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北の離れ 2017

古書店主が綴る日常雑記 古本屋な日々...  profile

・9月19日 多磨霊園10区水場
・9月10日 多磨霊園碑石形像 弐
・9月9日 多磨霊園碑石形像 壱
・9月7日 多磨霊園16区水場
・8月15日 多磨霊園5区東京市養育院合葬塚
・8月11日 多磨霊園5区公園水場
・8月7日 多磨霊園大石灯篭
・7月21日 多磨霊園3区水場
・7月19日 多磨霊園4区下げ花置き場
・7月4日 多磨霊園11区噴水塔、その後
・6月6日 悪夢
・5月24日 お不動さん
・4月20日 聖蹟、桜ヶ丘
・4月18日 紛らわしい
・3月16日 退院、入院
・3月6日 陸軍燃料廠貯蔵タンク跡
・2月14日 多摩陸軍技術研究所 補遺
・2月13日 多摩陸軍技術研究所
・2月10日 サドル
・1月19日 もう一つの古戦場
・1月3日 再入院


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多磨霊園10区水場
 「あれ?」と思った。園内を自転車でぶらついていたら、木立ちの隙間のその向こうに水場が見えた。

府中市、多磨霊園10区水場
ここだっけ?

 この間紹介した「モニュメト型」水場は、ここだったか?
 いやいや、違う違う。区画も違うし、よく見ればデザインも異なる。一部向こうが透け、両脇に「球」が挟まっている。16区の水場はこんなではなかった。
 これはまた、新しい発見ではないか。

 場所は10区。
 名誉霊域北端の横長ロータリー北東の例によって角地で、16区の水場から見ると、名誉霊域通りを挟んだ南西方向である。ここの使用開始は昭和12年(1937)12月。16区より約9か月早いが、ほぼ同時期として良いであろう。その所為か、よく似ている。

府中市、多磨霊園10区水場
正面

 今まで紹介してきた3区4区の水場はじめ、他の直線主体の建造物と異なり、直線と単純な曲線を融合させたその造形は、ディティールは結構異なるも、タイルの装飾など含めトータルな印象では、16区水場とほぼ「姉妹」。一応、此方がお姉さんということとなろうか。

府中市、多磨霊園10区水場
斜め

府中市、多磨霊園10区水場 府中市、多磨霊園10区水場
横から

府中市、多磨霊園10区水場
塔部分
10区水場彼是

 定規とコンパスで描いたような直線と円弧のコンビネーションは、「妹」と全く同様。あちらがアール・デコなら当然こちらもそうなろう。大きさで言うと、全高は約286pでほぼ同じだが、縦・横共に約285pの「妹」に比し、全幅は約275pで若干小さい。
 でも何だろう、横からの絵は、何となく前方に傾ている様にも見えるが、気の所為であろうか。

 水場部分だが―、これは、ない。塔の左右から延びる腕状の半円に囲まれた、水場のあるべき場所には、何もない。おそらく16区の様に、本来は円形の水場があったのであろうが、半分残して撤去されたように見える。基壇部分に、半円をそのまま延長する様なそれらしきすじ状の痕跡があるし、また、16区水場同様全体にクリーム色の材が張り付けられているが、「球」の下の垂直部分のみコンクリートがむき出しになっているのも、そこから切断したためなのではないだろうか。

府中市、多磨霊園10区水場
球とその下の切断面(?)

 切断面はその部分だけ黒っぽく、コンクリートで補修・整形してあるようにも見える。
 全体を支える基壇は、前側が大量の落ち葉と土に覆われ埋もれてはいるが、枯れ枝を刺して確認したところ現在の形に沿うような半円形ではなく、元の形に沿うような円形になっているように思えた。

 また、塔の下に格子が填められた四角い穴があるが、これも、下部が水場であったことを示すものの様に思える。水場に溜まった水が溢れることを防ぐための、排水口なのではなかろうか。そしてこの排水口の上、タイル部分下の黒い嘴状のもの、これは、水出口であろう。

府中市、多磨霊園10区水場
排水口と水出口(推測)

府中市、多磨霊園10区水場 府中市、多磨霊園10区水場
「嘴」アップ

 嘴も排水口の格子も腐食はあまり見られず、本体に比し妙にきれいだ。

 しかし、水ため部分が無い所為か、或いは一部が素通しになっている所為か、此方はハクチョウ或いはダチョウには見えず、ひじ掛け付きの椅子の様にも見える。と言うか、「ひじ掛けに腕を載せて座るヒト」の方が近いか。特に斜めアングルはそうだ。

府中市、多磨霊園10区水場
座するヒト?

 掌で「球」を抑えている感じ。

 それにしても、全体的にイタミは可也激しい。

府中市、多磨霊園10区水場 府中市、多磨霊園10区水場
剥離、剥落、き裂

 塔頂部や「球を抑えた手」部分など、大分損傷が目立つ。
 こちらは、完全なる、風化危惧IA類。いや、それよりも、限りなく「風化」に近い。上で前傾しているように見えると書いたが、どうも気の所為でなく、基壇ごと傾いているのではなかろうか(だから埋もれているし、もしかしたらその所為で水場が撤去されたのかも)。メンテナンス云々と言うよりは、その「復元」へ向け尽力をお願いしたい存在だ。何事も、失われてからでは遅いのだ。

 村越知世(元霊園所長)著「多磨霊園」中に、霊園設計者井下清が、昭和8年1月発行の「庭園と風景」中に載せた「墓苑を語る」の一部が引用されているが、そこから、更にその一部を以下に引用させて頂く。

 「・・・前略・・・周囲の植え込み即ち各区の隅角は、何れも庭園とし、水道を導き、清泉を設け、露床を配し、二ケ所の正門付近は大規模の庭園とし、その内には大噴水塔を置き・・・後略・・・」

 今回紹介のものを入れて、現時点で、現役二か所を含む十か所の水場と、一か所の水盤(12区)、一か所の給水塔(13区)といった水関連の建造物をご紹介して来たが、これ等施設は全て各区画の角地(若しくはその付近)にあるので、この建造物達が上記文中の「清泉」や「露床」に当たる事になるのであろう。二つの正門は南の正門と北の小金井門のことで、「大噴水塔」はシンボル塔と小金井門塔を指していると思われるが、小金井門塔は噴水塔ではないと思う。如何いう事であろうか、これは。それとも元は噴水塔であったのであろうか。一寸不思議な記述だ(各建造物はこちらをご参照下さい)。

 しかし何れにしても、これ等今まで紹介してきた数々の水場や塔、大正末期から昭和戦前期に造られたのであろう数々の霊園内建造物、デザイナー或いは設計者は何方(どなた)なのであろうか。いつも気になる。おそらくは、当時の東京市公園課のデザイン・設計担当の職員さんの手によるものであろうとは思うが、若しかしたら外部発注され、どこぞの設計事務所の方の手に依ったのかもしれない、など、あれこれ考えてしまう。
 また、設計・デザインは何処の方であれ、一人の方によるものなのか、或いは複数の方によるものなのか。そこも気になる。例えば、11区噴水塔と12区水盤また小金井門塔など、モチーフに共通性を感じるものは、多分同一の方のデザインであろうとか、水場で言えば、「八角型」や「四角型」は同じ方の様だが、今回や前回の「モニュメント型」は別の方でありそうだ、など、こちらもあれこれ考えてしまう。
 こんな風に、合っている合っていないは別にして、分からないなりに思考・想像をめぐらし楽しんでいるのだ。ヒマだな、って言いうなかれ。こんなことしながら、介護生活を何とか楽しいものにしようとしているのである。

*付録
多少誤差があるのを予めお断りさせて頂くが、一応の計測値を参考までに記載します。方位も、通常のアナログ方位磁石での計測値ですので、あくまで参考的なものとお捉え下さい。
上部(塔)タイル部分除く:高さ約178cm、幅約24cm、奥行約45cm
上部(塔)タイル部分のみ:幅約15cm、奥行約14cm 頂部突出部分奥行約47cm、高さ約13cm
上部(塔)タイル部分含む:全高約191cm、奥行約60cm
全体幅:約275cm
下部(水場)深さ:約50cm
水出口:高さ約2.5cm、幅約3.5cm、奥行約2.5cm
排水穴(?):高さ約4.3cm、幅約9.5cm
球直径:約32cm
基壇径:約360cm
左右突き出し部:上段枠地上高約95cm、枠幅約35cm、枠厚さ約11.5cm
磁北に対する角度:正面は西に約26度ずれ(アナログ)

*多磨霊園用語集

2017年長月19日
(取材は8月下旬)

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・この水場のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*アール・デコ:日本でも大正・昭和戦前期に流行した美術工芸の様式だが、この辺りの知識は0なので、ツッコまれると困るのだ
*公園課:「多磨霊園」巻末の年表によると、大正10年(1921)に東京市土木部公園課が創設され墓地掛が誕生したとある。その後、昭和17年(1942)に公園部霊園課が創設され、翌年の都制施行に伴い霊園課は公園緑地課霊園掛となった、とある
*露床:意味が今一つ解らないが、江東区元加賀公園「壁泉付露床」の画像など拝見すると水にさらされることを前提にしたコンクリートの平らな「床」で水関連のものであるのは確かである

多磨霊園碑石形像 弐
 ここからは、みたま堂・壁墓地通りの前回よりはやや南の区画及び、バス通り沿いのご紹介。

服部金太郎翁碑
府中市、多磨霊園碑石形像、服部金太郎碑

府中市、多磨霊園碑石形像、服部金太郎碑
6区 服部金太郎(1860-1934)

 江戸生まれ。日本橋や上野の時計店で修業ののち、明治14年(1881)服部時計店を創業し、25年(1892)には精工舎を設立した。つまりあの「セイコー」の創業者である。

 彼は人生訓として「急ぐな、休むな」と言っているそうだ。
 「向上心は何処までも持っていて、一歩一歩少しずつでも急がず休まずに働いていった方がよい」
 「無理に焦って仕損じるよりも、長く持続して飽かずたゆまずやっていく方がよい」
 など(セイコーミュージアム「創業者 服部金太郎の精神」より引用させて頂きました)。「地道」と言う言葉には無縁な、いきあたりばったりの大雑把人生の小生としては、耳の痛い言葉である。
 碑石は、前回の鳥居父子・岩谷莫哀のやや北、みたま堂・壁墓地通りと南北通り(バス通り)が交差する付近にあり、比較的わかりやすい。円形テラスのような造りで、一角がギリシャ神殿風となり胸像レリーフが収まっている。数ある碑石形像の中で、もっとも瀟洒なものであろう。明るく清潔感があり、よく手入れが行われている。
 碑文には「昭和十二年三月」の日付がある。

海軍大佐水城圭次君碑
府中市、多磨霊園碑石形像、水城圭次碑

府中市、多磨霊園碑石形像、水城圭次碑
6区 水城圭次(1883-1927)

 長野県出身。海軍兵学校卒業後日露戦争に出征。砲術学校教官等を経て、大正15年(1926)から軽巡洋艦艦長となり、昭和2年(1927)8月24日に行われた島根県美保関沖の海軍夜間無灯火演習に軽巡洋艦「神通(じんつう)」艦長として参加。乗艦が駆逐艦「蕨(わらび)」と衝突し、神通は艦首から第一砲塔下まで船体下部を失う大破、蕨は爆発沈没し艦長含め92名の死者を出した。また、この衝突を避けようとした軽巡洋艦「那珂(なか)」は駆逐艦「葦(あし)」と衝突し、那珂は艦首下部を失い中破、葦は船体後部を失い大破し28名の死者を出した。(美保関(みほのせき)事件)。
 水城大佐は、この事故により業務上過失・艦船覆没・業務上過失致死罪で起訴され、横須賀鎮守府軍法会議にかけられるも、判決前日に自決した。海軍は少将進級を企図したが、遺族の辞退により見送られた。

 みたま堂・壁墓地通りと西1号通りの交差する角地にある。服部金太郎翁碑とは、みたま堂・壁墓地通りを挟みお向かいの位置関係。碑前にライオンが眠る、非常に立派な碑石であるが、園路側に正対しておらず(本人墓に正対)、また木立ちに包まれているために目立たない。
 碑石裏には、「昭和三年五月六日 海軍有志者建之」とある。

新渡戸稲造先生
府中市、多磨霊園碑石形像、新渡戸稲造像

府中市、多磨霊園碑石形像、新渡戸稲造像
7区 新渡戸稲造(1862-1933)

 南部藩士の家に生まれる。教育者・農業経済学者。キリスト者。札幌農学校、東京帝大等で教授、一高で校長を務める。また国際連盟事務次長も務めた。国際理解と世界平和を唱え尽力した。カナダで開かれた太平洋会議に出席後当地にて病没。

 昭和59年(1984)、紙幣(D号券)の肖像に文化人が採用されるようになった際、五千円紙幣の肖像に選ばれたが、これによって新渡戸稲造の存在や業績を知った人も多かったのである。斯く言う私も、そうであった。
 形像で全身像というのは、他に無いのでなかろうか(分からないが)。台座裏面に碑文があるが、漢文で読めない(無教養)。場所は、服部金太郎翁碑のバス通りを挟んだ向い、バス通りと西1号通りが交差する角(水城圭次碑とはバス通りを挟んだ反対側に当たる)、「霊園第七号地」バス停の横で、分かりやすい。
 日付的なものは見当たらないが、「歴史が眠る多磨霊園」さんには昭和12年(1937)3月11日建立とある。

馬場^一胸像
府中市、多磨霊園碑石形像、馬場^一胸像

府中市、多磨霊園碑石形像、馬場^一胸像
10区 馬場^一(1879-1937)

 東京府芝区(港区)生まれ。大正から昭和前期の官僚・政治家。二・二六事件後軍部に推され、暗殺された高橋是清の後任として広田内閣で蔵相を務め、軍事費大幅増を許した。昭和12年(1937)軍部に推され近衛内閣で内相を務めるも病気により辞任し、のち急死。

 場所は、服部金太郎や新渡戸稲造の北、バス通り(南北通り)と西2号通りの交点で、比較的見付けやすい。屋根付き胸像はめずらしい。正直、失礼ながらあまり著名な方ではないが(私が不勉強なだけか)、碑石形像としては、なかなか目を引く存在である。傍らの碑文は、比較的最近修繕されている。
 日付的なものは見当たらないが、「歴史が眠る多磨霊園」さんには昭和14年(1939)9月12日建立とある。

山本条太郎翁胸像
府中市、多磨霊園碑石形像、山本条太郎胸像
11区 山本条太郎(1867-1936)

 福井藩士の家に生まれる。明治から昭和前期の政治家・実業家。三井物産常務となるも大正3年(1914)シーメンス事件で連座し退任。のち衆議院議員。昭和2年(1927)政友会幹事長、ついで南満州鉄道総裁(のち社長)となるも、翌3年の張作霖爆殺事件で後ろ盾の田中義一内閣総辞職のため、翌4年に辞任。

 馬場^一胸像のバス通りを挟んだお向かいにあり、丁度お二人で対を成してるような形。規模的には、藤山雷太翁顕彰碑に匹敵するほどの大きさで、造りも非常に立派だ。ただ可也放置されているようで、胸像前には三本の落葉樹の若木(種不明)が元気よく育っている。計ったら一番高いものは約1.5mあった。成長の早い落葉樹とはいえ、此処まで伸びるには数年はかかるであろう。

府中市、多磨霊園碑石形像、山本条太郎胸像

 右に略歴、左に年譜があるが、建立についての日付的なものは見当たらない。「歴史が眠る多磨霊園」さんには昭和12年(1937)11月13日建立とある。

吉田絃二郎句碑
府中市、多磨霊園碑石形像、吉田絃二郎句碑
14区 吉田絃二郎(1886-1956)

 本名源次郎。早大教授職(教え子に井伏鱒二)の傍ら執筆。のち分筆活動に専念。随筆集「小鳥の来る日」(大正10年(1921))はベストセラーとなる。「アルプスの少女」(ハイジね)等の翻訳もある。

 上の馬場^一、山本条太郎像の更に北、バス通りと西3号通りとの交差点の小ロータリー西側。霊園中央二十号地バス停近くで、場所的には分かりやすいが、句碑そのものは小さく見付け難いかもしれない。
 しかし、小さくとも非常に良い句碑だ。角のない川原石で囲われた箱庭の様な矩形(くけい)の中に、白っぽい粒の大きな砂を敷き、また幾つかの石を置き、その中、手間右に、

 吉田絃二郎句碑
 白萩のこぼれて小さき佛かな
 一八八六年〜一九五六年 佐賀県に生まれる
 小説家・劇作家・随筆家

と解説が刻まれた石が建ち、中央奥に、上記の句が白文字で刻まれた句碑が建っている。


 小さな石庭、或いは枯山水の趣で、受ける印象は、なかなかに広大である。
 句碑裏には、「昭和三十三年四月二十一日 三回忌建之 吉田絃二郎友の會」とある。

 生前、吉田絃次郎は、この多磨霊園を愛していたという(「多磨霊園」より)。それを知れば、彼の霊園への思いを、よく表している様な句碑にも見えてくる。

 以上である。これ等二回に分けて紹介した十一の碑石と形像は、あくまでも私個人の感性による選択なので、大分偏向があると思うが、そこはご了承頂きたい。
 上にも書いたが、「歴史が眠る多磨霊園」さんは、私とは異なり、客観的かつ無偏見にまた緻密に全て(と思う)の碑石形像を紹介されているので、是非ご覧になることをお薦めする。私も大分参考にさせて頂いている(有難うございます)。「多磨霊園用語集」下のバナーからどうぞ。

*多磨霊園用語集

2017年長月10日
(取材は8月初旬・下旬)

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・この碑石形像のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・村越知世著「多磨霊園」、サイト「歴史が眠る多磨霊園」さんを参照させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*美保関事件:訓練そのものを実施した当時の加藤寛治連合艦隊司令長官は責任を問われなかった
*神通、那珂、葦、蕨:神通は川内型軽巡洋艦2番艦、那珂は3番艦(共に大正14年(1925)就役)。葦は樅型駆逐艦の15番艦、蕨は20番艦(共に大正10年(1921)就役)
*シーメンス事件、張作霖爆殺事件:前者は日本海軍高官とドイツのシーメンス社との間の贈収賄事件。後者は関東軍(満州駐屯の日本陸軍部隊)による満州軍閥張作霖の暗殺事件で、戦後まで真相が明らかにされなかった
*石庭(いしにわ)、枯山水(かれさんすい):どちらも石・小石・砂を用いて山水風景を表現した庭園。違いは良く解らないが、枯山水の方が水や植物を用いないことに厳格であるニュアンスであろうか

多磨霊園碑石形像 壱
 私が求めている、いにしえの建造物とは、大石灯籠同様、フィールドが異なるが、霊園散策者或いは掃苔家の方のご参考になるやもしれないので、碑石形像も幾つかご紹介したいと思う。古いもの、という事で言えば、同じでもあるし。

 まず、碑石形像(ひせきぎょうぞう)とは何であるか。またその設置の理由は如何なるものか。
 多磨霊園好き座右の書、元霊園所長の村越知世氏が著した「多磨霊園」に依れば、碑石とは「生前の治績を刻んだ」もの、形像とは「在りし日の温容をなつかしむことができる」ものである。また、これ等を設置した理由は、「閑雅で景趣に富む」多磨霊園は「故人の遺徳を偲び、先人の追想にふけるには最もふさわしい」場所であり、碑石形像の設置により造園的に見ても「景趣を一段と高め、墓地全体の品位を高めるものである」からという事である。東京市による霊園の計画段階の早い時期から、碑石形像設置は構想されていたようである。

 これ等碑石形像は、霊園正門から北西に向かい斜めに延びる「みたま堂・壁墓地通り」の、正門前ロータリーから5区公園横のロータリー辺りまでのエリアに、比較的密度高く分布している。他の場所にも点在するが、全体としては、拡張前の旧エリアの中であると言える。建つ場所としては、園路沿いや園路交差点またロータリー周縁など目立つところだ。ただし、場所的には目立っても、木立が繁っていたり、園路側に背を向けていたりなどし、碑石形像そのものは、目立たない場合もあり、見付けるには苦労することもある。
 では、以下に数多い碑石形像の内の一部だが、私の印象に強く残ったものを幾つかご紹介したい。順番は、単純に立地する区画の番号順である。

憶 鳥居龍雄君
府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍雄碑

府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍雄碑 府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍雄碑
2区 鳥居龍雄(1905-1927)

 人類学者鳥居龍蔵の長男で同じ人類学者。東京生まれ。大正12年(1923)パリに留学、昭和2年(1927)1月30日同地にて客死。
 みたま堂・壁墓地通りバス停付近の、碑石が園路両側に並び集中度の高い場所にあるが、この碑はデザインが秀逸で目を惹く。銅製半円形の胸像レリーフの下に銅板がはめられ、そこには、右横書きで、

 若き人類学者
 憶 鳥居龍雄君
 昭和二年一月三十日巴里に於て永眠

と刻まれている。
 父龍蔵は手記の中で、「私の学問も私の学問である。そして、私の学問は妻と共にし子供たちと共にした。これがために長男龍雄を巴里で失った」と記している(Wikipedia 斎藤正「鳥居龍蔵の業績」より引用しました)。

 石は花崗岩。背面にも何か碑文的なものがあったようだが、現在はその形跡のみ残る。
 日付的なものは見当たらないが、「歴史が眠る多磨霊園」さんには昭和3年(1928)建立とある。

 この碑のすぐ北隣りには、父鳥居龍蔵の記念碑が建つ。

鳥居博士記念碑
府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍蔵碑

府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍蔵碑 府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍蔵碑
2区 鳥居龍蔵(1870-1953)

 徳島出身。独学で学び、日本の人類学先駆者の一人となった人類学者。
 鳥居龍蔵と、多磨霊園設計者井下清は、親しい間柄であり、大正5年(1916)ともに郷土史団体「武蔵野会」(武蔵野文化協会の前身)を設立した。井下が東京市役所公園課職員時、芝公園で発見した埴輪を東京帝大人類学教室に持ち込み、鳥居らが現地調査を行なったことを機に親交を深めたとのことである(「1920年代の多摩地域における郷土史運動―武蔵野会を中心として―」岩崎清美 法政多摩論集32巻を参照させて頂きました)。
 龍蔵が亡くなったのは昭和28年、記念碑建立はその二年後の昭和30年1月。碑面には「鳥居博士記念會建」とあり、井下清が発起人となったものだそうだ(「歴史が眠る多磨霊園」さんより)。

府中市、多磨霊園碑石形像、鳥居龍蔵・龍雄碑
左奥が父龍蔵、手前が長男龍雄

 父の碑は、龍雄氏とは大分趣を異にする、石を薄く削り出し上部にタイトルを下部に碑文を刻んだ、よく見かけるオーソドックスなスタイルである(櫛型と言うのだろうか)。周縁には鑿(のみ)跡がそのまま残されている。

岩谷莫哀歌碑
府中市、多磨霊園碑石形像、岩谷莫哀歌碑

府中市、多磨霊園碑石形像、岩谷莫哀歌碑
2区 岩谷莫哀(いわやばくあい)(1888-1927)

 明治から昭和前期の歌人。本名は禎次。鹿児島県出身。明治44年(1911)短歌雑誌「車前草」に参加。大正3年(1914)歌誌「水甕(みずがめ)」創刊に参加し、のち経営に尽くす。大正5年(1916)出版社莫哀社を創業。歌集「春の反逆」「仰望」がある。大正8年(1919)より結核療養。

 自然石を用いた碑石は幾つかあるようだが、中でもこの重量感ある自然石は、針葉樹の立ち並ぶ中、可也の存在感を示し目を引く。鳥居父子の碑石とは、みたま堂・壁墓地通りを挟み向かい合うエリアにある。「ピラミッド墓」(今年十月までの命か)の並びである。
 碑面に、

 たへてきし これの月日の わひしさも なれてはうれし 松かぜのおと

の歌がある。
 裏側の、莫哀の略歴が記された碑文(昭和48年改修)には「昭和九年十一月 水甕社」とある(碑文は木の下闇で非常に見難い)。この水甕社とは、歌誌「水甕」の流れを継ぐ、短歌結社「水甕」のことの様である(間違えていたら御免なさい)。

直木三十五追悼碑
府中市、多磨霊園碑石形像、直木三十五碑

府中市、多磨霊園碑石形像、直木三十五碑
6区 直木三十五(1891-1934)

 本名植村宗一。大阪生まれ。昭和5年(1930)より新聞連載の「南国太平記」で成功。筆名を年齢に合せていたのは有名。大衆文学への貢献をたたえ、友人の菊池寛により、死の翌年、直木三十五賞が設立された(「直木賞」は通称)。

 賞の名は誰もが知るが、作家として知る人は少ないであろうか。私も彼の作品を知らない。
 碑石として、デザイン的に最も目を惹くものはこれではなかろうか。同心円を三つ重ねた様な台座に横に長い五角形の碑が乗っている。全体的には、ちょっとギザのスフィンクスの様に見えないことも無い。丈が低いので見付けにくいが、5区公園水場の道路を挟んだ向い辺り、ロータリーで言えば南側である。みたま堂・壁墓地通りから見た方が解りやすいと思う。
 碑文には、菊池寛の名と「昭和十年二月二十四日」の日付がある。

藤山雷太翁顕彰碑
府中市、多磨霊園碑石形像、藤山雷太碑

府中市、多磨霊園碑石形像、藤山雷太碑
6区 藤山雷太(1863-1938)

 佐賀藩出身。明治から昭和の実業家で、三井銀行、王子製紙、芝浦製作所(のちの東芝)、東京市街電鉄、大日本製糖などに関与。中央の銅製レリーフの周囲には、彼の関わった多くの企業や事業を表す、汽車や天秤、石臼また本など石のレリーフがある。台湾で原料糖事業を行ったので、本人の背景には、沖縄から台湾にかけての地図が描かれている。明治38年(1905)より、母校である慶應義塾の評議員も務めた。長男は、岸信介内閣で外務大臣を務めた藤山愛一郎。

 全ての碑石形像を見た訳ではないが、敷地の広さも碑石の大きさも最大級であると思う。場所は直木三十五追悼碑の、みたま堂・壁墓地通りを挟んだ向かい角。木立ちが繁ってはいるが、ロータリー側からならば一目瞭然だ。
 レリーフ横の略歴には、「昭和十四年十二月」の日付がある。

 「弐」につづく

*多磨霊園用語集

2017年長月9日
(取材は8月初旬・下旬)

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・この碑石形像のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・村越知世著「多磨霊園」、サイト「歴史が眠る多磨霊園」さん、徳島県立鳥居龍蔵記念博物館HPを参照また一部引用させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*水甕社:東京都中野区にあるようだ。短歌結社「水甕」のオフィシャル・サイト(水甕の歴史)を拝見するとこの「水甕」はまさに莫哀が関わった「水甕」である

多磨霊園16区水場
 比較的園外の住宅地からの距離が近く、奥まった雰囲気がやや薄い所為か、今まで彷徨くことが少なく、ご紹介することもなかった、名誉霊域通り以東のエリアで、いにしえの水場を発見した。

府中市、多磨霊園16区水場
16区水場

 例よって木立に囲まれ、見過ごしてしまいそうだが、その墓石とは異なる特徴的なシルエットは、私の目からは逃れられない。
 その場所は、以前紹介した大石灯籠の南東に位置する16区。その区画南東の角である。

府中市、多磨霊園16区水場
水場向いの標識

 これまで紹介してきた水場が設けられた区域―大正末から昭和一桁の頃に使用開始された場所―よりは、昭和13年(1938)9月と少し後に使用が開始された場所である為か、明らかにこれまで見てきた水場とは、少し系統が異なる。3区4区の水場たちは、いろいろと意匠は凝らしながらも、水場と言うものの機能に徹していた感があったが、これは可也モニュメント的である。中央の「塔」など百パー「飾り」である。

府中市、多磨霊園16区水場
正面

 正面からの姿が左右対称と言うのは、3区の「立方体」水場と同じだ。
 他方向からも、彼是。

府中市、多磨霊園16区水場
斜め

府中市、多磨霊園16区水場 府中市、多磨霊園16区水場


府中市、多磨霊園16区水場
後ろ
16区水場彼是

 定規で引いたようよな直線と曲線のシンプルな組み合わせは、これも一応アール・デコ調なのであろうか。
 それにしても、なんであろう。何となく何かを連想するフォルムなのだが―。両側の張り出し部分は翼の様にも見えるし、塔は長い首の様でもあるし―。ハクチョウ?
 そう思ってみれば、正面の姿は、水面を進むハクチョウの後姿の様にも見える。後ろからは此方に進んでくるハクチョウの正面の姿の様にも見える。様な気がする。
 いや、ハクチョウじゃなくてダチョウか?翼を広げて疾駆するダチョウの上半身の様にも見える。そう思ったら、今度はダチョウにしか見えなくなった。
 ただ、この水場は全高と全幅は何方も約285cmあり、ハクチョウにしろダチョウにしろ、此方の方が可也デカい。

 まあ、モチーフは何であれ、この建造物、季節柄もあるが、密林で朽ち果てた遺跡の様な趣きだ。水場本体部分など、完全にツユクサの群落に埋め尽くされている。リュウノヒゲの一株も、立派に育っている。

府中市、多磨霊園16区水場
水場本体部分

 水場の下にある穴は、排水口なのであろうか。

府中市、多磨霊園16区水場
排水口?
補修の跡がある

 上にも書いたように、見たところ実用性はなさそうな塔部分であるが、此方は高い位置にある所為か、左程朽ちてはいない。

府中市、多磨霊園16区水場
塔部分

 この塔部分が生む全体的なモニュメント風の印象は、5区水場に共通するともいえる。彼方の「光背」もモニュメント感が強い。共通と言う事では、一部にタイルを用いているところは、13区給水塔との共通する。ただ彼方のタイルは、水跳ね除けと言う実用も兼ねているようだが、此方はそうした性質はなく本当に飾りであろう(と思う)。

 当建造物は、塔も水場部分も含めて表面全体に、クリーム色の材がコンクリートの上に張り付けられているのだが、あちらこちらに剥離が目立つ。またコンクリートのヒビやワレも大分目立つ。

府中市、多磨霊園16区水場
剥離やワレ

 このままでは、本当に風化し果ててしまいそうだ。早急なメンテナンスを施して頂きたいと、そう考えたくなるコンディションである。風化危惧IA類と、判定したい。

 この水場が生まれたのが何時であるかは確定できないが、16区使用開始頃に作られたと仮定すれば、そろそろ竣功から80年。完全な「歴史的建造物」である。昭和戦前期の匂いを今に伝える、希少な存在だ。

*付録
多少誤差があるのを予めお断りさせて頂くが、一応の計測値を参考までに記載します。方位も、通常のアナログ方位磁石での計測値ですので、あくまで参考的なものとお捉え下さい。
上部(塔):高さ約182cm、幅約20cm、奥行約42cm
全体幅:約285cm
下部(水場):高さ後部約103cm、手前約50cm 深さ後部約54cm、手前約44cm 枠幅約15cm
下部(水場):中央半円形部分幅約85cm
排水穴(?):幅約5cm
左右突き出し部:正面幅約40cm、高さ約64cm 上下枠厚さ約12cm 枠間奥行約25cm
背面:中央幅約36c
磁北に対する角度:正面は西に約35度ずれ(アナログ)

*多磨霊園用語集

2017年長月7日
(取材は8月初め)

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・この水場のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*歴史的建造物:「建設後50年を経過」していることが条件とされる場合が多い

多磨霊園5区東京市養育院合葬塚
 もう、今から一年八ヶ月も前の取材なのだが、載せそびれてそのままになっていた。しかし「多磨霊園用語集」を作成しているうち、載せる必要を感じたので、この度書くこととさせて頂いた。状態その他、取材当時と現在、何ら大きな変化はない。季節は現在とは真逆な真冬時であるが、ご容赦願いたい。物件は、無縁合祀墓所(むえんごうしぼしょ)である。

 身寄りのない方々を無縁仏として埋葬した無縁合祀墓所。5区の西部、大廻り西通りと西2号通りが交差する付近の大廻り通りに面して、全七基が並んでいる。前回紹介した水場がある公園の、その西側にあたる。

 以下に七基の内訳及び建設年を記す。

 1 東京都行路病者(納骨堂より) 昭和18年
 2 青山墓地無縁 昭和10年3月
 3 東京市(都)養育院死亡者 昭和5年3月
 4 亀戸墓地無縁 昭和4年7月
 5 橋場墓地無縁 昭和2年3月
 6 多磨既設合葬地(17区より) 昭和14年9月
 7 多磨霊園無縁 昭和36年3月

 村越知世著「多磨霊園」によると、3は東京市(当時)養育院が建て、同院の死亡者を埋葬したもの。4、5は両墓地が廃止された際に当霊園に移されたもの。6は青山墓地の無縁仏を当霊園17区に埋葬してあったものを改めて移したもの。7は当霊園内で墓地整理により生じたものを埋葬したもの。等であるそうだ。1と2については詳細は記されていないが、1はおそらく園内にあった納骨堂から移されたものであろう。納骨堂は、基本的には一般利用者の遺骨を短期間保管するものだが、無縁の遺骨も保管していたのだそうだ。2は「歴史が眠る多磨霊園」さんによれば、おそらく当霊園17区に移されたのちに青山墓地から出た無縁仏であろうとされている。

   この中で、養育院死亡者を埋葬した「東京市養育院合葬塚」をご紹介したい。

府中市、多磨霊園5区、養育院合葬塚
左に「昭和五年三月 成」とある
(造形的にはやはりアール・デコ調であろうか)

府中市、多磨霊園5区、養育院合葬塚
「塚」には土へんが無い

 養育院は、明治5年(1872)に困窮者、病者、孤児、老人また障害者の保護・救済のため政府が設立したもので、のち明治9年(1876)に東京府営、明治23年(1890)に東京市営そして昭和18年(1943)に東京都営となった。初期(明治7年)から運営に関わった渋沢栄一(1840-1931)が、東京市営となって後、初代の院長を務めた。
 昭和61年(1985)、東京都老人医療センターとなり、現在は東京都健康長寿医療センターとして運営されている。設立当初は本郷の加賀藩邸跡(現東大)にあったが、関東大震災以後は板橋区にある。
 由来碑(養育院を語り継ぐ会、東京都福祉保健局)によると、多磨霊園には昭和8年(1933)以降、引き取り手のない遺骨を埋葬しているそうだ。

府中市、多磨霊園5区、養育院合葬塚
左は養育院由来碑

府中市、多磨霊園5区、養育院合葬塚
中央に「帰入無為楽」とある

 塚前面にある「帰入無為楽(きにゅうむいらく)」だが、意味が気になってネットで調べたが、造語であるのか、ヒットしない。よって、自分なりに意味について考えてみた。
 先ず「帰入」だが、これは元いた所に戻る事を意味する。次に「無為」。これは「無為無策」などに使われる意味のものではない仏教語で、悟りの境地や安らぎの境地、また釈迦の死であるところの入滅も意味する「涅槃(ねはん)」つまりニルヴァーナと同様な意味、消滅変化しない絶対的真理のこと。そして「楽」は、心身に苦痛なく快くやすらかなこと、である。
 以上からすると、「帰入無為楽」は、無為の楽に帰り来る、つまり、苦多き人々が、身も心も安らかなる境地に戻る、その事を願う思いを表したものであろう。

 こう彼是、この合葬塚について書いているうちに思い出した。なぜ二年前の冬ここを訪れたのか。それは何日か前に、養育院に関するテレビの報道番組(TBS「報道特集」)に接したからである。
 養育院は元来生活困窮者や身寄りのない高齢者などを救済するための施設であったが、WW2中から戦後にかけ、戦争孤児の保護を行うようになった。その中で、多くの乳幼児を含む子供たちが栄養失調で亡くなり、遺体はそのまま穴に埋められていた。それを戦後になって掘り起こし、多磨霊園の合葬墓に埋葬した―。
 このことを知り、あそこの事か、と思い当たり、この合葬塚を訪ねたのだ。

 戦争孤児は、戦争により両親を亡くした子供全般を指す(空襲や戦闘などで孤児となった場合は戦災孤児と呼ぶ)。昭和23年(1948)の厚生省調査では、沖縄を除く孤児の数は123,511人で、内身寄りのない者は7,117人となっている。
 東京では、学童疎開中などを含め親を空襲で失くし孤児となった子供が多くいた。そうした子供のひとり、昭和20年4月13日の東京北部への夜間空襲で目の不自由であった母親を失い、養育院に入った当時14歳であった男性の方の証言によると、養育院では大部屋で多くの孤児が暮らし、空腹の中、畑の掘り残しのイモや、焼いたセミを食べたそうだ。養育院と言えども食料は満足ではなかったのだ。
 この方は、養育院を抜けだしたそうだが、同様に食べ物と自由を求め、鉄条網の張られた塀を乗り越え養育院を逃げ出した子供たちは多かったという。国は、困窮の結果犯罪に手を染める孤児もいたため、治安対策の目的も持ち、孤児たちを無理矢理施設に収容する場合も多かったのである。

 日本においては、戦争被害に対する国による補償は、軍人・軍属及びその遺族に対するものが主で、孤児や空襲被災者を含め、民間の戦争被害者に対する補償は一部(引揚者・原爆被爆者など)を除いて行われていない。

*多磨霊園用語集

2017年葉月15日
(取材は2015年師走)

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・この墓所のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・村越知世著「多磨霊園」、サイト「歴史が眠る多磨霊園」さん、サイト「戦争孤児(日本)」さん、「焦土に残された12万人超の戦災孤児」(産経ニュース)、「TVでた蔵」を参照させて頂きました。また一部引用させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*東京都(市)養育院:板橋の他に千葉の安房分院、栃木の栃木分院があった
*渋沢栄一:名主の家に生まれ、のち幕臣となる。維新後政府に出仕。官僚また実業家として経済近代化に大きく貢献した。理化学研究所創設にも関わった。また社会活動にも熱心であった。
渋沢栄一記念財団HPの詳細年譜、明治23年(1890)1月1日の条には、
東京市制の施行に因り、是日より当院は東京市の管理に帰し、東京市養育院と改称す。当院事務掌理の為常設委員設置され、栄一、委員長を命ぜらる。
とある。この常設委員長が院長に当たるのであろう
*戦争孤児の数:内訳は空襲などの戦災による孤児が28,248人、引き上げ孤児が11,351人、病死などによる一般孤児が81,266人(朝日新聞「キーワード」より)。孤児の中で所謂「浮浪児」および養子となった子供は算入されていない
*補償:外国人戦争被災者に対しても行われていない。なおイギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどは軍人、民間人、外国人の区別なく補償の対象となっている(全国空襲被害者連絡協議会HP参照)

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

多磨霊園5区公園水場
 4区下げ花置き場の記事で触れた5区の公園にある、いにしえの建造物だ。

府中市、多磨霊園5区公園水場
5区公園内建造物
東寄り斜めから

 この建造物、公園脇にある案内図では、「記念碑」と書かれている。

府中市、多磨霊園5区公園案内図
案内図

 確かに記念碑的雰囲気は醸し出しているが、しかし、「歴史が眠る多磨霊園」さんでも指摘されているように、水場であろう。ただ、水場と言っても、3区や4区などの、お参りのための水汲み用水場とは異なる、水飲み場であった様な気もする。墓域ではない公園と言う場所柄、現役水飲み場がすぐ横にある、そしてその形がどことなくローマの街角にある水飲み場(ローマ行ったこと無いけど)っぽくもある、という、それだけの根拠で言っているので、気にしないで頂きたいが。

府中市、多磨霊園5区公園水場
公園水場
正面から
足場は何故かやや左にずれる

 下の馬蹄形部分は、叩いてみると解るが、明らかに中は空洞である。おそらくは、2区や4区の「四角」水場同様、使われなくなって後、水がたまる部分に、蚊対策で蓋をしたのであろうと思う。なので、裏側に枡もある事だし、水飲み場かどうかは別とし、少なくとも「記念碑」ではなく水場であることは確実と思う。

府中市、多磨霊園5区公園水場
公園水場

 公園はランチに最適なため何度も訪れており、当然この建造物も目にはしていたのだが、なぜか今まで、気にならなかった。上部の仏像の光背の様な垂直部分のフォルムが何処となくモダンで、何とはなしに最近の建造物であろうと思っていたのだ。しかし、改めてよく見ると、いやいや、結構古そうではないか。

府中市、多磨霊園5区公園水場 府中市、多磨霊園5区公園水場
公園水場
横から、裏から

 いつ頃のものであろうか。
 具体的な資料が何もないので、判断に困る。ただ、あくまでも私の印象だが、間近で眺め、手で触れた感触は、3区や4区の水場よりは、多少新しそうな気はする。デザインの系統も、他の大正・昭和初期の「アール・デコ調」建造物群とは、若干異なる様な気もしないではない。
 だけれども、それ相応な風雪は越えていそうな風化具合だ。

 この水場のある5区の使用開始は、昭和3年(1928)5月と昭和22年(1947)5月となっている。この建造物が水飲み場であると仮定すれば、その性質上、公園開設と同時に作られた可能性が高い。問題は、公園が何時の時点で作られたかだ。
 昭和3年に作られたのか、或いは昭和22年の新たな区画使用開始時に作られたのか。
 私個人の感覚としては、上にも書いたように、他の古い水場よりは多少後の時代のものであるように思うので、昭和22年説を取りたい、気がする。
 5区は十字にクロスした通路によって、公園を含め四区画に分割される。この四つの内、「側」の番号を見ると南側で左右に並んだ二区画の方が北側の区画より番号が若いので、おそらく此方が先に使用開始されたのではなかろうかと思う。北側のあとから使用開始されたと思しき区画の隣が公園なのだ。ここを見ても、私としては、昭和22年説を取りたい。

 勿論、以上は、水飲み場説も含めあくまで私の推測で、確言は全くできない。5区使用開始当初からあったものかもしれないし、水飲み用ではなく、他の水場同様水汲み用かもしれない。

 子細に見ると、上部「光背」正面の溝下部に、錆びた金属パイプのようなものが見えている。

府中市、多磨霊園5区公園水場
「光背」溝上部

府中市、多磨霊園5区公園水場
「光背」溝下部
三角の窪みの奥やや上にパイプ?

 これが水出口とすると、水飲み用としては位置が低すぎるので、矢張り水汲み用の水場であったのかもしれない。
 扇型の足場に立ち、参拝の方々が水を汲んだのであろうか。

府中市、多磨霊園5区公園水場
足場

 「風化危惧II類」に判定。この水場も、是非修理・修復をお願い致したい。

府中市、多磨霊園5区公園水場
公園水場
北寄り斜め

 ローマの水飲み場みたいと上で書いたが、こう眺めると、馬蹄形部分を台座に、仏像が乗っていてもおかしくはない様な、そんな日本的(仏教的か)デザインにも見えてくる。

 墓地と言うものは、場所柄宗教的影響の強く出る場所だ。なので、われわれが日本にある外国人墓地に、エキゾチックなものを強く感じる様に、多磨霊園など或る意味一般の街並みよりも日本的な雰囲気を外国人旅行者の方々などには感じられる場所かもしれない。霊園はあくまで慰霊・参拝の場であり観光スポットではないので、ご批判もあるかとも思うが、日本の文化や習俗を知り理解してもらうための一助として、その辺りへのアピールもあっても良いのかな、と思ったりもする。
 何れにせよ、今回紹介したような園内建造物含め、霊園自体が希少な歴史・文化遺産である。是非整備あるいは修復をして、国内外問わず、多くに人びとに親しんでもらえるようにして頂きたいと、思うのだ。

*付録
全高:約178cm(基壇含む)
上部全幅:上辺約86cm、下辺約140cm
上部厚さ:約15cm
上部裏面突起:幅約32cm、高さ約30cm
上部正面溝:幅約30cm、深さ約26cm
基壇幅:約182cm
基壇奥行:約160cm
基壇高:約32cm
基壇下幅:70cm前後
足場:手前幅約72cm、奥幅約48cm、奥行約72cm
磁北に対する角度:正面は東に約55度ずれ(アナログ)

*多磨霊園用語集

2017年葉月11日
(取材は7月下旬)

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・この水場のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・「歴史が眠る多磨霊園」さんを参照させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*ローマの水飲み場:Nasone(ナゾーネ)と呼ばれ2,000以上あるとか。1874年、当時の市長が設置したらしい。様々な形態があるので似てないものは全く似てないが
*光背:仏身から放たれる光明を表したもの。後光

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

多磨霊園大石灯籠

府中市、多磨霊園大石灯籠
大石灯籠
南より

 弥(いや)が上にも目を引く巨大なものなので、この石灯籠、以前から当然見知っていた。しかし、他の今までここで紹介してきた建造物達とは、明らかにフィールドの異なるもので、なかなか採り上げる気にならなかった。
 オリジナルによるデザインで、霊園関係者の方が霊園のために生んだ塔や水場等とは異なり、灯籠は既存のものであり、しかもそれを巨大化して・・・、何と言って良いのか・・・、そう、失礼を承知で敢えて率直に言わせて頂けば、あまり良い趣味のものとも思えなかったのだ。また、外部から持ち込まれたものであり、霊園との有機的な繋がりが希薄で、取って付けたような違和感も覚えていたのだ。
 なのだが、今回、この石灯籠前を通りかかると、スマフォが、この灯籠がポケストップであることを通知してくれた。そして、それ切っ掛けでつらつらと眺めているうちに、興味が湧いて来たのだ。今まで気づかなかったが、面白い存在、無視を決め込むのは勿体ない存在ではないか、と。

 冒頭にも書いたように、この灯籠、霊園オリジナルではなく、根津嘉一郎氏(1860-1940)の寄進によリ置かれたものである。
 根津嘉一郎(ねづかいちろう)さん、と言ってもご存知の方は少ないであろうが、東武鉄道社長などを務め、明治から大正・昭和にかけ活躍した実業家である。商の青銅器(一見の価値あり)や、国宝「燕子花図屏風」(尾形光琳)で有名な、あの、東京南青山にある根津美術館の収蔵品の多くをコレクションしていたお方である。

府中市、多磨霊園大石灯籠
南西寄りから

 その嘉一郎氏が生前寄進しその死の五か月後に設置された大石灯籠、「多磨霊園」(村越知世著)には、高さ四十尺(一尺は約30.3cm)とあるので、約12m程と言うことになる。後ろのケヤキと比べて頂けば、その大きさはイメージし易いのではなかろうか。近くより仰ぐと、その重量感と圧迫感は、なかなかのゴリ押しメタル級である。

府中市、多磨霊園大石灯籠
西寄りから

 石灯籠本体や台座には、種々刻まれた文字が見られる。
 表には、

 萬霊 供養
 増上寺徹水拝書

裏には、

 昭和十五年 六月建之

とそれぞれ刻まれている。
 昭和15年と言えば1940年、日中戦争只中、太平洋戦争開戦の一年前。可也の星霜をこの霊園で経ているが、その割にはコンディションは良好の様に見受けられる。

府中市、多磨霊園大石灯籠 府中市、多磨霊園大石灯籠
表と裏

 横上部を見ると、

 寄進人 故 根津嘉一郎
 相続人 根津藤太郎

その下基部には、

 根津家工事監督
 松崎金太郎

とある。

府中市、多磨霊園大石灯籠 府中市、多磨霊園大石灯籠
横上部と下部

 これ等に見られる名前は、「徹水」は増上寺81代法主の大島徹水氏、「根津藤太郎」は後の二代目嘉一郎氏、また、「松崎金太郎」は嘉一郎氏(初代)の実家庭も手掛けた青山の造園家の方だそうだ(武蔵学園記念室支援サイトさん他を参照させて頂きました)。

 種々のタイプがある石灯籠の中でこれは何型なのかは分からないが、全体に装飾がシンプルな印象だ。笠に蕨手(わらびて。先端が巻込んだ形)と呼ばれる意匠もないし、火袋(火を灯す部分)下の中台にも基礎部分の台座にも何の飾りも彫り込まれていない。確かに、この大きさで装飾が普通にあったら、少々くどいかもしれない。
 大きさと言えば、こちらが日本一の大石灯籠かと思いきや、京都の庭園(レストラン)「高瀬川二条苑」にある「吾妻屋風灯籠」が高さ13mで日本一なのだそうだ。惜しい。

 ところで、この石灯籠の、材は一体何であろうか。鉱物学的知識もないので良く解らない。しかし、ヒントとなりそうなものが裏下部にある。

 石工 出口福松
 香川縣小豆郡豊島村工場 作

 と、銘が刻まれているのだ。

府中市、多磨霊園大石灯籠 府中市、多磨霊園大石灯籠
作者銘と「豊島村」アップ

 ここにある、小豆郡豊島村(しょうずぐんてしまそん)は現在の小豆郡土庄町(とのしょうちょう)に含まれる豊島(てしま)で、「豊島石」という古第三紀系の角礫凝灰岩の産地として有名な島。豊島石を使った「豊島石灯籠」は地域ブランドとなっているという。こうした石灯籠は、桂離宮(京都)や後楽園(岡山)などに多く置かれており、また白峯寺十三重塔西塔(元享4年(1324) 香川)、家浦八幡神社鳥居(文明6年(1474) 豊島)、往来神社鳥居(延徳2年(1490) 岡山)など、灯籠以外にもこの石を使ったものが各所に残されているそうだ。
 これらを見ると、その作られた場所からして大灯籠は豊島石製であろうと思いたくなる。しかし、疑問もある。この石は火には強いが水に弱く風化しやすいそうだ。そうした余り強固ではない石で、この様な超ヘヴィ級の石灯籠を作るものだろうか。それに、「角礫」と言う割には礫(小石)らしきものは見えない。色合いなどからして花崗岩のようにも見える。然し花崗岩なら、わざわざ豊島で作る必要性が解らない。それとも、上部は豊島石で力の掛かる台座部分など下部は花崗岩なのだろうか(アップ写真など花崗岩っぽい)。
 あれこれ考えても、鉱物に関しても灯籠に関しても全くのトーシローゆえ、何製であるのか、折角のヒントがあったのに、私には答えが見つけられない。
 しかし何れにしろ、この巨大な石灯籠を瀬戸内海の島から東京まで運んだのか、すごいな。と思ったのだが、考えてみれば、石灯籠が霊園に置かれた昭和15年当時は、あの「大和」「武蔵」建造真っ只中の頃である(大和は昭和11年(1936)起工、昭和16年(1941)就役。武蔵は昭和13年(1938)起工、昭和17年(1942)就役)。それを思えば、この石灯籠を運び組み上げるくらいは驚くに当たらない事である。余り昔をなめては失礼だ。

 最後に、大石灯籠の建つ場所であるが、シンボル塔の北、名誉霊域通りと東4号通り・西4号通りとが交差するロータリーの中である。正門(南門)から入れば真っ直ぐ正面方向であるから非常に解り易い。ロータリー内にはベンチが幾つか置かれ、中に立ち入れるようになっている(灯籠北側は植木と植木の間にほぼ全てと言ってよいくらい、まだ大分小柄だがジョロウグモの網が張られており、巣を破壊せずに接近するのは、なかなかに難儀なかことであった)。
 私は知らなかったが、石灯籠は元からこの場にあったのではなく、元は正門近くにあったようだ。平成15年(2003)年、その場所に合葬式墓地が新設される際、現地点に移設されたらしい。
 然し、偶然か、その移った場所は、寄進者である根津嘉一郎氏墓所のすぐ傍らなのだ。墓所は石灯籠南、距離にして40mほどの所だ。

府中市、多磨霊園、根津嘉一郎(初代)墓 府中市、多磨霊園、根津嘉一郎(初代)墓
初代根津嘉一郎墓所と五輪塔

 この隣、正面から見て右手(石灯籠側)の大分すっきりとした墓所は、初代の遺志を受継いだ二代目嘉一郎氏のものだ。

府中市、多磨霊園、根津嘉一郎(二代)墓 府中市、多磨霊園、根津嘉一郎(二代)墓
二代目根津嘉一郎墓所と卒塔婆

 一見、右手と左手何方が初代のお墓か解り難いが、五輪塔の一番下の立方体「地輪」の横に、

 根津嘉一郎
 昭和十五年一月四日寂

と彼の命日が刻まれているので、左手側墓所が初代で間違えないであろう。

*多磨霊園用語集

2017年葉月7日
(取材は7月下旬)

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・この大石灯籠のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・「歴史が眠る多磨霊園」さん、「文化財としての讃州 豊島石」(香川大学工学部)、を参照させて頂きました

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*根津美術館:1940年二代目嘉一郎氏が初代没後に財団を設立し翌年開館。オフィシャル・サイトには、2016年3月末時点での収蔵品は7,420点、1940年の財団設立当時は4,643点とある
*商(しょう):紀元前16世紀頃から前11世紀頃まで続いた中国最古とされる王朝。「殷(いん)」と呼ばれることが多い
*豊島村:昭和30年(1955)周辺の村と共に合併され現在の小豆郡土庄町となる。豊島は、1980年代大量の産業廃棄物投棄問題が起こった。現在島には豊島美術館がある
*角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん):どの様なものか詳細は分からぬが、角礫は砂よりは大きい岩石の破片、凝灰岩は火山灰などが固結した堆積岩であるので、角礫を含む凝灰岩、ということであろうか
*古第三紀(暁新世・始新世・漸新世):6,600万年前から2,303万年前。豊島石が生まれたのは約3,000万年前
*白峯寺(しらみねじ):真言宗。四国八十八箇所霊場第八十一番札所。保元の乱(1156)で配流された崇徳上皇は当地で荼毘に付され陵墓が設けられた。十三重塔は東塔・西塔ともに国指定重要文化財。西塔は高さ562cm
*家浦八幡神社、往来(ゆきき)神社:前者の鳥居は県最古の豊島石製鳥居で県指定文化財、後者の鳥居は高さ276pで県指定文化財
*寂(じゃく):仏教の僧が亡くなることを指す語だが、初代は仏門に入っていたのであろうか

九州北部豪雨に伴うどうぶつ救護本部

多磨霊園3区水場
 今まで多磨霊園で出会い、そしてご紹介してきた水場とは大分異なる形態の水場を発見した。

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
新たに発見した水場

 場所は3区1種10側辺り。以前紹介したアイボリー塗装の「現役水場」の北、3区北東角。西1号通り・東1号通りとバス通りが直交し、且つ、みたま堂・壁墓地通りが斜めに交わる場所、その横だ(霊園南七号地バス停近く)。

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
標識

 これまで採り上げてきた水場は、四角であれ八角であれみな左右対称形のシンプルなものであったが、これは非対称で且つ結構ザツフク(複雑)。

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
北東面

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
南東面

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
北西面

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
北面

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
南西面
3区水場(風化危惧IB類か)
机かソファーのようにも見える

 水の出口のある側を正面とするなら、此方及びその裏は左右対称か。
 全体的には、立方体を幾つも積み重ね組み合わせた様な感じで、そう見れば、意外とシンプルなアール・デコ調か、これも例にもれず。

 全体に地味な印象は拭えないが、よく見ればいろいろ細かい意匠が施されている。
 中央の柱は、大分剥がれ気味だが白い材が表面に張り付けられているし、解り難いがその柱のバックとなっている面には、左右対称に四角い窪みが設けられている。

府中市、多磨霊園3区水場(立方体) 府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
中央柱および周辺

 また、上段のテーブル様長方形部分や、中段の左右張り出し部分の上面は、周縁部と中心部とでコンクリートの質を変えるという凝ったこともされている(建築関係の知識はゼロなので如何言ったらよいのか良く解らないが)。

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
上面

 然しこの水場、よくよく見れば、小金井門水場の中央に三つある蛇口部分(中央は使われていないが)の一つを取り出し独立させ、一寸捻ってコンパクトに纏めた、様な感じもしないではない。少なくも立方体と直線の組み合わせは、底流での共通性を感じさせる。
 小金井門水場のある北門(小金井門)が作られたのは、昭和5年(1930)頃なので、水場も同じ頃作られたと考えても無理はない。すると、この3区水場と作られた時期は数年程度の違いであろうから、同一デザイナーさんが手掛けたと考えても左程強引ではないと思う。

 ここで、水場の作られた時期を、小金井門水場と数年違いとしたその根拠だが、それは水場のあるこの3区の使用開始時期が、大正14年(1925)3月だという事である(前回の下げ花置き場と同じ年だ)。普通に考えれば、墓域使用開始と同時に、参拝者の便宜のため水場を作ったという事になろう(多少遅れて作られた可能性は有るが、だとしてもそれほど間は空いていないと思う)。
 もし私の考察がスルドければ、齢(よわい)92、となる。可也のご高齢である。コンクリートの表面は可也ざらつき、角々も欠けが目立つ。しっかりとしたメンテナンスが望まれるところだ。
 シンボル塔、小金井塔、そして最近メンテナンスされた11区噴水塔の様に目立つ存在だけでなく、出来得れば、こうした地味目な霊園メンバーも、ケアしてあげて頂きたいな。

 ここでちょっと、今までご紹介してきた、墓石を除く霊園内「いにしえ」建造物の竣功年を、整理してみたい。公式に作られた年が解っているのはシンボル塔のみなので、他はその建造物が建つ区画の使用開始年からの推測であることを、お断りさせて頂く。ご了承願います。

 ・2区焼却炉:大正12年(1923)頃(2区使用開始は大正12年6月)
 ・2区水場(四角):大正12年(1923)頃(2区使用開始は大正12年6月)
 ・3区水場(四角):大正14年(1925)頃(3区使用開始は大正14年3月)
 ・3区水場(立方体):大正14年(1925)頃(3区使用開始は大正14年3月)
 ・4区水場(四角):大正14年(1925)頃(4区使用開始は大正14年4月)
 ・4区水場(八角、タイル無し):大正14年(1925)頃(4区使用開始は大正14年4月)
 ・4区水場(八角、タイル有り):大正14年(1925)頃(4区使用開始は大正14年4月)
 ・4区下げ花置き場:大正14年(1925)頃(4区使用開始は大正14年4月)
 ・12区水盤:昭和4年(1929)頃(12区使用開始は昭和4年6月)
 ・シンボル塔:昭5年(1930)6月
 ・小金井門塔:昭和5年(1930)頃から昭和10年(1935)頃の間(北門開設時頃か)
 ・小金井門水場:昭和5年(1930)頃から昭和10年(1935)頃の間(北門開設時頃か)
 ・13区給水塔:昭和7年(1932)頃(13区使用開始は昭和7年(1932)6月)
 ・11区噴水塔:昭和9年(1934)頃(11区使用開始は昭和9年7月)

 霊園内「いにしえ」建造物と言えば「アール・デコ」のイメージがあるが、こうしてみると皆全てアール・デコ調、と言えるのかどうか、俄かには判断しかねる。
 アール・デコは1910年代頃に生まれ、その名の由来ともなった1925年にパリで開かれた「現代産業装飾芸術国際博覧会」(アール・デコ博)を切っ掛けに、世界的なムーヴメントとなったそう。1925年と言えば大正14年。上のリストから見ると、焼却炉及びその元となったと思しき下げ花置き場や水場群は、年代的には微妙なラインか。素より、年代だけで括ること等はナンセンスかもしれない。しかし、建築トーシローの私には、それくらいしか判断上頼るものが無いので重視せざるを得ない。
 ただ、そのトーシローなりの感性で言わせて頂くと、如何であろう、予算等問題は有るであろうが、大正末期から昭和初期と思しき頃に作られた、この味わい深き園内建造物をみなメンテし、「多磨霊園―アール・デコの園」等銘打って(ダサいか)、アピールしてみたら。緑豊か、サクラ・紅葉が見事、著名人の墓所が多い、バードウォッチングに好適、静か・・・などなどに加え、霊園に、新たなスポットとしての価値が生まれる、かもしれない。

府中市、多磨霊園3区水場(立方体)
東面
どうぞ、メンテを宜しく

 深き樹叢の点在する広大なる霊園。いにしえの建造物とは、まだ、これからも出合う可能性はありそうだ。ポケモンの様に、突如現れるかもしれない。その際は又、ご紹介したいと思う。

*付録
多少誤差があるのを予めお断りさせて頂くが、一応の計測値を参考までに記載します。方位も、通常のアナログ方位磁石での計測値ですので、あくまで参考的なものとお捉え下さい。
全体幅:長辺(横)約195cm、短辺(縦)約137cm
上部長方形部分:長辺(横)約133cm、短辺(縦)約67cm
上面周縁部分幅:約18cm
全高:約70cm
中央柱高:約51cm
中央柱上面:長辺(横)約20.4cm、短辺(縦)約17cm
水出口径:約2.4cm
磁北に対する角度:長辺(横)は西に約36度ずれ(アナログ)

*多磨霊園用語集

2017年文月21日
(取材は7月上旬)

――――――――――――――――

・この水場のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*白い材:一部のみ白くするのは11区噴水塔頂部装飾とも共通するか
*アール・デコ:直線的で単純なデザインが特徴

九州北部豪雨水害被災動物寄付金募集(ペット災対協)

多磨霊園4区下げ花置き場
 多磨霊園でまた、いにしえの建造物を発見した。場所は4区。以前紹介の「タイル有り」水場の、大廻り西通り園路を挟んだお向かいの角である。今まで全く気付かなかった。

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
解り難い

 針葉樹の木下闇(こしたやみ)に、半ば埋もれるかの様なグレーなコンクリート構造物。気付かないのも無理はないか。
 位置は、

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
標識

4区1種35側辺りで、区画の隅。霊園案内図を見ても分かるが、ほとんどの区画でこうした角部分には、お供え終わった花「下げ花(さげばな)」の置き場が設けられている。これも一見して下げ花置き場である。

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場 府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
4区「下げ花、卒塔婆、剪定枝置場」

 しかし他の場所の下げ花置場は、杭で簡易に囲われているのが普通で、時に竹垣で囲われている程度がせいぜい。この様にしっかりとした構造物などは見たことが無い。

府中市、多磨霊園2区下げ花置き場
2区下げ花置き場 杭のみ

府中市、多磨霊園7区下げ花置き場
7区下げ花置き場 竹垣あり

 これ等二例は大分整備されている方で、杭も少なく且つ何本かは倒れている様なものや、全く囲いすらない場所も結構ある。

 この例外的に頑丈そうな下げ花置き場も、他の霊園内建造物同様、可也古そうである。4区の使用開始時期は、大正14年(1925)4月となっているが、おそらくはその頃作られたものであろう。とすれば、築92年である。初期の頃の区画には、皆こうしたものが置かれていたのであろうか。

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
4区下げ花置き場(風化危惧IB類か)
北面

 滅多にいらっしゃらないとは思うが、このサイトの多磨霊園絡みの記事をお読み頂いている方であれば、何処かで見た様な・・・、と思われるのではなかろうか。そう、この置場、昨年秋紹介した2区焼却炉の下半分にクリソツなのだ。
 2区の使用開始は大正12年(1923)6月で、焼却炉は下げ花置き場より2年ばかり早く作られている可能性が高いので、あちらが姉、こちらが妹、そうとみて良かろう。

 各辺はスマフォのコンパスで見ると、磁北からは西に約14-15度ずれで、11区噴水塔12区水盤13区給水塔、4区水場()等と丁度逆となるくらいである。上画像の、口が開いている側が凡そで北にあたる。

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
北東

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
南西

 左右の窓にある、井桁の透かし装飾も焼却炉と同一。

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
井桁透かし(左)

 門柱上部の装飾も同一。

府中市、多磨霊園4区下げ花置き場
門柱(右)

 武家屋敷の屋根塀(屋根付きの塀)を思わせる囲い部分と言い、井桁の透かしと言い、全体的に和風である。他の園内建造物がどちらかと言えば洋風な感じがするのとは、若干テイストを異にしているようにも思える。

 では、後日新たに撮った2区の焼却炉画像と、それぞれ比較対照して頂きたい。カエデの木立ちの下、葉を透かした日光の所為か全体に少し緑色がかっているが。(この時焼却炉前でポケモン三体が現れたのでゲットした)

府中市、多磨霊園2区焼却炉
2区焼却炉
西側

府中市、多磨霊園2区焼却炉
北西

府中市、多磨霊園2区焼却炉
南西

府中市、多磨霊園2区焼却炉
南東

府中市、多磨霊園2区焼却炉
井桁透かし(右)

府中市、多磨霊園2区焼却炉
門柱(右)

 外枠の下部が少々異なる様に見えるが、4区下げ花置き場は、下の方が大分土に埋もれているのだ。

 形はこのようにクリソツであるが、サイズ的には如何であろう。
 メジャーを持っていなかったので、靴長(約27.3p)で計った事をまずお断りさせて頂くが(後日ちゃんと測った値を「付録」に記しました)、サイズは、各辺凡そ304-305cm、外枠は高さ凡そ55cm。焼却炉は各辺凡そ307-309cmだったので、靴長計測の誤差を考えると凡そ合致する。高さも焼却炉は屋根を含めて約111pであるが、屋根なしで考えるとそれほど差はないのではなかろうか。
 全体的にはまるで、2区焼却炉の屋根部分を取っ払ったかの様な姿である。しかし、実際取っ払った訳ではなさそうだ。見た限りそのような痕跡はない。もともと屋根は無く、当初より下げ花やごみ等置く場所として作られたのではなかろうか。
 と言うか、今回改めて焼却炉の画像をチェックしていて思ったのだが、焼却炉は、若しかしてこの下げ花置場にのちのち屋根を付けたものなのじゃないか。
 焼却炉画像をよく見ると、屋根と外枠の上部分(屋根塀の屋根部分)の接合部が結構雑で、文字通り「取って付けた」様ではないか。

府中市、多磨霊園2区焼却炉
2区焼却炉
枠と屋根の接合部(右上は門柱)

 あくまで私の推測だが、2区の焼却炉は、4区と同じ下げ花置き場として作られたものに、後から屋根その他を作り付けて焼却炉に改造したもの、ではなかろうか。
 そうだとすれば、この4区下げ花置き場の方がオリジナルという事になる。

 まあ、何であれ、下げ花置き場と言う、謂わばごみ置き場にも、こうした存在感のある構造物を用意するなど、矢張り霊園(当初は「墓地」と呼んだ)造営に関わった方々の強い思いが感じられる、様な気がする。私が霊園ファンだから、そうんな風に感じるだけかもしれないが。

 今回紹介の4区下げ花置場は、東側は「公園通り」に面している。文字通り、その通りを北方向へ行けば、お隣5区、可也広い芝の公園に出る。

府中市、多磨霊園5区公園
5区公園

 多磨霊園と言えば、鬱蒼と繁る樹叢ばかりの、ちょっと薄暗いイメージもあるかもしれない。上の下げ花置き場も焼却炉も、以前紹介の建造物群も、多くは周囲を木立ちと墓石に囲まれ、一寸不気味なイキフンと言えないことも無い。が、こうした明るい場も、一応園内に在ることは在るのだ。クライのが苦手な方には、小金井門広場と共に、ほっと息抜きができる場かもしれない。
 今回私は此処でランチにした。クライのが好きな私は別に明るい場所でなくても無問題なのだが、如何せん木立の下はモスキートの編隊が多いのだ。彼女等(吸血するのはメスのみ)の低空からの攻撃にさらされ、短パンでむき出しの脹脛がかゆくて堪らず、ゆっくり等していられないのだ。夏秋に霊園を訪問する際は、防空対策に是非お気を付けあれ。

*付
後日メジャー及びアナログ・コンパス持参で計測し直したので、その値を記します。多少誤差があるのを予めお断りさせて頂きますあくまで参考的なものとお捉え下さい。
なお、正面及び門柱の高さは、枠下部や門柱下部が土に埋もれていたりして基準となる地面の高さが可也不均一なため不正確です。ご了承ください。

4区下げ花置き場
正面高:右約52p(中央峰部分約55p)、左約50cm(中央峰部分約54p)
門柱高さ:右約56p、左約55p)
正面幅:約309cm
奥行:約309cm
磁北に対する角度:14-15度に西にずれ(アナログ)

2区焼却炉
正面高(屋根を除く枠部分):右約62cm(中央峰部分約66p)、左約65cm(中央峰部分約69p)
門柱高さ:右約77p、左約72p
正面幅:約309cm
奥行:約307-308cm

*多磨霊園用語集

2017年文月19日
(取材は7月上旬)

(4区下げ花置き場の計測をしている間、私の頭上で激しくカラスが鳴いていた。背の高い針葉樹はカラスが好んで営巣する所。巣があったので威嚇されたのであろうか。私がカラスに無関心のためか攻撃されることは無かったが、鳴き立てる行為は私がいる間ずっと続いた。ゴメンね心配させて)

――――――――――――――――

・この置場のある場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*標識:この謂わば「園内住所」を覚えていると次回から迷いにくくなる。でも、迷うのもまた良し
*ポケモンGO:今頃始めたのだ。だんだん外出が億劫になって来たのでオジサンの引きこもり防止のためである。でも詳細はまだ把握していない
*モスキート:蚊のことだが、WW2でドイツ軍を散々悩ませたイギリス軍の、デ・ハヴィランドDH.89モスキート戦闘爆撃機(全木製)に掛けたのだ

九州北部豪雨水害被災動物寄付金募集(ペット災対協)

多磨霊園11区噴水塔、その後
 久方ぶりに、多磨霊園のアール・デコ遺産、11区噴水塔を訪ねて、驚いた。

多磨霊園11区噴水塔
多磨霊園11区噴水塔(南面)

 噴水塔がその交点に建つ墓域内通路が、アスファルトで舗装されていた。多磨霊園の通路の殆どは砂利敷きか土のままなのだが、何故ここだけ。

 驚きながら接近して、さらに驚いた。塔の円形基壇がきれいに修復され、白い塗装まで施されているのだ。

多磨霊園11区噴水塔
南面から

 折角の寂れたイキフンが薄れてしまった・・・、様にも思うが、考えてみれば、周囲が修復整備されたという事は、少なくも暫くは、塔の撤去や取り壊しは無い、という事である。有難いことではないか。

多磨霊園11区噴水塔
西面から基壇

 以前はカエデの大枝が被さり、見ることが不可だった西面も、枝は剪定されクリアな状況となっている。カエデには少々気の毒だが(木の本体はそのままであるが)、有難く拝見させて頂こう。

多磨霊園11区噴水塔

多磨霊園11区噴水塔
共に西面

 しかし、あれこれ見ていると、舗装と基壇修復以外にも、昨年秋から変わっているところがいくつかあった。塔体のあちらこちらに、穴を開けまた塞いだと思しき痕跡が幾つも見られるのだ。
 何か、検査っぽいな。

多磨霊園11区噴水塔

多磨霊園11区噴水塔
塔体に開けられた穴の跡 丸型
上南面、下西南側

多磨霊園11区噴水塔

多磨霊園11区噴水塔
塔体に開けられた穴の跡 L字型
上東面、下北西側

 ネットでコンクリート構造物の検査について調べてみると、丸穴は穿孔してコンクリートのサンプル(コア)を抜き出した跡、L字(あるいは逆L字)の部分は縦横の鉄筋の状態を見るための斫り(はつり。コンクリートを削る、穴をあけるなどの作業)の跡の様である。
 建築関連の知識はゼロなのだが、どうも、コンクリート構造物(塔)の状態診断検査の痕跡であると考えて良さそうだ。前回私が、水道のハンドル跡かと推測したパイプ突出部下の四角いくり抜き部分も、多分以前に行われた検査の跡なのであろう(ああ、何たる無知)。

 あくまで私の推定ではあるのだが、築80年程ともなる塔だ(11区の使用開始は1934年(昭和9年))。その老朽化は、可也進んでおるであろう。万が一、人がいるときに倒壊でもすれば、それはエライことである。
 周囲の通路舗装と共に、保存に向けての検査、であるとしたならば、一多磨霊園ファンとしては嬉しい限りだが、他の建造物たちはどうなのであろう。複数の水場たち(4区14区22区他)や、13区給水塔、また12区水盤2区焼却炉など、此方も是非、修復・整備等、して頂けないものであろうか。それから、「ピラミッド」も公有化して保存できないものでありましょうか。是非、検討をお願い致したい。

*多磨霊園用語集

2017年文月4日
(取材は6月中旬)

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・この塔の建つ場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

・霊園ご訪問の際は、節度を持った行動をお願い致します

*アール・デコ:1910-1930年代に流行った美術工芸の様式。直線的で単純なデザイン。日本でも昭和初期に流行った。ただ、この噴水塔がアール・デコ調であるのかどうか、建築には無知な私ゆえ間違っているかもしれません。若しそうだったらごめんなさい

悪夢
 「テロ等準備罪」は心配である。テロ対策には国際間の緊密な連携、情報の共有など絶対不可欠なので、相応の国内法の整備は必要ではあると思う。しかし、だ。いろいろ心配である。
 「一般市民」は捜査対象とならないとは言うが、テロを行おうという人々は、まさにその「一般市民」に紛れることに心砕いているのではなかろうか。そうした人々と無関係な人々を区別するためには「一般市民」とて捜査対象とせざるを得ないのではないであろうか。
 「思う事は自由」の内心の自由や「言う事・書く事は自由」の表現の自由は、人権の基本中の基本である。これが脅かされれば、環境問題に関する運動や反原発運動或いは反戦運動などにも広く影響しかねない。

 「テロ等準備罪」。どうも、「治安維持法」や「予防拘禁」などの名前が思い出されてしまう。
 「治安維持法」は、大正14年(1925)に制定された、天皇制・私有財産制否定を目的とする組織や行動を取り締まるための法律。お分かりのように、元来は当時の日本共産党を中心とした共産主義運動・革命運動を取り締まることを想定したものであったが、その後、共産主義運動・革命運動とは無関係な宗教団体や組合活動、政府批判などにも適用対象が広がり、思想統制・弾圧のために利用された法律。「予防拘禁」は、治安維持法違反者で、再犯の可能性ありと認められた場合、刑期満了でも既に出所した者でも拘禁可能とするもので、昭和16年(1941)に導入され思想犯に対し採用された。
 なんともオソロシイ法律だが、ほんの数十年前、この国に確かに存在していたものなのだ。

 自由が脅かされるときは、人間の人間らしい生活が脅かされるときなのである。
 そんな時代は、悪夢以外の何物でもないのだ。

2017年水無月6日

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*内心の自由、表現の自由:前者は憲法十九条で、後者は憲法二十一条でそれぞれ保障されている

お不動さん
 日野市高幡にある、高幡不動尊(金剛寺)に行く機会があった(鉄塔絡みだ)。多摩地域では、「お不動さん」と親しまれる存在で、江戸期には火除けの信仰を広く集めた。昔は多摩地域の学校では遠足の定番であった、ように記憶しているが、私自身は正直遠足で行ったかどうか、もう憶えていない。プライベートでは、幼少時少なくも一度か二度は行っている(はずだ)。

 今回は自転車で行ったが、京王線高幡不動駅前から伸びる参道の向こうからも、仁王門が見える。

日野市、高幡不動尊不動堂 日野市、高幡不動尊扁額
高幡山明王院金剛寺(真言宗智山派別格本山)
左、不動堂 右、仁王門の扁額
お堂、門共に重要文化財だ

 本尊は大日如来(最奥の大日堂にいらっしゃる)だが、不動明王像のある不動堂がメインの様な雰囲気だ(像は身代わり。重文の本尊は奥殿にいらっしゃる)。不動堂は、元は山中にあったものが倒壊したため、康永元年(1342)に移築されたものとされている。
 その本堂左手には、この方がいらっしゃる。

日野市、高幡不動尊、土方歳三像
土方歳三の像(平成7年)

 菩提寺であるからだが、お墓はここには無いのだ。お墓は末寺である石田の石田寺(せきでんじ)にある(でも位牌や手紙等の資料はある)。

 立派な五重塔もある。竣工昭和55年(1980)のコンクリート製。塔高39.8m、全てを含めた総高は45m。どうも、子供の頃何度か来ているはずだが、お不動さんに五重塔があったというイメージが無いので、不思議に思っていたが、矢張り最近出来たのね。
 元来存在していた塔を再建したのではなく、全くの新築だそうだ。

日野市、高幡不動尊五重塔
五重塔

 初めて知ったが、裏手の山、不動ヶ丘(高幡山とも。日野市観光協会HPにある昭和10年の絵葉書では「武州高幡山」とある)へ登る道が付けられている。眺望が得られそうなので、登ってみることにした。
 可也の急斜面を九十九折(つづらおり)に登る。ここは高尾山か、と思うほどの深い木立の中行けば、天辺間近と思しき地点に「高幡城址」と言う表示があった。ここが城郭であったことも初めて知った。
 行ってみずばなるまい。

日野市、高幡不動尊、高幡城本丸
高幡城本丸址から

 山頂、本丸跡と伝えられる平坦な広場(標高126m。不動堂辺は69.9m)からは、北方の眺望が見事だ。江戸の人々も、この眺望を楽しんだのであろうか。
 城の詳細は不明だそうだが、享徳4年(1455)の「分倍河原の戦い」(元弘3年/正慶2年のとは別)で、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)との戦いに敗れた、関東管領方上杉憲秋がこの地に逃れ自刃しているので、その頃には城は存在したと考えられている。

 城跡のある不動ヶ丘は、嘗て愛宕神社があったため愛宕山とも呼ばれる。今では少なくなったが、クロマツ群落が有名であったとか。

日野市、高幡不動尊、愛宕山クロマツ群
「愛宕山クロマツ群」解説板

 解説の中にある、「現存するものにも、ほとんどが第二次大戦中の樹脂(松やに)採取の傷あとを根元に刻み込んでいる」と言う記述が気になった。「傷あと」を確認しようと周囲を見渡したが、クロマツは見当たらない。
 やっと見つけた一本のクロマツの巨木。その根元近くにあったのがこれだ。

日野市、高幡不動尊、愛宕山クロマツ
クロマツの「傷あと」

 少々イメージしていたものとは違ったが、これで間違えは無いであろう。明らかに人工的なものであるし、中央に向かって斜めに切り込まれた線は樹脂を集めるためのものと思われる。
 しかし、樹脂=松ヤニから何を作ったのであろうか。WW2中マツの根から「松根油(しょうこんゆ)」を得て航空機燃料にすることが試みられたのは知っているが(陸軍燃料廠でも研究していたという記述も見受けられる)、松ヤニと松根油は違うものだし。松ヤニは精製しテレピン油が得られるが、これが燃料に利用されたのであろうか。調べたが、良く解らない。

 樹々が茂る山の斜面や尾根筋には、四国八十八ケ所を模したコースがあり、それぞれの札所の小さな弘法大師像(皆微妙にお顔など異なる)が点在し、巡拝できるようになっている。私は信仰心が無いので完全スルーしてしまったが、一つ一つ丹念にお参りされている方も、老若男女、多く居られた。
 そのコースの一部から見た絵がこれ。

日野市、高幡不動尊、不動ヶ丘から
不動ヶ丘から五重塔他

 こちらは上画像の場所よりやや下方の位置から。高さ45mの五重塔の相輪がほぼ同じ高さだ。塔基部辺は標高74.6mなので、単純計算すると私のいる場所は標高119m弱程となろうか。実際は、もう少し下の様な気もするのだが。

日野市、高幡不動尊、不動ヶ丘から
不動ヶ丘から五重塔相輪
左端は桜ヶ丘線25・26号と石田大橋

 歳三さんの生地、日野市石田から多摩川対岸、国立市方面をバックに黄金に輝いている。

 もし、高幡不動にお出掛けの機会があれば、裏手の不動ヶ丘に登ってみるのは如何であろう。確かになかなか上り甲斐のある山道ではあるが、登山には大分ご無沙汰のオジサンである私も苦も無く登れた。
 道は整備はしっかりされている。お辛そうではあったが、ご年配の女性方も、巡拝しながら登っておられた。一寸したハイキング気分は味わえる。

日野市、不動ヶ丘
石田大橋から不動ヶ丘
(撮影は後日)

 これは、お不動さんからは2km程北の石田大橋から望んだ不動ヶ丘。右の桜ヶ丘線25号鉄塔の左脇、多摩モノレール(丘の下左右に細長く)の上に五重塔が見えている(上の五重塔相輪の画像とは反対の方向から見ていることとなる)。多摩丘陵の一部であるこんもりと樹の繁る不動ヶ丘が、手前の沖積低地石田の市街(標高約60m)からは、大分高くなっているのがお分かり頂けるであろうか。

日野市、高幡不動尊、高幡城本丸から
本丸址から東方
お馴染み、東◯エレベーター試験塔も見える

 麓からの比高(二地点の高度差)はそこそこあるが、最上部、高幡城本丸址からの眺望は、登高の対価としては充分なものと思う。少なくも私は感動した。ただ、夏場はちょっと、しんどそうだな。

2017年皐月24日

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*大日如来、不動明王:前者は真言密教の教主、宇宙の根本仏。後者は大日如来の化身として煩悩を断ち行者を護る
*鎌倉公方(くぼう)、関東管領:前者は室町幕府が東国支配のために置いた鎌倉府の長。後者は鎌倉公方の補佐職で上杉氏の世襲
*元弘3年/正慶2年:後醍醐天皇で元弘、光厳天皇で正慶。5月25日までは正慶であった
*松ヤニ:これを精製しテレピン油を作る
*松根油:マツの根を乾留(個体を空気を断って加熱分解すること)して得る油状物質。溶剤・塗料として用いられる。松ヤニとは別。WW2末期日本では航空機燃料(ガソリン)の原料としての使用が試みられた
・標高は国土地理院地図(電子国土web)によります

聖蹟、桜ヶ丘
 「Fe塔」で以前少し触れた、多摩聖蹟記念館と向ノ丘に、サクラの季節に訪ねることが出来たので、ご紹介したい。

 まず多摩聖蹟記念館。
 この記念館周辺は大松山と呼ばれ、古くから桜の名所として親しまれてきた地である。明治天皇まだ30歳の頃、ここ、現在の多摩市連光寺周辺に度々行幸(ぎょうこう。お出掛け)し、また一帯が後に天皇・皇族の狩猟場に指定されたことなどから、昭和5年6月(1930)、明治天皇を偲びまた讃えるため元宮内大臣田中光顕(みつあき)伯爵(1943-1939)が中心となって建設したのが、このモダンな記念館。広い公園内ほぼ中央、標高130mに地に建つ。

 時代など考えれば、当時一般的だった国家神道的思想、或いは1930年代から1945年にかけ全盛を極め、帝国主義を支える一つのイデオロギーとなった皇国史観的思想をバックに生み出されたものとも言えそうだが、その辺は一応置いといて、まったく虚心に、一つの造形として見れば、なかなか以て美しいではないか。同じ年に建てられた、多磨霊園シンボル塔に相通ずるような、曲線と直線のシンプルなフォルム。私は好きだ。これもアール・デコ調と言えるのであろうか。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館 多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
多摩聖蹟記念館
下右は背面

 銘板を見てもらえば、「多摩聖蹟記念館」となっているのがお分かり頂けると思う。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
銘板
「昭和五年九月 伯爵田中光顕敬署」とある

 しかし現在は頭に「旧」と付く。建物は、昭和61年(1986)に多摩市指定文化財・東京都「特に景観上重要な歴史的建造物」に選定されたが、その年、それまで維持管理を行っていた財団法人多摩聖蹟記念会から多摩市に丸ごと寄贈され、その時「旧」が付けられたのだそうだ。

 それにしても、ユニークなデザイン。近くを走る多摩モノレールを彷彿させるような、緩い弧を描くテラスの屋根と、それを支える円柱のコンビネーションも良い。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館 多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
屋根と円柱

 設計は関根要太郎氏、蔵田周忠(ちかただ)氏。解説には、「オーストリアでおこったセセッションと、ドイツのユーゲントシュテイルと呼ばれる建築デザインの影響をみることができます」とあるが、私には全く分からない。

 外灯もシャレオツ。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
外壁の外灯

 記念館前には、ベンチが三つあるが、これも記念館同様の歴史があるのであろうか。おそらくコンクリート製だが、白い厚紙を緩く折り曲げた様なフォルムが印象的。散り敷いた花弁を払って座り、此処でランチにした。
 座り心地は悪くはなかったが、塗装の傷みは大分進んでいる。

多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館 多摩市桜ヶ丘公園、旧多摩聖蹟記念館
記念館前のベンチ

 ベンチの並びには、五賢堂。

多摩市桜ヶ丘公園、五賢堂
五賢堂

 岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛そして三条実美(さねとみ)の明治維新に貢献度の高かった五人の胸像を置くもので、昭和43年(1968)の明治百年祭時に建てられたもの。

 「耳をすませば」の影響で今では全国的に知名度の高い「聖蹟桜ヶ丘」だが、この駅名(地名は存在しない)の由来となったのが、この「聖蹟」記念館と大松山の桜の丘。そしてもう一つ同じく「聖蹟」と桜の丘である、向ノ丘(むかいのおか)だ。以前紹介したときはまだ冬であったが、今回は、嘗て江戸の頃より桜の名所であったことを彷彿させるような絵をご紹介したい(上手い下手は問わないでね)。

 丘は標高は70mであるが、標高50mの坂下からは自転車で結構上り甲斐のある勾配の上だ。

多摩市連光寺、向ノ丘 多摩市連光寺、向ノ丘
向ノ丘

 嘗ては、長さ約15町(約1,600m)、幅約3町(約330m)の芝生の地(東京府発行「東京府西多摩郡南多摩郡北多摩郡名所旧蹟及物産志」)であったことを思えば見る影も無いが、今も桜の名所として近隣の方がたに親しまれているであろうことは、全体のコンディションの良さから伝わってくる。
 ここには石碑が三つあり、うち二つは明治天皇に関わるものだ。

多摩市連光寺、向ノ丘御駒桜 多摩市連光寺、向ノ丘御野立所
左は、「御駒桜」碑で、愛馬金華山号をつないだ桜(今は無い)
右は、「御野立所」碑で、休憩所

 碑文には何方も、明治14年2月20日、同15年2月15・16日、同17年3月29・30日に明治天皇がここに立ち寄ったことが記されている。両碑とも「伯爵 田中遜謹書」或いは「奉献 伯爵 田中 遜」(奉献は物をたてまつること。遜はへりくだるの意)とあるが、この田中さんは、聖蹟記念館建設の中心人物の、あの伯爵の光顕さんであろうか。

 もう一つの碑は、上の二つとはやや離れて建つ、小野小町の歌碑。

多摩市連光寺、向ノ丘小野小町歌碑
小野小町歌碑

 武蔵野の 向の岡の 草なれば 根を尋ねても 哀れとぞ思う

 「新勅撰和歌集」(文暦2年(1235))巻十九にある歌で、彼女が父を尋ねみちのくへ行く途上この丘を詠んだものとされる、と解説にはある。

 向ノ丘三碑は、何れも昭和15年(1940)に建てられている。この年は、神武天皇即位の年(西暦660年)を元年と定めた紀元「神武紀元(皇紀)」の2600年を、国を挙げて盛大に祝った年である。「きげんはにせーんろっぴゃくねん♪」と言う歌も作られ多くの歌手によりレコードがリリースされた(うちのおばあちゃんもよく歌っていた)。歌碑を除く二碑の解説には、「御駒桜」と「御野立所」の両碑はこの紀元2600年を記念して建立されたとある。此方も「皇国史観」が支配的な時代背景の中から産まれたもの、と呼べるのであろうか。

 これ等、記念館そして歌碑を除いた記念碑も、歴史的存在として虚心に見たいのだが、「戦前回帰」的にほいの漂う現在、残念ながら、そのように見るには、多少の努力が必要だ。

 元は所在地名関戸に由来する「関戸駅」から、「聖蹟桜ヶ丘駅」へと改められたのは、昭和12年(1937)5月。日本と中国とを全面戦争へと引きずりこむ切っ掛けとなった、「盧溝橋事件」が北京郊外で起きるのは、その二か月後である。

 少々話が堅くなったので、最後は柔らかな春景色で閉めよう。

多摩市桜ヶ丘公園
奥多摩方面の眺望

 桜ヶ丘公園、聖蹟記念館300m程東からの、奥多摩方面の眺めだ。

2017年卯月20日

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*旧多摩聖蹟記念館:高さ11m、面積397.19平方m。1970年代特撮ヒーローもので度々登場
*アール・デコ:装飾美術の意。1910年代から1930年代にかけフランスを中心に流行した美術工芸の様式。実用的で単純・直線的なデザインが特徴
*国家神道:明治期以降国家が国民精神統合のため形成し振興した国民宗教。天皇及び祖先神の崇拝が中心。教育勅語は事実上の教典ともされる
*皇国史観:日本歴史を万世一系(永久に一つの系統が続くこと)の天皇中心に展開してきたととらえる歴史観
*神武紀元:有名な零式艦上戦闘機、所謂「ゼロ戦」の「零(れい)」は、この紀元2600年に正式採用となったためのものである。他の「零」の付く海軍機、零式観測機、零式水上偵察機、零式輸送機なども同様。陸軍ではこの年採用のものは「一〇〇式」とした。一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式輸送機などがそれにあたる
*紀元二千六百年:一般公募から採用された「国民歌」。作詞増田好生氏、作曲森義八郎氏
*田中光顕:土佐藩士。中岡慎太郎の陸援隊幹部。中岡暗殺事件の際現場で事件の経緯を中岡から聞いたそうだ。警視総監、学習院院長、宮内大臣等歴任。伯爵。我が幼き日のヒーロー、田中光常さんのお祖父さんだ

紛らわしい
CT ある夜の事、入浴中ではないが、お風呂場で手を滑らせ、タイルの壁で頭(側頭部)を強打した。
 特にその時は、意識を失うことも無く痛みも吐き気もなく、如何と言うことは無かったのだが、翌朝だ。めっちゃ頭がイタイ。おまけに吐き気も可也する。
 当然昨夜の、頭部痛打、これに関連付けたくなる。しかし、だ。私は以前から何度か書いたように、偏頭痛持ちである。しかもその朝は低気圧通過という偏頭痛発作の非常に起きやすい状況。
 迷う。病院へ行ったものか、あるいは様子を見るか。経験から言って偏頭痛っぽいのだが、もし頭蓋内出血を起こしていたら場合によっては命に係わるし。

 取り敢えず、偏頭痛にしか効かない薬を服用。これで収まれば、偏頭痛の可能性が高い。・・・

 ほぼ一時間後に痛みも吐き気も、ほぼ収まった。が、一時的に静まっただけやもしれぬ。矢張り心配である。偏頭痛の薬ももう無いし、やっぱり脳外科へ行こう。

 CT(Computed Tomography コンピューター断層撮影)検査を受ける。
 頭部のみ撮影なので、服はそのままに帽子をとり靴を脱いで、撮影テーブルに横になりガントリーに頭を入れる。額、顎、腕を固定され、検査開始。頭に響くので、足も動かせない。
 断続的に、ガックンガックンと、私を載せたテーブルが少しづつ移動する。頭を輪切り撮影している訳だ。昨年受けたMRI検査の経験から、検査中は数を数える。5分ほどかかると言われたので、一秒間隔で300数えればよいと思っていたのだが、随分と早く3分ほどで終了。MRIに比べたら、ほんの一瞬くらいの感じである。

 結果。出血も無く、骨折も無かった。矢張り偏頭痛であったのだ。なんと紛らわしいタイミング。でも良かった、偏頭痛で。

 偏頭痛の薬だけ頂いて帰る。CTの費用は、三割負担で¥5,000ほどでした。思わぬ出費でイタイが、安心できた。

2017年卯月18日

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*頭蓋内出血:硬膜下失血、くも膜下出血、脳室内出血、脳実質内出血の総称。多くは頭部への強い衝撃で血管が破損するのが原因
*CT検査:X線で身体の断面画像を得る。部位等により造影剤を注射するパターンもある

(画像は、シルエットACより拝借しました)

退院、入院

ホイールチェア

 長らく病院のお世話になっていたおばあちゃんだが、大腸がん及び洞不全症候群に関する治療は終わり、先月から自宅復帰前提のリハビリ主体の病棟に移っていた。しかし、そういつまでもお世話になることは出来ず、しばらく前から、「介護老人保健施設(老健)」という、自宅復帰を目指すリハビリ主体の施設への移動を、病院相談員さんにお願いしていた。
 そして、今月半ば、そうした施設の一つへと、やっと入ることが叶った。ここは、「介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)」の入所対象となる様な、常時介護が必要となる方々よりは、もう少し自立した日常生活が可能な方々が対象となる施設なので、基本、3か月と言う入所期限があり、3か月ごとに退所または継続の判定が行われる。
 3か月後どうなるかは、全く不明であるが、取り敢えずは、まだまだ寒さも続くので、安心している次第だ。ただ、安心はしているが、病院でおばあちゃんの隣のベッドに居た方は、同じ様に老健への入所を希望していたのに入所先が見つからず、非常に困惑しておられた。「待機高齢者」の問題も深刻なのである。我が家は偶々運よく入所先が見つかったが、素直には喜べない。

 おばあちゃんの件は、取り敢えず落ち着いたのだが、ほぼ同時に、新たな問題が生じた。ご近所に住む、おばあちゃんの古くからのお友達が、緊急入院となったのだ。
 その方は一人暮らしで、中程度のアルツハイマー病であるおばあちゃんよりは、大分しっかりしてるなと、思っていたのだが、ここ暫らくの比較的短期間に、認知症(アルツハイマー病だと思うのだが)が進行し、いろいろと気にかかることが増え始めていた。出先で迷い保護されたり、まったく悪意なくゴミを不法に投棄したり、汚れた服をずっと着続けるなどなど、心配だな・・・と感じることが多くなった。
 為に、地域包括支援センターの方や民生委員さん或いは他のご近所の方(たまたま介護士さん)また遠方ではあるがご親族の方などと情報共有し、見守っていたのだ。
 そんなある日のことである。
 階段からの転落で複数個所頭部に裂傷があったり、その他腎臓機能の低下或いは認知症があったりするので、診断・治療のため、包括支援センターの方が受診に連れ出してくださっていたのが、何度目かには拒否されるようになり、玄関も開けてくれなくなってしまった。為に、流石に安否の確認ができないのは危険と思い、お隣の奥さん(介護士さん)とも話、本人から、何かあった時は、と預かっていた合鍵で中に入ってみた。すると、布団の中で動けないような状態であり、会話も成り立たないようになっていた。様子からして水も食事も摂れてはいないようだ。布団からは、明らかに失禁の様子がうかがえる。
 これは、もう一人では無理と考え、プロであるお隣の奥さんや包括支援センターの方に連絡し、来てもらった。そうして話し合い、救急搬送を頼むこととした。

 無事救急車を見送り、これで一応、お友達の方は生命の危険を考慮する必要はなくなったので、ひとまず安心。翌日は、おばちゃんの老健への引っ越しだ。
 明くる日午後、病院で退院手続きを行っていると、昨日救急搬送されたおばあちゃんのお友達のご親族の方を偶然見掛けた。声を掛けて聞くと、昨夜この病院に搬送されたと仰る。まあ、この近辺では、救急の場合この病院に送られることが多いので、そう驚くことは無いのだが、出会えたのは偶然である。その方はおばあちゃんとも旧知の仲で、数十年ぶりの再会ができたと、喜んでおられた。

 その後、退院した病院からは左程遠くはない老健におばちゃんをタクシーで連れ、種々手続きや荷物の整理、また車いすを押しフロアを見て回ったりなどし、夕刻となった頃、その日昼過ぎまでおばあちゃんのいた病院で、お友達に面会した。面会票記入のため、おばあちゃんが2月までお世話になっていた循環器系病棟のナースステーションに立ち寄ると、もう来るはずのない私が来たので看護師さん達に驚かれた。昨晩救急搬送されたのはおばあちゃんのお友達で、救急車を頼んだ内の一人は私ですと事情を話すと、また驚かれた。
 お友達は、暖かな病室で気持ちよさそうに眠りながら、ベッドで点滴受けていた。家では暖房も無く(リモコンの電池切れでエアコン動かず)、布団も失禁のため汚れていたので、さぞ心地よかったのであろうと思う。

 おばあちゃんは90歳超、お友達はもうじき90歳。身近に高齢者の直面する様々な問題を直に見あるいは感じていると、私は、年齢的にはまだ大分先の事ではあるが、相方(奥さん)も居らず子供も居らず、一人老いた時のことを思うと、大きな不安を感じるのが正直なところである。認知機能が低下して、火の不始末でもやらかした日にはゴメンナサイでは済まない。理解力、判断能力のあるうちに、日常生活支援事業や成年後見制度を利用したり、適当なところで見切りをつけて、どこぞの施設にお世話にならねばならないな、等とも考える次第だ。

2017年弥生16日

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*介護老人保健施設、介護老人福祉施設:前者は要介護1以上、後者は要介護3以上が対象(例外有り)
*日常生活支援制度、成年後見制度:共に判断能力が低下した場合利用できる。前者は福祉サーヴィス利用援助やお金の管理また定期的訪問など受けられるもので、支援があれば自立生活が可能な場合のもの。後者は判断能力が可也低下した場合のもので、施設入所や入院或いは不動産売却など日常生活援助の範囲を超える事柄の支援が受けられる

(画像は、シルエットACより拝借しました)

3.11 原発事故 被害者の人権をまもる国際署名

陸軍燃料廠貯蔵タンク跡

府中市、浅間山、燃料タンク跡周辺
浅間山、中山と前山の間

 多摩地域、府中市にある残丘、古多摩川の削り残し、浅間山(せんげんやま)である。昭和45年(1970)に都立公園となっている。
 この丘は、堂山、中山そして前山の三つの頂があり、最高点は堂山で約80m。大雑把に言って、堂山、中山、前山が北東から南西へ反時計回りで緩い弧を描いて並んでいる。画像は、東側にある明治大学の「内海・島岡ボールパーク」との境をなす「すその道」側入り口付近から、中山と前山の間にあるごく浅い谷を見ている。中央の遊歩道は、画像奥方向に四阿があるので、「あずまや道」と呼ばれている。

 以前に少し触れたが、WW2中、この辺りには、昭和15年(1940)にここの西隣に設けられた、石油の代替となる燃料や潤滑油などの研究・開発を行う陸軍燃料廠(現在の航空自衛隊基地や府中の森等)の、燃料貯蔵タンクが置かれていた。
 態々、廠内から数百mも離れた山の斜面にタンクを設置するなど、秘匿する意味合いあっての事であろうか。浅間山はその木立ちを利用し、東3km弱の距離にあった陸軍調布飛行場(当時)所属の戦闘機を空襲から守るための秘匿場所にも使われていたので、同様の理由と考えても、無理はなさそうである。

 その当時、タンクが設置された斜面窪地の法面には、石垣が設けられていたという。
 その石垣の一部が、僅かだが、雑木林の斜面に残されている。上画像で言うと右手奥の方向だ。

府中市、浅間山、貯蔵タンク跡
斜面下から窪地の石垣を見る

 その斜面を下から仰ぐ。場所は、「すその道」にある入口から、「あずまや道」を60-70mほど入った所であろうか。
 画像中央上、空を区切る稜線のすぐ下、小さな常緑樹があるが、その下右側、窪地上部に、厚く積もる落葉の中からほんの僅かに、花崗岩製の白い石垣が顔をのぞかせている(画像では小さすぎて確認不可。申し訳ご座いません)。それと知らねば、まず気付かぬであろう。
 昔はもっと露出していたように記憶しているが、徐々に埋(うず)もれてしまったようである。今の時期、落葉もまだふんわりしているので、余計にお隠れ気味だ。

府中市、浅間山、貯蔵タンク跡周辺
紅白のウメが満開

 画像、ウメ咲く左手、石垣は杭に張られたロープの奥上の斜面である。近づくことは叶わぬが、目を凝らせば確認はできる。

 前山上から、中山方向に、窪地のある谷を見下ろすと、この様な感じだ。中央に紅梅が垣間見えている。

府中市、浅間山、貯蔵タンク跡周辺
前山から谷を見る

 季節が進み、青葉繁れる頃となれば、だんだんと石垣の確認はし辛くなるであろうと思われる。

 但し、石垣を構成していた石は、間近に見ることができる。
 これだ。

府中市、浅間山、貯蔵タンク石垣石 府中市、浅間山、貯蔵タンク石垣石
石垣石、と考えているのだが・・・
(右画像は左画像の石のうち左側三つのアップ)

 浅間山西側、新小金井街道(都道248号)脇の登り口(下り口でもあるが)に、並べられている。
 公園として整備する段階で撤去されたもの、ではなかろうかと、個人的に思っている。そう、あくまで私がそう考えているだけで、確証は有りません。スミマセン。
 しかし、同じ花崗岩であり、大きさといい形といい、昔サイクリングで訪れたときに見た石垣の石とクリソツである(当時は近づけたのだと思うが)。画像奥、階段脇にはセメントで固定され並べられているが、それにしろ、この六つの石にしろ、何処か不自然ではないか。こんな所に何故置き或いは並べる必要性があるのか。

 撤去はしたものの、歴史的な遺物であるし、廃棄も出来ず、土留めとして或いはオブジェ的に並べたのではなかろうか、と私としては推測するのだ。こんなにも形も大きさも揃った明らかに人工的は石は、石垣のパーツ以外には、ちょっと考えにくいのではないか。
 丘を下り、自転車で走りながら、この石たちを目にした瞬間、あ、と思ったのだ。瞬時に、石垣の石だ、と私の勘が叫んだのである。

 私の勘を信じるか信じないかは、これをお読み頂いている貴方次第だが・・・。

 まあ、上り口の石が石垣のものであったかどうかは別として、現在残る石垣は、都立公園の中であるし、当面は破壊されることなどはないであろうと、安心はしている。しているのだが、園内のどこにも、「燃料廠タンク跡」的な表示も解説も何もないのが気になる。行政には、ちゃんと把握されているのであろうか。
 戦跡(例1例2例3例4)は、戦争という日常がその地域に存在していたことをそこに暮らす人びとに伝える歴史的文化財である。人々に戦争について或いは地域の歴史について考えるきっかけを与え、生活を深化させることに資する存在だ。
 文化財は地域住民の共有文化資源であり、文化財に関する行政はその住民の持つ文化財享有権を守り保つためのものである。まずは、存在を利用者に知らせて頂きたい。全ては知ることから始まるのだから。
 戦跡の存在を知らせるのも、浅間山に棲む動物や育つ植物をビジターに知らせるのと同等の意味は、持つと思うのだ。

2017年弥生6日

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*残丘:浸食で周辺から取り残された丘陵
*陸軍燃料廠:敗戦後は米軍施設となり、後大部分が返還され現在は航空自衛隊基地、学習センター、公園、美術館、ホール、斎場他が建設され利用されている
*内海・島岡ボールパーク:「内海」は明大野球部創設者の内海弘蔵さん、「島岡」は明大野球部監督を長年務めた島岡吉郎さん

多摩陸軍技術研究所 補遺
 多摩陸軍技術研究所の話とは直接関係はないのだが、第一研究所跡の上水公園やそれを含む研究所跡周辺に面白いものがあるのでご紹介。

 まずは、上水公園。

小金井市、上水公園地上絵、土偶 小金井市、上水公園地上絵、オバケ
土偶、オバケ

小金井市、上水公園地上絵、ネコ 小金井市、上水公園地上絵、モモンガ
ネコ、モモンガ

小金井市、上水公園地上絵、カブトガニ 小金井市、上水公園地上絵、タヌキ
カブトガニ、タヌキ

小金井市、上水公園地上絵
上水公園管理棟南側の地上絵たち

 「地上絵」である。小金井市市制55周年記念の「コガネイの地上絵制作プロジェクト」で2014年に描かれた物(主催:小金井市 企画・制作:NPO法人アートフル・アクション 製作協力:東京学芸大学、鉄矢悦朗デザイン研究所、デザイナー淺井祐介、小金井市民の皆さん)。道路表示詰まり停止線や横断歩道などを書くために使われる、トラフィックペイントと呼ばれる塗料が使用されているそうだ。この塗料で細かいパーツをボランティアや市民の方々などが切り出し、アーティストさんの描いた下絵に沿って並べ、バーナーで加熱し焼き付けたとか。見たことがきっとおありだと思うが、横断歩道などを業者さんがバーナーを使って焼き付けている工事、あれと同じ様にして書いたということだ。
 他にもかわいい絵が沢山あったのだが(イヌ、人魚、ゾウ、フェニックス、チョウチンアンコウ、クジラなどなど)、植え込みの影が絵にかぶり非常に見難くまた露出も難しく、なかなかうまく写せなかったのである。
 それにしても、厳めしい軍事施設跡にこのようなユルク可愛らしいもの達は似つかわしくないようにも思えるが、陸軍は、飛行戦隊部隊マークの話だが、意外なほどにユニークでカラフルで、少なくも文字数字のみで実用一点張りの海軍比べれば、結構ユルイと言えなくもないものが使用されていたのだ。内地の陸上基地で活動し一般市民が接する機会の多い陸軍機は、親しみやすさを重視したものの様だが、この色・デザイン様々な部隊マークなど考えると、地上絵と遠からぬものを感じられないことも無い(これもこじつけか)。

 次に研究所跡周辺。おおよそ第一研究所跡と第二研究所跡との間辺りの場所である。
 此方は今回知った地上絵と異なり、以前から知っていたのだが、この辺り結構高低差があり、南北方向の坂が多いのだ。古多摩川が作った河岸段丘である国分寺崖線(はけ)よりは大分北の地帯になるのだが、「崖線」とまでは呼べなくも、それに近い段丘的な地形が見られる。
 東西方向に、小さな坂が幾つも並んでいるが、下はその内の二つである。

小金井市、段丘、弥五ちゃんの坂 小金井市、段丘、団地の坂
左、本町「弥五ちゃんの坂」
右、小金井本町住宅「団地の坂」

 弥五ちゃんの坂(やごちゃんのざか)は高さ2m強であるらしいが、団地北縁の坂は私が立っている辺り団地の土地自体が少し低くなっているのでもう少し高そうだ。
 団地の坂(だんちのざか。私が勝手にこう呼んでいる)は弥五ちゃんの坂の少し北西に位置するが、どちらも南側を仙川(せんかわ。一級河川。野川の支流)が東西方向に流れている。この仙川が台地を削り作った高低差なのであろうか。それとも、古多摩川の流路であった名残りなのであろうか。常々疑問に思っているのだが、調べても良く解らない。
 写真の坂を上がった向こうの平坦地に、前回紹介した上水公園があり、そのすぐ北に玉川上水が流れている。

 今回、研究所跡地を巡って思ったのだ。このような広大な土地に有無を言わせず軍事施設を作ってしまうような時代は真っ平御免であるが、しかし、研究所と農地以外ほとんど何もない、人も車も建物も少ないそんな時代に、この辺り、自転車で走ってみたかった、と(ウロウロしてたら憲兵さんに捕まるかもしれんが)。

2017年如月14日

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

*部隊マーク:稲妻、帯、矢印、弓矢、星、トラ、また部隊番号(数字)の意匠化などさまざまで、色も白、赤、青、黄、緑などこちらもさまざま。垂直尾翼に描かれたが胴体や機首に描かれたものもあった。なお海軍は秘匿性や視認性重視で文字数字だけであったらしい
*小さな坂:弥五ちゃん及びその東に並ぶ坂には以下の様なものがある。なお、解説・数値は「坂マップ」さん(解説は「続小金井風土記」より)によらせて頂きました
・弥五ちゃんの坂(長さ101m、高低差2.24m):坂西側に弥五ちゃんと呼ばれる家が一軒のみあったことに因む
・権虎さんの坂(長さ99m、高低差2.224m):明治初め権さんと寅さんの親子が住んでいたことに因む
・島崎の坂(長さ91m、高低差1.51m):島崎家を迂回するものであった
・虎さんの坂(長さ112m、高低差2.47m):上水公園に向かう道。キジ撃ち名人大久保虎吉さんに因む
・三五郎さんの坂(長さ97m、高低差0.9m):虎さんの坂に続くもの。上水公園に向かう。坂東側の中川三五郎さんに因む
*憲兵:軍隊内の警察的組織またそれに属す兵士。研究所に憲兵さんが常駐していたかどうかは分からないが

参考:「坂マップ」、「坂道散歩」さん、「坂学会」、「未来の小金井へ!コガネイの地上絵制作プロジェクト」他

多摩陸軍技術研究所

小金井市、多摩陸軍第二技術研究所境界石柱
旧陸軍境界石柱

 「陸軍」とお読み頂けるであろうか。大分風化が進み磨滅しているが、肉眼でははっきりと「陸軍」の文字が判読できる。
 現在の日本には「陸軍」は一応存在していないことになっているので、当然これは、旧陸軍を指すものである。ここから先は陸軍の土地ですよ、という意味の境界石柱なのだ。

 場所は、小金井市西部、JR中央線の北にある住宅街。西側に植木畑の広がる生活道路路傍だ。この植木畑から向こうが、多摩陸軍技術研究所の、観測・指揮連絡兵器を研究した第二研究所の敷地であったらしい。
 下画像、何方も道路を斜めに切る電柱影の先端横辺りが石柱だ。

小金井市、多摩陸軍技術研究所第二研究所境界石柱 小金井市、多摩陸軍技術研究所第二研究所境界石柱
左、南を見る 右、北を見る
この道は、玉川上水から野川に至る「小金井村分水」の跡だそうだ

 縁石は明らかにこの花崗岩と思しき石柱をよけている。保存の意図有ってのことであろうか。だとしたらば、喜ばしきものである。

小金井市、多摩陸軍技術研究所第二研究所境界石柱
旧陸軍境界石柱

 第二研究所は、現在この石柱の南西にある小学校周辺にあったことは確からしいが、範囲が何処までであったのかは、定かでないようだ。

 石柱から北北東に600m程進むと、運動施設メインの「上水公園」がある。この周辺一帯は、多摩陸軍技術研究所の、銃器・火砲・馬具の研究施設である第一研究所があったらしい。
 下右画像、ご年配の方々が、極寒の中元気にゲートボールに興じていらしゃるグラウンド、及びその向こうの木立の更に向こうに白く横たわる小学校(右)、中学校(左)、またその向こうの市営住宅辺りまで研究所であったようだが、こちらも第二研究所同様範囲は明確ではないようだ。

小金井市、上水公園(多摩陸軍技術研究所第一研究所跡) 小金井市、上水公園(多摩陸軍技術研究所第一研究所跡)
左、上水公園横の児童公園より(この公園も敷地内であったろうか)
右、上水公園グラウンドより(左手木立ちが児童公園)

 左の画像で、児童公園木立の向こうに見える白い建物、右画像で、小中学校の間にある白い建物、公園管理棟である。この現在建替えられている管理棟の同じ場所に、十年ほど前まで研究所の本部棟・事務棟であった建物がそのまま残り管理棟として使用されていた(2005年度解体。WW2後一時学校としても使用されたらしい)。然し今は、何の痕跡も無い。
 いろいろと事情はあったのであろうが、是非残して頂きたかった。こうした地域の歴史的遺産は、その地域地域での人々の暮らしの深化に大きく寄与すると思うのだ。まして戦跡は戦争を知り考える良き縁(よすが)となるものである。どうも、社会はこうした地域の歴史的・文化的遺産に冷淡でないか。

 この多摩陸軍技術研究所は、第一、第二、第三、第五、第七そして第八の六つの研究所が集まったもので、元からあった第一、第二、第三及び第八に加え、第五(小平)、第七(新宿)及び第九(登戸)陸軍技術研究所の電波兵器部門を移管する形で、昭和18年(1943)6月に新設された。
 第一と第二は上に書いた通りだが、第三から第八は、現在の東京学芸大学、情報通信研究機構、及びサレジオ小学校・中学校一帯であったようだ。第一・第二より西側の小金井市最西部及び小平市最南部の一部である。

小金井市、情報通信研究機構(多摩陸軍技術研究所第三・第五・第七・第八研究所跡)
第三・第五・第七・第八研究所跡付近を西から

 これは、情報通信研究機構(国立開発研究法人)西端、国分寺街道付近から東を見たものだが、道路の両側が研究機構で、道路右側奥方向が学芸大、道路左側奥方向がサレジオ小・中学校だ。詰まりこの国分寺街道から東の新小金井街道まで続く道路の両側一帯全て、多摩陸軍技術研究所であったという事だ。道路の長さはおよそ800mである。
 第三は工兵器材・火薬具を、第五は通信兵器を、第七は物理的基礎を、そして第八は兵器材料をそれぞれ研究していたらしい。
 そうすると、第五などはそのまま現在の情報通信研究機構へと繋がっているのであろうか。
 何れにしろ、この研究所、全て合わせて175ha(約529,000坪)に及んだという広大なものであったようだ。
 上画像左手奥、研究機構とサレジオ学園との境辺りの道路際(小平市上水南町。おそらく第5或いは第7研究所跡と思われる辺り)、研究所施設として使用されていた高さ19mの給水塔があった。風雨に晒され黒ずんだコンクリートの外壁を晒す姿に、少々不気味な匂いを感じていたのを記憶しているが、すでに、老朽化を理由に2004年7月、解体されている。

 多摩地域は、土地が平坦で利用し易くまた鉄道網が整備されていた等の理由から、WW2前から中にかけ多くの軍需産業・工場が移転して来たり軍関連の施設が作られるなどした「軍都」であり、兵器の研究・製造が日々行われ、またそれらが繰り返し空爆対象にされるという、戦争が日常であった時代を経験している(例1例2例3例4)。知らぬだけで、案外身近に、こうした戦争の歴史を伝える存在があったりするのである。
 我々市民には、こうした地域地域の歴史的・文化的遺産を守り伝える義務或いは責任があると思うのだが、同時にこうしたものを享受する権利もあるのでなかろうか。
 「地域における文化財保護については市民の文化財享有権を保障するために文化財保護行政があるという観点から取り組むことが強く求められている」と、法政大学院教授の馬場憲一さんが「多摩のあゆみ」に書いておられるが、同感である。

2017年如月13日

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・撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

*上水公園:私が散漫なだけかもしれないが、見た所、ここは嘗て陸軍研究所であった、的な解説や案内は見当たらない。せめてそうしたものがあってほしいのだが
*給水塔(高架水槽):WW2後、昭和30年(1955)に小金井市の水道施設として使用され始め、その後昭和49年(1974)からは東京都が水道施設として使用。昭和62年(1987)国に返還されて以降は未使用となっていた(最終的所有者はりそな銀行)(こちらのサイトさんを参照させて頂きました)
*文化財享有権:人が文化財に対して生まれながらに持つ権利。全ての人間は文化財を享受することができるという権利(多摩のあゆみ 第160号 特集 多摩地域の文化財 〈総論〉地域における文化財保護の意義と課題(馬場憲一)より)

参考:知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、市内の戦跡保存の取り組みに向けて(小金井市議板倉真也氏サイト)、多摩のあゆみ第160号(たましん地域文化財団)、Wikipedia他

如月十日  サドル
 5-6年ほど使っていた、マウンテンバイクのサドル表面の合皮が破れた。このままでは雨水が染み込むしパンツのリーシーも痛む。
 もう十年くらい前だが、このマウンテンバイクの初代のサドルが破れた時、構わず乗っていたらば、桜ヶ丘の「地球屋のロータリー」に向かう「いろは坂」の長い登りで、買ったばかりのジーンズのリーシーが擦れて傷んでしまった苦い経験がある。そのサドルの表面素材は一般のものより硬く、破れて捲れた部分で生地が傷ついてしまったのである(ジーンズはその後すぐに穴が開いたので補修して履き続け、今ではカットオフの短パンになっている)。

 そんなこともあったので、早速サドルを交換した。態々購入したのではない。数年前、ポスティングのバイト中に路傍で拾ったサドルがあったので、それに付け替えたのだ。
 このサドル、スポーツタイプの細身で中央にシルバーのラインが入ってカッコよく、造りも可也しっかりとしている。クッションが厚く衝撃が伝わりにくい。しかも適度に硬いので安定感もある。尿道部分にも溝がある。今のところ坐骨の痛みも来ない。私としては非常に乗り心地が良い。何故捨てられたのか不思議に思うほどだ。
 ただ難点は、表面に合皮を張り合わせるための縫い目があることだ。これは雨が染み込む。それに、流石に捨てられてあっただけに、あちらこちらに小さな破れや穴もある。このままでは日常的に使いにくい。しかも、シルバー・ラインが色落ちすることも判明した(ポイされた原因はこれかも)。
 参ったな、折角我がリーシーにぴったりのサドルなのに。

 あれこれ考えて、カヴァーを付けることとした。少々ルックス的には難があるが、新しくサドルを買って丸まる交換するのもいろんな意味で勿体ない(乗ってるときは見えないし)。

 現状、イイ感じで使わせて頂いている。サドルもサドルカヴァーも。ただ、カヴァーの方は、長時間駐輪する際に、盗難防止の為いちいち外して持っていなければならないのが面倒と言えば面倒である。

2017 2/10

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*地球屋のロータリー、いろは坂:共に多摩市桜ヶ丘。ご存知「耳をすませば」に登場するロータリーやつづら折りの坂のモデルである。この坂は可也の激坂である

睦月十九日  もう一つの古戦場
 「Fe塔」の「古戦場」記事で、関戸の戦いについて書いていたら、その戦いに先立つ分倍河原の戦いが行われた古戦場にも行ってみたくなり、訪ねてみた。

 以前、鉄塔関連で少し触れた府中用水の一流路である、新田川(しんでんがわ。にったがわ、ではない)が暗渠化されて下を西から東へと流れる新田川緑道が、鎌倉街道を越えて(街道は分梅橋で新田川を渡る)左右に広がり、「新田川分梅公園」となるその遊歩道脇に、「分倍河原古戦場」碑が建っている。

府中市、分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑
この場は、東京都指定旧跡(大正8年10月)となっている

 元弘3年(1333)5月(5日説、8日説がある)、上野国新田荘で倒幕のため挙兵した新田義貞(1301-1338)は、入間川を渡河し、11日に小手指原(埼玉県所沢市)で、次いで12日には久米川(東京都東村山市)で幕府軍と戦い撃破した。幕府軍は武蔵国府内、分倍まで退却して布陣し大勢を立て直した。15日未明多摩川へと進出した新田軍であるが、北条泰時(高時の弟)軍10万の援軍を得て待ち構えていた幕府軍に迎撃されて惨敗を喫し、堀兼(埼玉県狭山市)までの敗走(この時武蔵国分寺焼失。建武2年(1335)義貞の寄進により薬師堂再建)を余儀なくされた。
 しかし、その日の夜新田軍は、北条方に見切りをつけた相模の武将大多和(三浦)義勝と、その率いる兵六千の加勢を得ることとなった。陣を立て直した新田軍は、翌16日未明4時頃、義勝を先鋒とし、分倍河原の幕府軍を急襲した。虚を突かれた幕府軍は敗走し、新田軍はそれを激しく追撃した・・・。
 こうして、「古戦場」で触れた、多摩川南岸、関戸(多摩市関戸)へと、戦いの舞台が移っていったのである。

 この歴史の一転換点ともいえる大規模な戦いが、この分倍の地で行われたのは、偶然ではないと考えられている。
 周辺は、鎌倉街道と多摩川が交差する交通の要衝であり、多摩川は幕府にとり重要な防衛ラインであった。またこのすぐ近傍には、鎌倉北条氏の直接配下にある政治的・軍事的拠点、武蔵国衙が存在した。そして分倍は、その国衙のある重要都市府中の一郭を占めていたのである。
 詰まりこの戦いは、政治的・軍事的拠点や防衛ラインの争奪戦であり、その故、この分倍の地の、その周縁に広がる分倍河原で行われたのである。
 合戦の行われた分倍河原は、今となっては正確な位置・範囲を知ることは叶わぬが、一応現在の府中市分梅町(ぶばいちょう)周辺とされており、よってここに碑があるのである。
 戦いの地が、現在の何処にあたるにせよ、分倍も関戸も街道沿いのそれなりの町場であったであろうから、多くの住民が戦禍を被ったのであろう。

府中市、分倍河原古戦場碑
分倍河原古戦場碑

 碑が建てられたのは、昭和十年五月十六日、と裏面に刻まれている。碑文に「新田義貞勤王ノ兵ヲ起シ」とある等は、皇国史観の時代を感じさせる。
 他に、「有志相謀リ碑ヲ其ノ遺跡ニ建テ(ゆうしあいはかりひをそのいせきにたて)」云々とある。文末に「大國魂神社宮司 府中史談会々長 猿渡盛厚」とあるところを見ると、この府中史談会の方々が資金を出し合って建てられたということなのであろうか。詳細は不明だ。
 因みに「分倍河原古戦場」の書は、新田氏一族、正五位男爵新田義美(よしてる)氏(1899-1969)によるものだ(義美さんの奥方は歌人高浜虚子の娘さんだそうだ)。

 碑近くの白梅が三−四分咲き程であったが、二羽のメジロ(Zosterops japonicus)が忙しなく花から花へと移動しながら花密を味わっていた。あまりに動きが速く捉えきれず、この写真が私には精一杯である。

府中市、新田川分梅公園、メジロ
ウグイスじゃないよ

 碑のある辺りからその奥にかけ、緑道北側(碑に向かって左)に一つの流れが地表に現れる。しばらく前から緑道南側の地表に出ている三面コンクリートの新田川からの分流が、公園西側(鎌倉街道側)入口付近の小さな橋の下で更に分けられたもので、こちらは分流と異なり、ある程度自然度の高い親水域となっている(緑道下に暗渠の新田川、南側にその分流、そして北側にその分流の更に分流と、計三つの流れがあることになる)。

府中市、新田川分梅公園、親水域
新田川分梅公園親水域
中央上部流れの中心緑の植え込み辺りが碑

 流れはなかなかきれいである。
 親水域側は、100mほど先で分流と再び合流し途切れてしまうのだが、暖かい時期は、子供らの良き遊び場となりそうである。

 さて、もう一か所訪ねるべき場所があるのだ。
 それは、碑から800m程の距離、古多摩川の河岸段丘である立川崖線に跨る様に位置する、京王線・JR南武線分倍河原駅。そこに、遠く鎌倉方向を見やるこの方が御座(おわ)すのだ。

府中市、分倍河原駅、新田義貞公像
新田義貞公之像
(昭和63年5月)

 公園から中央高速道路下を潜り、北北西へと進んだ先、駅南口ロータリーにこの立派な像はあるのだが、◯芝ソリューションビルの巨大な影にすっぽり入り、明るい空を背景に如何にもうまく露出が決まらない。仕方なく、開き直ってシルエットとさせて頂いた。
 でも、騎馬の義貞公と近代的ビルとのツー・ショットは、なかなかシュールで良くはないか?

 作者は富永直樹氏(1913-2006)。案内板には、分倍河原合戦を題材にし「武士の情熱と夢をモチーフ」として制作したとある。

 しかし、義貞公、数百年の後、自身の銅像が造られ、すぐ傍らに鉄と石の巨大なる建造物が建とうなどとは、夢にも思わなかったであろう。

2017 1/19

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*分倍河原古戦場碑:以前は500m程北にあったが道路拡張で1988年に現在地に移転したらしい
*府中用水:多摩川から取水され国立市・府中市を流れ再び多摩川に戻る農業用水。全長約6km
*メジロ:スズメ目メジロ科メジロ属。多摩地域の平地では、昔は冬場にしか見掛けなかったが、近年は一年中見掛ける。ウグイスやハクセキレイも同様である。何が起こっているのであろう
*分倍河原駅:京王線としては、大正14年3月玉南電気鉄道屋敷分(ぶん)駅として開業。昭和3年12月分倍河原駅に改称。昭和4年3月南武鉄道(現JR南武線)屋敷分駅との連絡のため移転。南武線としては、昭和3年12月南武鉄道線屋敷分駅として開業。昭和4年12月分倍河原駅に改称
*分倍:東村山市徳蔵寺にある「元弘の板碑」(国指定重要文化財)には、分倍合戦戦死者の名等が刻まれているが、中に「武州府中に於いて五月十五日討死せしむ」とある。分倍は府中の一部であったのである。因みに、板碑に刻まれた飽間(あきま)斎藤氏三名は、26歳、23歳そして35歳(この方のみ十八日相州村岡で討死)の若者たちである
*分倍河原の合戦:享徳4年(1455)1月、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉勢との間でも行われている

睦月三日  再入院

「みち」

 昨年末、おばあちゃんの大腸がん治療に関わる入退院等につき書いた。そして文末で、退院後のことを書くかもしれないし書かないかもしれない、と言ったが、書くことにした。
 自宅に戻っての後、また、大きな出来事が起きたからである。

 簡単に言ってしまうと、家に戻ったのも束の間、大して落ち着く間もなく再入院、と相成ってしまったのだ。

 一年もあと数日で終わるという、暮れも押し迫った良く晴れた日、クリスマス・プレゼントに看護師さん一同から頂いたチェックのシャレオツなミニ・ブランケットを早速纏いながらタクシーで帰宅。長い入院生活で、脚の筋力に多少の衰えは感じられたが、他には目立つ変化も無く、また腹部手術跡のキズ洗浄も思ったよりは無難にこなせ、これで普段の生活に徐々に戻れるであろうと、そう考えていた。
 そして、明日で年内の診療は終わると言う日、退院後初の受診となった。ドクターによれば、キズの回復も順調で、来月半ば(今月の事)辺りまた来て頂ければ良いでしょう、と言うことで、一安心。
 が、その晩辺りからどうも様子がおかしい。珍しく少し食べたものを戻したり、足元も普段以上に覚束ない。せん妄的言動も目立ち、丸めたティッシュペーパーを口に入れるなどする。明らかに通常のおばあちゃんではない。
 これは矢張り少し問題である、とあれこれ原因を考えるうち、朝出がけに、私が玄関を施錠するためほんの少し眼を離した時、後ろ向きに転倒してしたことを思い出した。本人は頭は打っていないと言ってはいたが、若しやあの時後頭部を強打したか?と気になりだした。
 然しその後、不穏な様子は消え、落ち着いてきたので、取り敢えず少し様子を見るか、とその晩はそれで就寝。

 そして、翌朝である。
 部屋を覗くと普段通りに寝ているので安心したが、キズ洗浄をする為起こすと、矢張り何処となく様子がおかしい。よく見ると枕がおう吐物で汚れている。これは、ノーウォーク・ウイルス(ノロ・ウイルス)にやられたか?と凡そ一年前の朝を思い出し、おむつを確認すると、まったく汚れてはいない。
 では、何であろうか・・・と思いつつ、キズ洗浄だけ済ませる。
 そうこうするうち気付いたのだが、いやに手足が冷たい。「冷血人間」とあだ名されるほど手が常に冷たい私が触って冷たいと感じるのであるから、相当冷たくなっているはずだ。意識は結構しっかりしてはいるが、口にする言葉の内容など、矢張り何とはなく変である。トイレに起たせようとすると、足に全然力が入らない。
 何となくではなく、はっきり変である。病院の担当ドクターに電話をすると、すぐに連れて来て下さいとのことである。大慌てで支度をし、タクシーをコール。
 タクシーに乗せるのが一苦労であった。全く足が上がらないのだ。何とか苦労して乗せた後も、うわ言の様に「水をください・・・喉が渇きました・・・」とろれつの回らぬ言葉を繰り返している。こんな状態は初めてのことである。

 病院では受付もスルーでドクターが迎えてくれ、すぐに彼是とチェック。
 お腹の方は問題なく、転倒のことを考えると矢張り頭かもしれないという事で、救急治療室で早速、種々検査となった。

 一時間ほどの後、当直のドクターから聞かされた結果は、私としては意外なものであった。
 原因は、お腹でもなく、頭でもなく、心臓、であった。

 説明された病名は、洞不全症候群。

 心臓には、右心房上部に「洞結節(洞房結節)」と呼ばれる小さな三日月状の心筋細胞の塊がある。心臓の拍動リズムを決める、いわば天然のペースメーカー的部位である。この洞結節の機能が低下し、脈が遅くなり(徐脈)、脳その他臓器の血流が不足し種々の障害が起こるのが、この洞不全症候群。多くは原因不明であるが、加齢による影響が大きいともされているようだ。
 この病気による症状としては、意識障害、眩暈、失神、ふらつき、手足の冷たさ、倦怠感などが見られるそうだが、確かにおばあちゃんの症状の多くは一致する。せん妄的言動は意識障害(意識変容)に当て嵌まり、転倒による影響ではなかったようだ。大体転倒自体が、洞不全症候群による影響(ふらつき、眩暈)で起きたのかもしれない。

 で、おばあちゃんの治療だが、心拍数が30前後と、通常の半分以下(高齢女性は一般に毎分70回ほど)となってしまっているため、ペースメーカー植え込みが必要と言うことである。他に手術があるため、まず体外式の仮の(テンポラリー)ペースメーカーを装着し、午後埋め込み型のペースメーカーを植え込む、とのこととなった。

 日が没する頃、手術は無事問題なく終了し、またHCU(高度治療室)入り。その後四日目に普通病室行きとなり、現在、入院生活中である。

 折角大腸がん治療が終わり退院できたのに、五日と経たずにまた逆戻りである。一か月の間に二度も手術など、90歳超のおばあちゃんには、なんと過酷なことであろうか。
 冷血人間の私であるが、流石に不憫と感ずる。

 ・・・・・・

 上の画像であるが、記事内容とは無関係である。ただ、この再入院と同じ頃、通りすがりに見掛け、何故かとても強い印象を受けたので載せた。可愛らしくまたこの時期らしい雰囲気でもあるし。緑道脇の小さな公園に置かれた「みち」と題された彫刻である。帽子やマフラーは何方かが被せあるいは巻いたもの。時々着替えているようだ。

2017 1/3

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*洞不全症候群:これが直接の原因で死に至ることは多くないらしいが、脳の血流が不足(酸素不足)し失神やめまいで転倒・転落など起こし事故に繋がるなどの危険がある
追記:アルツハイマー病治療薬のうちコリンエステラーゼ阻害系のアリセプト、レミニール、リバスタッチパッチは副作用として洞不全症候群があるため、おばあちゃんには投与不可となってしまった。もともと、リバスタッチパッチ以外は副作用が激しく使用できなかったが、リバスタッチパッチまで使用できなくなったのはイタイ

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