、上水公園グラウンドより(左手木立ちが児童公園)

 左の画像で、児童公園木立の向こうに見える白い建物、右画像で、小中学校の間にある白い建物、公園管理棟である。この現在建替えられている管理棟の同じ場所に、十年ほど前まで研究所の本部棟・事務棟であった建物がそのまま残り管理棟として使用されていた(2005年度解体。WW2後一時学校としても使用されたらしい)。然し今は、何の痕跡も無い。
 いろいろと事情はあったのであろうが、是非残して頂きたかった。こうした地域の歴史的遺産は、その地域地域での人々の暮らしの深化に大きく寄与すると思うのだ。まして戦跡は戦争を知り考える良き縁(よすが)となるものである。どうも、社会はこうした地域の歴史的・文化的遺産に冷淡でないか。

 この多摩陸軍技術研究所は、第一、第二、第三、第五、第七そして第八の六つの研究所が集まったもので、元からあった第一、第二、第三及び第八に加え、第五(小平)、第七(新宿)及び第九(登戸)陸軍技術研究所の電波兵器部門を移管する形で、昭和18年(1943)6月に新設された。
 第一と第二は上に書いた通りだが、第三から第八は、現在の東京学芸大学、情報通信研究機構、及びサレジオ小学校・中学校一帯であったようだ。第一・第二より西側の小金井市最西部及び小平市最南部の一部である。

小金井市、情報通信研究機構(多摩陸軍技術研究所第三・第五・第七・第八研究所跡)
第三・第五・第七・第八研究所跡付近を西から

 これは、情報通信研究機構(国立開発研究法人)西端、国分寺街道付近から東を見たものだが、道路の両側が研究機構で、道路右側奥方向が学芸大、道路左側奥方向がサレジオ小・中学校だ。詰まりこの国分寺街道から東の新小金井街道まで続く道路の両側一帯全て、多摩陸軍技術研究所であったという事だ。道路の長さはおよそ800mである。
 第三は工兵器材・火薬具を、第五は通信兵器を、第七は物理的基礎を、そして第八は兵器材料をそれぞれ研究していたらしい。
 そうすると、第五などはそのまま現在の情報通信研究機構へと繋がっているのであろうか。
 何れにしろ、この研究所、全て合わせて175ha(約529,000坪)に及んだという広大なものであったようだ。
 上画像左手奥、研究機構とサレジオ学園との境辺りの道路際(小平市上水南町。おそらく第5或いは第7研究所跡と思われる辺り)、研究所施設として使用されていた高さ19mの給水塔があった。風雨に晒され黒ずんだコンクリートの外壁を晒す姿に、少々不気味な匂いを感じていたのを記憶しているが、すでに、老朽化を理由に2004年7月、解体されている。

 多摩地域は、土地が平坦で利用し易くまた鉄道網が整備されていた等の理由から、WW2前から中にかけ多くの軍需産業・工場が移転して来たり軍関連の施設が作られるなどした「軍都」であり、兵器の研究・製造が日々行われ、またそれらが繰り返し空爆対象にされるという、戦争が日常であった時代を経験している(例1例2例3例4)。知らぬだけで、案外身近に、こうした戦争の歴史を伝える存在があったりするのである。
 我々市民には、こうした地域地域の歴史的・文化的遺産を守り伝える義務或いは責任があると思うのだが、同時にこうしたものを享受する権利もあるのでなかろうか。
 「地域における文化財保護については市民の文化財享有権を保障するために文化財保護行政があるという観点から取り組むことが強く求められている」と、法政大学院教授の馬場憲一さんが「多摩のあゆみ」に書いておられるが、同感である。

2017年如月13日

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

*上水公園:私が散漫なだけかもしれないが、見た所、ここは嘗て陸軍研究所であった、的な解説や案内は見当たらない。せめてそうしたものがあってほしいのだが
*給水塔(高架水槽):WW2後、昭和30年(1955)に小金井市の水道施設として使用され始め、その後昭和49年(1974)からは東京都が水道施設として使用。昭和62年(1987)国に返還されて以降は未使用となっていた(最終的所有者はりそな銀行)(こちらのサイトさんを参照させて頂きました)
*文化財享有権:人が文化財に対して生まれながらに持つ権利。全ての人間は文化財を享受することができるという権利(多摩のあゆみ 第160号 特集 多摩地域の文化財 〈総論〉地域における文化財保護の意義と課題(馬場憲一)より)

参考:知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、市内の戦跡保存の取り組みに向けて(小金井市議板倉真也氏サイト)、多摩のあゆみ第160号(たましん地域文化財団)、Wikipedia他

如月十日  サドル
 5-6年ほど使っていた、マウンテンバイクのサドル表面の合皮が破れた。このままでは雨水が染み込むしパンツのリーシーも痛む。
 もう十年くらい前だが、このマウンテンバイクの初代のサドルが破れた時、構わず乗っていたらば、桜ヶ丘の「地球屋のロータリー」に向かう「いろは坂」の長い登りで、買ったばかりのジーンズのリーシーが擦れて傷んでしまった苦い経験がある。そのサドルの表面素材は一般のものより硬く、破れて捲れた部分で生地が傷ついてしまったのである(ジーンズはその後すぐに穴が開いたので補修して履き続け、今ではカットオフの短パンになっている)。

 そんなこともあったので、早速サドルを交換した。態々購入したのではない。数年前、ポスティングのバイト中に路傍で拾ったサドルがあったので、それに付け替えたのだ。
 このサドル、スポーツタイプの細身で中央にシルバーのラインが入ってカッコよく、造りも可也しっかりとしている。クッションが厚く衝撃が伝わりにくい。しかも適度に硬いので安定感もある。尿道部分にも溝がある。今のところ坐骨の痛みも来ない。私としては非常に乗り心地が良い。何故捨てられたのか不思議に思うほどだ。
 ただ難点は、表面に合皮を張り合わせるための縫い目があることだ。これは雨が染み込む。それに、流石に捨てられてあっただけに、あちらこちらに小さな破れや穴もある。このままでは日常的に使いにくい。しかも、シルバー・ラインが色落ちすることも判明した(ポイされた原因はこれかも)。
 参ったな、折角我がリーシーにぴったりのサドルなのに。

 あれこれ考えて、カヴァーを付けることとした。少々ルックス的には難があるが、新しくサドルを買って丸まる交換するのもいろんな意味で勿体ない(乗ってるときは見えないし)。

 現状、イイ感じで使わせて頂いている。サドルもサドルカヴァーも。ただ、カヴァーの方は、長時間駐輪する際に、盗難防止の為いちいち外して持っていなければならないのが面倒と言えば面倒である。

2017 2/10

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*地球屋のロータリー、いろは坂:共に多摩市桜ヶ丘。ご存知「耳をすませば」に登場するロータリーやつづら折りの坂のモデルである。この坂は可也の激坂である

睦月十九日  もう一つの古戦場
 「Fe塔」の「古戦場」記事で、関戸の戦いについて書いていたら、その戦いに先立つ分倍河原の戦いが行われた古戦場にも行ってみたくなり、訪ねてみた。

 以前、鉄塔関連で少し触れた府中用水の一流路である、新田川(しんでんがわ。にったがわ、ではない)が暗渠化されて下を西から東へと流れる新田川緑道が、鎌倉街道を越えて(街道は分梅橋で新田川を渡る)左右に広がり、「新田川分梅公園」となるその遊歩道脇に、「分倍河原古戦場」碑が建っている。

府中市、分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑
この場は、東京都指定旧跡(大正8年10月)となっている

 元弘3年(1333)5月(5日説、8日説がある)、上野国新田荘で倒幕のため挙兵した新田義貞(1301-1338)は、入間川を渡河し、11日に小手指原(埼玉県所沢市)で、次いで12日には久米川(東京都東村山市)で幕府軍と戦い撃破した。幕府軍は武蔵国府内、分倍まで退却して布陣し大勢を立て直した。15日未明多摩川へと進出した新田軍であるが、北条泰時(高時の弟)軍10万の援軍を得て待ち構えていた幕府軍に迎撃されて惨敗を喫し、堀兼(埼玉県狭山市)までの敗走(この時武蔵国分寺焼失。建武2年(1335)義貞の寄進により薬師堂再建)を余儀なくされた。
 しかし、その日の夜新田軍は、北条方に見切りをつけた相模の武将大多和(三浦)義勝と、その率いる兵六千の加勢を得ることとなった。陣を立て直した新田軍は、翌16日未明4時頃、義勝を先鋒とし、分倍河原の幕府軍を急襲した。虚を突かれた幕府軍は敗走し、新田軍はそれを激しく追撃した・・・。
 こうして、「古戦場」で触れた、多摩川南岸、関戸(多摩市関戸)へと、戦いの舞台が移っていったのである。

 この歴史の一転換点ともいえる大規模な戦いが、この分倍の地で行われたのは、偶然ではないと考えられている。
 周辺は、鎌倉街道と多摩川が交差する交通の要衝であり、多摩川は幕府にとり重要な防衛ラインであった。またこのすぐ近傍には、鎌倉北条氏の直接配下にある政治的・軍事的拠点、武蔵国衙が存在した。そして分倍は、その国衙のある重要都市府中の一郭を占めていたのである。
 詰まりこの戦いは、政治的・軍事的拠点や防衛ラインの争奪戦であり、その故、この分倍の地の、その周縁に広がる分倍河原で行われたのである。
 合戦の行われた分倍河原は、今となっては正確な位置・範囲を知ることは叶わぬが、一応現在の府中市分梅町(ぶばいちょう)周辺とされており、よってここに碑があるのである。
 戦いの地が、現在の何処にあたるにせよ、分倍も関戸も街道沿いのそれなりの町場であったであろうから、多くの住民が戦禍を被ったのであろう。

府中市、分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑

 碑が建てられたのは、昭和十年五月十六日、と裏面に刻まれている。碑文に「新田義貞勤王ノ兵ヲ起シ」とある等は、皇国史観の時代を感じさせる。
 他に、「有志相謀リ碑ヲ其ノ遺跡ニ建テ(ゆうしあいはかりひをそのいせきにたて)」云々とある。文末に「大國魂神社宮司 府中史談会々長 猿渡盛厚」とあるところを見ると、この府中史談会の方々が資金を出し合って建てられたということなのであろうか。詳細は不明だ。
 因みに「分倍河原古戦場」の書は、新田氏一族、正五位男爵新田義美(よしてる)氏(1899-1969)によるものだ(義美さんの奥方は歌人高浜虚子の娘さんだそうだ)。

 碑近くの白梅が三−四分咲き程であったが、二羽のメジロ(Zosterops japonicus)が忙しなく花から花へと移動しながら花密を味わっていた。あまりに動きが速く捉えきれず、この写真が私には精一杯である。

府中市、新田川分梅公園、メジロ
ウグイスじゃないよ

 碑のある辺りからその奥にかけ、緑道北側(碑に向かって左)に一つの流れが地表に現れる。しばらく前から緑道南側の地表に出ている三面コンクリートの新田川からの分流が、公園西側(鎌倉街道側)入口付近の小さな橋の下で更に分けられたもので、こちらは分流と異なり、ある程度自然度の高い親水域となっている(緑道下に暗渠の新田川、南側にその分流、そして北側にその分流の更に分流と、計三つの流れがあることになる)。

府中市、新田川分梅公園、親水域
新田川分梅公園親水域
中央上部流れの中心緑の植え込み辺りが碑

 流れはなかなかきれいである。
 親水域側は、100mほど先で分流と再び合流し途切れてしまうのだが、暖かい時期は、子供らの良き遊び場となりそうである。

 さて、もう一か所訪ねるべき場所があるのだ。
 それは、碑から800m程の距離、古多摩川の河岸段丘である立川崖線に跨る様に位置する、京王線・JR南武線分倍河原駅。そこに、遠く鎌倉方向を見やるこの方が御座(おわ)すのだ。

府中市、分倍河原駅、新田義貞公像
新田義貞公之像
(昭和63年5月)

 公園から中央高速道路下を潜り、北北西へと進んだ先、駅南口ロータリーにこの立派な像はあるのだが、◯芝ソリューションビルの巨大な影にすっぽり入り、明るい空を背景に如何にもうまく露出が決まらない。仕方なく、開き直ってシルエットとさせて頂いた。
 でも、騎馬の義貞公と近代的ビルとのツー・ショットは、なかなかシュールで良くはないか?

 作者は富永直樹氏(1913-2006)。案内板には、分倍河原合戦を題材にし「武士の情熱と夢をモチーフ」として制作したとある。

 しかし、義貞公、数百年の後、自身の銅像が造られ、すぐ傍らに鉄と石の巨大なる建造物が建とうなどとは、夢にも思わなかったであろう。

2017 1/19

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*分倍河原古戦場碑:以前は500m程北にあったが道路拡張で1988年に現在地に移転したらしい
*府中用水:多摩川から取水され国立市・府中市を流れ再び多摩川に戻る農業用水。全長約6km
*メジロ:スズメ目メジロ科メジロ属。多摩地域の平地では、昔は冬場にしか見掛けなかったが、近年は一年中見掛ける。ウグイスやハクセキレイも同様である。何が起こっているのであろう
*分倍河原駅:京王線としては、大正14年3月玉南電気鉄道屋敷分(ぶん)駅として開業。昭和3年12月分倍河原駅に改称。昭和4年3月南武鉄道(現JR南武線)屋敷分駅との連絡のため移転。南武線としては、昭和3年12月南武鉄道線屋敷分駅として開業。昭和4年12月分倍河原駅に改称
*分倍:東村山市徳蔵寺にある「元弘の板碑」(国指定重要文化財)には、分倍合戦戦死者の名等が刻まれているが、中に「武州府中に於いて五月十五日討死せしむ」とある。分倍は府中の一部であったのである。因みに、板碑に刻まれた飽間(あきま)斎藤氏三名は、26歳、23歳そして35歳(この方のみ十八日相州村岡で討死)の若者たちである
*分倍河原の合戦:享徳4年(1455)1月、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉勢との間でも行われている

睦月三日  再入院

「みち」

 昨年末、おばあちゃんの大腸がん治療に関わる入退院等につき書いた。そして文末で、退院後のことを書くかもしれないし書かないかもしれない、と言ったが、書くことにした。
 自宅に戻っての後、また、大きな出来事が起きたからである。

 簡単に言ってしまうと、家に戻ったのも束の間、大して落ち着く間もなく再入院、と相成ってしまったのだ。

 一年もあと数日で終わるという、暮れも押し迫った良く晴れた日、クリスマス・プレゼントに看護師さん一同から頂いたチェックのシャレオツなミニ・ブランケットを早速纏いながらタクシーで帰宅。長い入院生活で、脚の筋力に多少の衰えは感じられたが、他には目立つ変化も無く、また腹部手術跡のキズ洗浄も思ったよりは無難にこなせ、これで普段の生活に徐々に戻れるであろうと、そう考えていた。
 そして、明日で年内の診療は終わると言う日、退院後初の受診となった。ドクターによれば、キズの回復も順調で、来月半ば(今月の事)辺りまた来て頂ければ良いでしょう、と言うことで、一安心。
 が、その晩辺りからどうも様子がおかしい。珍しく少し食べたものを戻したり、足元も普段以上に覚束ない。せん妄的言動も目立ち、丸めたティッシュペーパーを口に入れるなどする。明らかに通常のおばあちゃんではない。
 これは矢張り少し問題である、とあれこれ原因を考えるうち、朝出がけに、私が玄関を施錠するためほんの少し眼を離した時、後ろ向きに転倒してしたことを思い出した。本人は頭は打っていないと言ってはいたが、若しやあの時後頭部を強打したか?と気になりだした。
 然しその後、不穏な様子は消え、落ち着いてきたので、取り敢えず少し様子を見るか、とその晩はそれで就寝。

 そして、翌朝である。
 部屋を覗くと普段通りに寝ているので安心したが、キズ洗浄をする為起こすと、矢張り何処となく様子がおかしい。よく見ると枕がおう吐物で汚れている。これは、ノーウォーク・ウイルス(ノロ・ウイルス)にやられたか?と凡そ一年前の朝を思い出し、おむつを確認すると、まったく汚れてはいない。
 では、何であろうか・・・と思いつつ、キズ洗浄だけ済ませる。
 そうこうするうち気付いたのだが、いやに手足が冷たい。「冷血人間」とあだ名されるほど手が常に冷たい私が触って冷たいと感じるのであるから、相当冷たくなっているはずだ。意識は結構しっかりしてはいるが、口にする言葉の内容など、矢張り何とはなく変である。トイレに起たせようとすると、足に全然力が入らない。
 何となくではなく、はっきり変である。病院の担当ドクターに電話をすると、すぐに連れて来て下さいとのことである。大慌てで支度をし、タクシーをコール。
 タクシーに乗せるのが一苦労であった。全く足が上がらないのだ。何とか苦労して乗せた後も、うわ言の様に「水をください・・・喉が渇きました・・・」とろれつの回らぬ言葉を繰り返している。こんな状態は初めてのことである。

 病院では受付もスルーでドクターが迎えてくれ、すぐに彼是とチェック。
 お腹の方は問題なく、転倒のことを考えると矢張り頭かもしれないという事で、救急治療室で早速、種々検査となった。

 一時間ほどの後、当直のドクターから聞かされた結果は、私としては意外なものであった。
 原因は、お腹でもなく、頭でもなく、心臓、であった。

 説明された病名は、洞不全症候群。

 心臓には、右心房上部に「洞結節(洞房結節)」と呼ばれる小さな三日月状の心筋細胞の塊がある。心臓の拍動リズムを決める、いわば天然のペースメーカー的部位である。この洞結節の機能が低下し、脈が遅くなり(徐脈)、脳その他臓器の血流が不足し種々の障害が起こるのが、この洞不全症候群。多くは原因不明であるが、加齢による影響が大きいともされているようだ。
 この病気による症状としては、意識障害、眩暈、失神、ふらつき、手足の冷たさ、倦怠感などが見られるそうだが、確かにおばあちゃんの症状の多くは一致する。せん妄的言動は意識障害(意識変容)に当て嵌まり、転倒による影響ではなかったようだ。大体転倒自体が、洞不全症候群による影響(ふらつき、眩暈)で起きたのかもしれない。

 で、おばあちゃんの治療だが、心拍数が30前後と、通常の半分以下(高齢女性は一般に毎分70回ほど)となってしまっているため、ペースメーカー植え込みが必要と言うことである。他に手術があるため、まず体外式の仮の(テンポラリー)ペースメーカーを装着し、午後埋め込み型のペースメーカーを植え込む、とのこととなった。

 日が没する頃、手術は無事問題なく終了し、またHCU(高度治療室)入り。その後四日目に普通病室行きとなり、現在、入院生活中である。

 折角大腸がん治療が終わり退院できたのに、五日と経たずにまた逆戻りである。一か月の間に二度も手術など、90歳超のおばあちゃんには、なんと過酷なことであろうか。
 冷血人間の私であるが、流石に不憫と感ずる。

 ・・・・・・

 上の画像であるが、記事内容とは無関係である。ただ、この再入院と同じ頃、通りすがりに見掛け、何故かとても強い印象を受けたので載せた。可愛らしくまたこの時期らしい雰囲気でもあるし。緑道脇の小さな公園に置かれた「みち」と題された彫刻である。帽子やマフラーは何方かが被せあるいは巻いたもの。時々着替えているようだ。

2017 1/3

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*洞不全症候群:これが直接の原因で死に至ることは多くないらしいが、脳の血流が不足(酸素不足)し失神やめまいで転倒・転落など起こし事故に繋がるなどの危険がある
追記:アルツハイマー病治療薬のうちコリンエステラーゼ阻害系のアリセプト、レミニール、リバスタッチパッチは副作用として洞不全症候群があるため、おばあちゃんには投与不可となってしまった。もともと、リバスタッチパッチ以外は副作用が激しく使用できなかったが、リバスタッチパッチまで使用できなくなったのはイタイ

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