Used Books CARROT | MYSTIC RHYTHMS

北の離れ 2019

古書店主が綴る日常雑記 古本屋な日々...  profile

・12月2日 霊園掃苔―石ローラー
・12月1日 霊園掃苔―複雑怪奇
・11月16日 HONG KONG
・11月15日 霊園夜景
・11月14日 ラグビーワールドカップ2019
・11月13日 みんなのうた「鉄塔」
・11月7日 夜間走行―反射テープ
・11月5日 夜間走行―妖怪
・11月4日 夜間走行―多磨霊園・深大寺
・11月1日 多磨全生園―土塁
・10月30日 多磨全生園―ハンセン病資料館
・10月28日 多磨全生園―納骨堂
・10月26日 多磨全生園―最古級
・10月24日 多磨全生園―ヒイラギ
・10月22日 ムジナ坂
・10月20日 雨間大塚古墳
・10月11日 あなたの街の―
・10月9日 田園
・9月27日 砂利軌道
・9月18日 霊園掃苔―望郷台
・9月11日 ナイトライド―夜景
・9月7日 多磨全生園 4
・9月6日 多磨全生園 3
・9月5日 多磨全生園 2
・9月4日 多磨全生園 1
・8月29日 デイタイムライト
・8月10日 霊園掃苔―桃李
・8月7日 ショート・ラン
・7月29日 霊園掃苔―斜向かい 2
・7月28日 霊園掃苔―斜向かい 1
・7月24日 カメラ
・7月18日 霊園掃苔―ネジバナ
・7月6日 捕鯨再開
・6月24日 大腸がん検査―マジ?
・6月14日 また風邪
・6月8日 霊園掃苔―お隣りさん 2
・6月6日 霊園掃苔―お隣りさん 1
・6月2日 hikikomori
・5月23日 巣立ち
・5月21日 少飛の塔
・5月3日 着用・非着用
・4月27日 訴え
・4月10日 社会化期
・4月2日 牛群と橋
・3月13日 アピール
・2月28日 No(ノー)
・2月24日 戦跡 調布飛行場―WW2後
・2月22日 戦跡 調布飛行場―掩体壕 2
・2月20日 戦跡 調布飛行場―掩体壕 1
・2月18日 戦跡 調布飛行場―門柱、飛燕
・1月27日 子供の私が甦る
・1月1日 ネックウォーマー


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霊園掃苔―石ローラー
 前回の、平沼騏一郎氏のお墓を取材し終わり、私の背中側に建つ、山本悌二郎墓をふと見ると、何?これ、と言うものが置かれていた。

府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓
山本悌二郎墓(10区1種3側)
平沼騏一郎墓のお向かい

 墓域前に二つ並ぶ、巨大な臼様の石造物だ。

府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓
墓域前

 高さは、50p程もあるであろうか。直径も含め大きさの印象としては、「酒樽」。

府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓 府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓
何?

 一見すると、上部に装飾のあるオブジェ的なものに見えないこともないが―、何となく実用物の様に思える。然し、何であるかはさっぱり分からない。

 上面には、可也大き目の八角穴がある。

府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓 府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓
左のには「金記」とある

 中には水がたまり、夏場は、大分ボウフラが育ったであろう。

 子細に見ると、向かって左の臼側面に、旧漢字・右横書きの文字が刻されている。

府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓

 昭和十四年十一月
 台湾精糖株式会社
 台湾従業員一同

 文面を読んで、合点がいった。これは、サトウキビを絞る石臼だ。

 ネットであれこれ調べると、側面の穴は隣り合う石臼同士を回転させるためのものだ。この穴に一つ一つ小さな板を差し込み、隣りの臼の板と歯車を噛み合わせるようにして、同時に回転させるのである。中央の八角形の穴は、回転軸を差し込む穴。昔は、この石臼をウシやウマに心棒を引かせて回転させ、臼と臼の間にサトウキビを差し込んで圧搾していた様だ。使い方からすれば、石臼と言うよりは「石ローラー」と言った方が正確かもしれない。
 このローラーや心棒など一式を「砂糖車」と呼び、南西日本で広く使われていたという。沖縄で「サーターグルマ」、徳之島で「サタグルマ」、四国などでは「シメグルマ」と呼んだそうだ。
 昔の沖縄でのサトウキビ搾りの写真(ナショナルジオグラフィック)を見ると、ウマが三個一組の石ローラーを心棒を使って回している(中央の臼に心棒が装着されている)。この「糖三柱車」と呼ばれる三連ローラー式は、1631年に沖縄の真喜屋実清(まきやじっせい)(1647-1696)が二連式を改良して作り広めたという。
 明治以降は、一部を除き砂糖車の使用はすたれたそうなので、台湾精糖で実際こうした石ローラーを使用していたのかどうかは、不明。

 石ローラーばかりに触れてしまったので、お墓の主(あるじ)である、山本悌二郎氏(1870-1937)にも触れたい。
 彼は佐渡島に漢方医の子として生まれ、独逸学協会学校(現獨協学園の元)卒業後、公費でドイツ留学。帰国後は第二高等学校教授など経て、日本勧業銀行に入社。以後は実業界に転じて、明治33年(1900)、当時日本統治下にあった台湾で、台湾初の新式機械製糖工場を建てた「台湾製糖」の創立に参画して常務取締役支配人となり、後に社長となった。これが、この墓前にサトウキビ圧搾石ローラーが置かれた由縁であろう。因みにこの会社は、スプーンのマークでお馴染みの三井製糖の母体企業の一つである。
 その後、衆議院議員となり当選11回。立憲政友会の重鎮となった。昭和に入って、田中義一内閣と犬養毅内閣で農相を歴任。5・15事件ののち議員を辞した。

 政治的には国粋主義的思想の持主であったそうだが、とするとお向かいの騏一郎氏と同じである。園路を挟んで対面するのは、単なる偶然なのであろうか。

 なお、竿石の悌二郎氏の名の左横に、「室 よ称之墓」とも刻されている。奥さまの「ヨネ」さん(旧姓近藤)だ。あとから彫り足されたためであろう、可也狭いスペースにある。

府中市、多磨霊園、山本悌二郎墓
山本悌二郎・よ称墓

 合掌。

 取材後、すぐ近くにある10区水場会長とのツーショットを狙ったのだが、

府中市、多磨霊園10区水場
10区水場と会長

水場がボケ過ぎてしまった。

2019年師走2日
(取材は10月末)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・この場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

*国粋主義:西欧化を嫌い日本古来の文化・伝統を強調し守り国家・社会の基本とする考え。日本主義
*台湾製糖:戦後「台糖」に社名変更。のち新三井製糖等と合併し三井製糖となる。発足時より株主に三井財閥があり三井とは縁が深かったのであろう

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霊園掃苔―複雑怪奇
 多磨霊園、平沼騏一郎墓、である。

府中市、多磨霊園、平沼騏一郎墓
平沼騏一郎墓前

 広い園路の東面(画像右)。私の相方(ロードバイク)の、向い側辺りだ。

府中市、多磨霊園、平沼騏一郎墓
平沼騏一郎墓(10区1種1側)

 至ってオーソドックスなスタイルな、墓所。正直、彫りこまれたその名が目に留まらなければ、スルーしてしまっていたであろう。

 平沼騏一郎(きいちろう)(1867-1952)は、第35代総理大臣も務めた政治家である。岡山県出身で、父は、津山藩士であった。明治22年(1888)に東京帝国大学法科大学を卒業後司法省に入り、其の後は大審院検事、検事局長、検事総長、大審院院長などなど歴任し司法界最大の実力者と言われ、大正12年(1923)には法相にまで上り詰めた。
 非常に厳格な人物で、汚職事件を厳しく摘発し、社会主義運動は厳しく弾圧した。また、国粋主義者であり、共産主義やファシズムを嫌ったという。復古的日本主義の右翼団体の会長も務め、右翼や軍部の支持を得た。そうした体質を、同じ多磨霊園に眠る、リベラル派(自由主義)の西園寺公望に嫌われていたそうだ。

 題名の「複雑怪奇」だが、騏一郎氏はこの語で有名である。反共産主義の下、ドイツと共に反ソヴィエト勢力を結集しようと関係強化を目論んでいた首相(昭和14年1月就任)の騏一郎氏だったのだが、なんと8月23日、その相手のドイツが日本を無視して、「敵」であるはずのソヴィエトと「独ソ不可侵条約」を締結してしまった。この行いに、驚き又呆れた騏一郎氏は、

「今回締結せられたる独ソ不可侵条約により欧州の天地は複雑、怪奇なる新情勢を生じたので
わが方はこれにかんがみ従来準備し来たった政策はこれを打ち切り、更に別途の政策樹立を
必要とするにいたりました」
(神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」より引用(改行は管理人))

と言う談話と共に、8月28日、組閣後8か月で総辞職したのである。
 この年の5月にはソ連との間でノモンハン事件が起こり、6月には中国天津で陸軍による英仏租界封鎖事件が起こり、そして7月にはアメリカに日米通商航海条約を破棄されるなど、外交上の問題が連続して起こっていたので、このドイツの件でもうお手上げ、となったのであろうか。
 考えてみれば、世の中の事は大抵「複雑怪奇」で、まして国際政治などはその極みであろう。日本が国際社会の中でなかなか外交能力を発揮できないでいるのは、この頃から変わらない、と言う事か。

 騏一郎氏は、WW2後A級戦犯に指定され、極東軍事裁判(東京裁判)で終身禁固刑に処せられた。巣鴨プリズンに拘置されていたが、昭和27年(1952)病気のため仮出所した後死亡した。昭和53年(1978)に、靖国神社に合祀されている。

府中市、多磨霊園、平沼騏一郎墓
平沼騏一郎墓

 なお、上から二枚目の画像で、左の灯籠に隠れているやや小ぶりなお墓は、「平沼恭四郎 節子」墓となっている。
 此方は、生涯独身(現時点で歴代総理の中では唯一だそう)で子のなかった騏一郎の養子の方々のお墓である。
 節子さんは騏一郎の兄で経済学者の平沼淑郎の孫、恭四郎氏はその婿。本来は、このご夫婦の子、運輸大臣や通産大臣等を歴任した元衆議院議員、平沼赳夫氏のみを養子とするはずであったが、恭四郎一家すべてが、騏一郎の養子となったそうである。
 なお、節子さんは、東京裁判で騏一郎の代理として証言台に立っている。

 合掌。

2019年師走1日
(取材は10月末)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・この場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

*墓所:出身地、津山市の安国寺にもある
*国粋主義:西欧化を嫌い日本古来の文化・伝統を強調し守り国家・社会の基本とする考え。日本主義
*独ソ不可侵条約:附属の秘密議定書で東欧における両国の勢力範囲が定められポーランドは分割された。1941年6月ドイツによるソ連攻撃が始まり破棄
*ノモンハン事件:満州国とモンゴル国境付近で起きた日本軍とソ連軍の軍事衝突。ソ連機甲部隊により日本軍は壊滅的大敗。9月停戦。日本軍死傷者約二万、ソ連・モンゴル軍死傷者約二万六千。「事件」とされるが「戦争」である
*天津英仏租界封鎖事件:租界は中国も日本軍も手が出せない地帯。親日派中国人暗殺犯が英租界に逃げ込んだ際イギリス側が容疑者引き渡しを拒んだため現地陸軍が租界を封鎖した事件。日米通商航海条約破棄に繋がったともされる
*日米通商航海条約:明治44年(1911)調印。明治27年(1894)の条約を改正したもの。日本の中国侵略に抗議し破棄

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HONG KONG
 香港の民主化デモで、11日、警察官に実弾発砲された学生が、重体を脱したと13日報道された。依然重傷とは言うが、取り敢えず容体は持ち直したようだ。

 今年の春から始まった、香港の民主化・反政府デモは、8日、警察による強制排除中に駐車場から転落した学生が亡くなった辺りを境に可也破壊的・暴力的な様相を呈してきている様に見える。
 私は、「自由」であることを何よりも支持するが、何方に対しても、暴力的行為は望まない。

 香港は、1842年から1990年まで「イギリス」であった。香港の歴史にはまったく詳しくないが、中国本土とは可也異質な歴史を歩んできたのであろうことは、想像できる。その香港を、中国政府が「一国二制度」を蔑ろにし「本土化」しようとしているのであるから、反発が起きるのも無理はないと、これも想像できる。
 今回の香港市民と政府との対立も、嘗ての植民地政策の、一つの負の遺産と言えるのかもしれない。

HONG KONG

 何れにしろ、双方が剣を棄て、対話の席に着くことを、心から望む。

 それにしても、各国、特に我が政府は今回の弾圧に対して沈黙傾向である様に思えるが、なぜであろう。中国政府に対する忖度?なのであろうか。

2019年霜月16日

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・画像は、イラストACからのjohanさんによる

*一国二制度:香港は社会主義である中国の中で資本主義システムが継続され高度な自治権を有している

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霊園夜景
 「霊園夜景」と題したが、霊園は夜間立入禁止なので、正確な表現ではないかもしれない。この時期、多磨霊園閉園時間は17:30。そのギリギリの時間に訪ねたが、僅かに夕明かりの残る時間帯で、「霊園夕景」の方が、近いかもしれない。
 とは言っても、霊園内の園路(道路)は照明など一部を除き無く、自転車のライトは「点灯」にしないと路面が見えず走れない。

 しかし、この可也に暗い中、ワンコのお散歩をされている方が非常に多いのに驚く。流石にほとんどの方がご夫婦或いは親子とみられる様な二人連れで、単独の方はあまり見かけない。彼方此方、園路の上でワンコ談義をしていらっしゃりもする。

 さて、私は二つの噴水塔の夜の姿を狙っている。まだ、若干空に薄明かりが残るので、冒頭に書いた如く厳密には「夜景」と言い難いが、これより遅い時間は入れないので致し方ない。冬になれば、この時間もう真っ暗だが、その頃は寒さの問題が出て来る。霊園内は、流石に周辺より気温が低いのだ。

 まずは、大のオキニ、11区の噴水塔。


 これが建つのは墓域の中心なので、周囲に一切の灯りが無い。画像は多少明るく写っているが、実際辺りは、もっと真っ暗である。

 シンボル塔こと旧噴水塔。ここ多磨霊園を代表する、アールデコ建造物だ。


 こちらも周囲に一切の灯りが無い。大分実際の暗さに近く写っているが、空はもっと暗い。
 昨年(2018)の今頃の記事で、シンボル塔基部が掘り返されていると書いたが、それはもう、階段含めすべて元通りになっている。キレイに復元されて、発掘の跡など知りようもない。
 しかし、まだ整備の始まる気配はない。何時になったら、また中に入れるのであろう。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年霜月15日
(取材は10月下旬)

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・この場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

*シンボル塔:老朽化のため現在は立入禁止。整備ののち再解放とされているが・・・

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ラグビーワールドカップ2019
 これは、調布飛行場北端、武蔵野の森公園の「展望の丘」から見た、東京スタジアム(標高39.1m)の夜景。

調布市、東京スタジアム
「日本対南アフリカ」開始前の東京スタジアム

 これから正に、ラグビーワールドカップ2019日本大会、決勝トーナメント「日本対南アフリカ」戦、試合開始直前の姿だ。スタジアムや最寄り駅周辺は、各国のお客さんとお巡りさんとボランティアの方々がイッパイで、エライ状態になっており、撮影などできる空気ではなかった。ので、このような遠目の姿となった。
 私の立つ丘から、スタジアムまでは1.5km程の距離があるが、間にはグラウンドや滑走路しかないため、試合前パフォーマンスの音響が間近の如くに聞こえてくる。
 丘の上には、私と同じ様な考えの方がちらりほらりと立ち、スタジアムを遠望しておられる。

調布市、東京スタジアム
引きの絵
手前は滑走路北端

 日本代表、四強進出はならなかったが、ベスト8は誇るべき結果であると思う。多摩には、二つもトップリーグの強豪チーム(共に府中市)があるので、結構ラグビーには親しみを感じているのだ。サイクリング途中、両チームの練習場横を通りしな、グラウンドを子細に拝見したこともある(練習には遭遇したことは無い)。ただし、ラグビーには全然詳しくない。ルールも、今回のワールドカップの試合中継で初めて覚えたものが大半だ。
 でも、ラグビーはやったことはある。高校の体育の授業で、ラグビーがあったのだ。新設校でまだ校庭が完成していなかったため、学校横の線路脇の空き地を借り、生徒たちで整備して即席のラグビー場にした。石を拾い草を抜き、ローラーを曳いて、それだけで可也の労苦である。しかも、一寸キックが逸れると線路にボールが入ってしまい大変であった。幸い東京でも大分田舎の路線で、滅多に電車は来ず勝手に入って拾ってきたが(何十年も前の話。ほんとはそんなことしちゃ絶対ダメ)。

 俄(にわか)ファン、とはどのフィールドでも良い意味で言われることは無いが、でも、「俄」の中から真のファンも生まれるのである。私なども、嘗てのハード・ロック/ヘヴィ・メタルの一大ムーヴメントの中で、結構「俄」でヘヴィ・メタル・ファンになった様な所も否めない存在だが、今ではファン歴〇十年の可也筋金入りのファンを自認する、メタルおやじだ。ラグビーの俄ファンも、馬鹿にしてはいけない、其の中にラグビーを世に根付かせる、将来の筋金入りファンが、きっと多く存在するのである。
 俄ファンを寛容に受け入れる世界にこそ、未来はあるのだ。

 それにしても、ラグビー代表チームはいい。国籍・出身地域の異なる選手たちが混然となっているのは、人類が理想とする姿の縮図ではないか。

(スプリングボックス、優勝おめでとう!でも、なんで南半球がこんなに強いの?9回のワールドカップで8回南半球のチームが優勝してるよ)

2019年霜月14日
(取材は10月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所(展望の丘)は三鷹市大沢、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

*スプリングボックス:アフリカに生息する「スプリングボック(Antidorcas marsupialis)」(ウシ科スプリングボック属)という中型のレイヨウ(アンテロープ)に因む

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みんなのうた「鉄塔」
 マジっすか。眼をいや耳を疑った。なんと、天下のNHKさんの「みんなのうた」で「鉄塔」って。

 夜更かしが祟って、体調悪く、おばあちゃんがデイサーヴィスの疲れで眠っているを幸い、朝の用事を彼是済ませたあと、お昼近くまで部屋にこもって調べ物をしていたが、猫達がうるさいのでリヴィングに出ておやつを与え、TVをつけたら、偶々「みんなのうた」。そしていきなりタイトル「鉄塔」。思わず「マジかっ」と呟いた。シンガーソングライター、南壽(なす)あさこさんの作・歌唱だ(編曲:酒井ミキオ、K-MIX)。

 いつも、変わらず、静かに佇む鉄塔。風景の邪魔ものにされ、或いは眼中に留められず、それでも、何処(いづこ)からか来たり、何処へかと続いてゆく送電線を支え続ける鉄塔。その機能に徹した「美」。そうした存在を歌にしてくれるお方がおり、それを人気番組にとりあげてくれるNHKがいることに、素直に感激した(9月に起きた鉄塔倒壊事故の後である)。
 鉄塔風景写真家、藤村里木さんの写真も、吉田ヨシダさんのアニメーションも、共に素晴らしい。

 一鉄ヲタ(鉄塔好き)として、嬉しい限りだ。

 ちなみに、第三腕金がバランス耐張となっている農地の中の鉄塔は、只見幹線っぽいが、どうなのであろう。ヘリ巡視用プレートが左右の地線腕金にあるので、違うかもしれない。只見幹線のヘリ巡プレートは、地線腕金中央の塔体部分にあるし。少なくも、周囲の風景が異なるので、八国山下の只見幹線501号(下)ではないのは確かだ。

只見幹線501号
只見幹線501号
(東京都東村山市)

 こちらは、郊外の住宅地と八国山緑地の狭間で、緑地のある北側を除き、周囲は住宅や学校などに囲まれている。
 映像を見ると可也周囲は田園なので、只見幹線468号の様にも見えるが(TinySlopeさん参照)。やはりヘリ巡プレートの位置が異なるので、違うな。

2019年霜月13日

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鉄塔に昇るのは非常に危険です。絶対にやめましょう

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夜間走行―反射テープ
 妖怪たちと戯れた後、今回のナイトライドでも、夜景にチャレンジした。国立天文台南の国分寺崖線上からの絵である。今年の初めに日中の絵も紹介した。この近辺で、夜景が望めるのは此処くらいしか思いつかない。

 調布飛行場方向を見る。

三鷹市、調布飛行場
夜の調布飛行場方面

 こちらは、下を流れる野川沿いから天文台のある崖上に続く、長い階段。

三鷹市、国立天文台南
地獄への階段、だな

 時折「ガサッ」と言う落ち葉を踏むような音がして、思わずその方向を見るが、何(誰)もいない。そのうち気付いたが、これはドングリが落下する音である。街灯はあるにはあるが、木立ちに光が遮られるので辺りは暗黒に近い。一寸ビビった。

 最後に、夜間走行用装備について。
 何度か夜間走行(ナイトライド)して、感じたのだが、バックパックと足首の赤いリアライトは問題ないとして、フロントの白色ライトだ。これは明るさ(100及び400ルーメン)に関して問題ないのだが、心配性の私は一灯では何処となく心細い。点灯状態のライト一つあれば、可也目立つのは他の自転車を見ていて分かるが、交通量の多い道路では、自動車のヘッドライトに掻き消されてしまう様にも思える。ので、以前から手元にあるが全く使っていない白色セーフティライトをハンドルに装着し点滅させることとした。だが、このライトのブラケットはロードバイクの太いハンドルには装着不可なのだ。そこで、これまた手元にあったシリコンバンドを使用しハンドル下側に固定した(上に付けると、目の下でチカチカしてうるさい)。単5電池使用で、他のライトと異なり充電式でないのが玉に瑕であるが、新たに買う予算も無いし使わないのは勿体ないので、暫らくは夜間走行のお供をお願いすることにした。
 フロント、リア共にやはり「点滅」が目立つ。点灯だと自動車のライトや街の灯りに紛れてしまうが、点滅だと瞬間的に自転車と分かる。

 これで、フロント、リア共に2灯態勢である(昼間は前後ともに1灯ずつ)。物々しいが、安全には代えられぬ。私しか頼れるものの無い、認知症のおばあちゃんと猫連中のためにも、事故だけは防がねばならぬ。
 自ら発光するライトは、取り敢えずこれでいいとするが、それでも心配性の私は満足せず、反射材を幾つかプラスした。バックパックにおばけのリフレクター(結構可愛く気に入っている)をぶら下げ、手首には反射バンドを巻いた(金属製でくるっと巻ける)。どちらも100均。色も共に白。本当は黄色などの方が目立って良いのだが、変な美意識があって、蛍光系の色を使う気になれないのだ。蛍光オレンジのバックパックや蛍光イエローの反射バンドなどメチャ目立つのだが、無理である。困ったものだ。
 以上の装備は、フロントライトを除き私本体の装備だが、自転車本体の方にも新たに装備を施してみた。ペダルのオレンジのリフレクター、スポークの白のリフレクターそしてサドルポストの赤のリフレクターなど元から自転車に装着されていたものはそのままに、動く部分を中心に反射テープを複数個所に貼ったのだ。

 しかし、夜間用装備を施した相方を、残念乍ら自分ではどのような状態になっているのか見ることが出来ない。ので、夜景撮影と同じ国立天文台沿い崖線上緑地の遊歩道で、フラッシュ撮影を試みて見た。

ロードバイク(反射テープ)

 「a」の小さな点は、ハンドルのブレーキブラケットの先端部分の反射テープ。「b」はホイールに貼った反射テープ。「c」はペダルアームの反射テープ。「d」はペダル前面のシルヴァーの反射テープ。「e」はホイールのリフレクター。向かって左に光る「f」はハンドルポーチのメッシュポケットに入った、夏に憧れる雪だるま「オ〇フ」。

ロードバイク(反射テープ)

 「b」はホイールの反射テープ。「c」はペダルアームの反射テープ。「d」はペダル前面の反射テープ。ホイールで真っ白に光る「e」は元からあったリフレクター。これに比べると反射テープは少し黄色っぽく見える。

ロードバイク(反射テープ)

 「b」はホイールの反射テープ。「c」はペダルアームの反射テープ。「d´」はペダル後面のオレンジのリフレクター。「e」はホイールのリフレクター。「g」は元からの赤いリフレクター。私のペダルはトゥクリップ仕様なので前後・表裏がある。後側方にはオレンジのリフレクターが元からあるが、前側には何んにも無いので、シルヴァーの反射テープを貼ってあるのだ。(トゥクリップは走行中にボルトがすっ飛んでしまい使えなくなりました)

 こう見ると、横と後が多少弱い様にも見えるが、横はホイールもペダルアームも回転するし、後ろは私が乗ればバックパックの反射材が加わるのでトータルでは問題ない様に思う。ロンパンの季節になれば、更に裾バンドの反射材(横と後に付いている)が加わるし。

 元からあったリフレクターと「オ〇フ」及びペダルの前部分を除き、他はみな黒の反射テープだ。相方はブラックの車体なので、黒の反射テープは、明るい所では貼ってあることがぱっと見分からない。正確に言うと、「黒」と言うよりは黒に近い「濃いグレー」なので、よくよく見ればそれと分かるけれど、一見したところでは分かり難い。知らなければ、少なくも反射テープとは思えないであろう。しかし、暗がりで光が当たれば、可也光る。輝度は、白の反射テープに比べれば6-7割程度、シルヴァーに比べれば8-9割程度だが、それでも何もないよりははるかに光る。デザインを崩したくないけど視認性・安全性は高めたい、と言う方にはお勧めである。

 下は後日、日中撮影した黒反射テープ。場所は小平市「くぬ木児童公園」玉川上水畔、住宅一軒分もない様な小さな小さな公園(道路を挟んで東西にある内の西側)。私以外人は無く、ご迷惑にはなっていないと思う。

ロードバイク(反射テープ)
ブレーキ・ブラケット

 ブレーキ・ブラケット先端は、どれほど効果があるか不明だが、ホイールやペダル・アームに貼った残りの切れ端が勿体ないので、試しに貼ってみた。

ロードバイク(反射テープ)
ペダル・アーム

 若干光っているが、少し視点をずらすともっと目立たない。ペダル・アームは、つま先の角度に合わせ斜めに貼った。これなら足のつま先で隠れずにすむ。そしてアーム側面まで覆うことで、前後からも見える様になる。

ロードバイク(反射テープ)

ロードバイク(反射テープ)
ホイール

 下画像は、僅かに光っている。ホイールは側面だけでなく内側全体を覆うように貼れば、斜め後ろ・斜め前からも見えるのでより効果的(と思う)。基本自動車は、自転車を完全に真後ろ・真正面から見ることは余りないと思うのだ(推測)。

 何れの場所も、よく見れば何かが貼ってあるのは分かるが、反射テープには見えまい。どうであろう。
 何れにせよ、デザインを崩すほどの目立ちは無いと思うのだ。

 ただ、一般のお店では黒の反射テープ、まず店頭に無い。東京の田舎(多摩)であちこちホームセンターなど探したが無い。白、赤、オレンジなどは何所にでもあるが、黒は全くない。通販以外では、購入は難しいと思う(都心の東急ハ〇ズ辺りならありそうだが、交通費が大変)。スコッ〇他幾つかのメーカーから出ているが、私が購入したのは、ポッ〇ニートさんのものである。薄くて柔らかく、曲面にもなんなく馴染んだ。でも、空気が入らないようにするのは、結構大変。老眼だし。

 正直、ロードバイクの大きな魅力は、その見た目の美しさである。速く遠くまで走る為に、その特殊化した存在が醸す機能美。なので、余り色々と装着したくないのだが、でもこの年齢では快適性も追求しないと続けられないし、そして何より安全性を求めねば、イノチがアブナイ。乗らない・走らないのが一番安全だが、それではココロがアブナイ。どこに妥協点を置くかは人それぞれだが、現時点での私の安全と見た目の妥協点はこの辺りである。

 世の中から、自転車事故が少しでも減りますように。

2019年霜月7日
(取材は10月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所は三鷹市大沢(天文台)・小平市上水新町(くぬ木)、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅(天文台)・西武拝島線東大和市駅(くぬ木)です

*黒い反射テープ:本文にもある様に反射材としては十分に役立つと思うが、白い反射テープに比べると輝度は高めに見て70%程である。安全性を最優先に求めるならば白や蛍光カラーをお薦めする(個人見解)

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

夜間走行―妖怪
 前回の深大寺から、調布の住宅地を走る。何処と言うあてもなく走るが、夜なので方角も時々分からなくなり、可也彷徨う。でも、それが面白い。

 街灯に照らされた人気のない児童公園が目に付き、休憩を兼ねて立ち寄る。下石原の「ターザン児童遊園」(標高36.5m)だ。ここで、巨大遊具をバックに相方を激写。

調布市、ターザン児童遊園
ターザン児童遊園
手前は相方

 この公園、南側の入口から入ってすぐに通路を塞ぐように、サクラの大樹がほぼ真横に太い幹を伸ばしていて驚く。入るときは街灯を背景にしているので、気付かなかったが、灯りに照らされている姿を園内から見て初めて気づいた。そのサクラの根元にゴリラの彫像が鎮座している。相方後ろの巨大遊具に、ヘビやサルや動物たちが沢山いるが、ゴリラ含め、これが公園名の由来なのであろうか。
 でも、今の子供たち、ターザン知ってる?私の子供の頃、アメリカ製ドラマ「ターザン」が大人気であったので、子供たちはよく真似をしたが。ディズニーでアニメ化(1999)されているようなので、案外今も知名度はあるのかもしれない。

 ターザン児童遊園から東、調布駅方向に向かっていくと、家々の狭間に何やら藁ぶき小屋的なものがチラリと見えた。幼稚園の園庭か何かだと思ったが、そうではなかった。南北に走る鶴川街道に達し、少し北に上がって地下化された京王線との交点、嘗ての線路があったその場所に、いつの間にやらこんなものが出来ていた。

調布市、鬼太郎ひろば
鬼太郎ひろば
向こうは鶴川街道

 「鬼太郎ひろば」(標高38.0m)だ。
 細長い広場には、妖怪たちが、いっぱいいる。

調布市、鬼太郎ひろば
鬼太郎ひろば

 本年(2019)5月に開園したばかりと言う。どうりで、知らないはずである。造るについては、水木プロダクションの協力を得、資金面ではクラウドファンディングを活用したのだそうだ。目標額5,000,000円に対し、結局凡そ倍額の10,000,000円以上が集まり、達成率は203.5%だったとある。矢張り鬼太郎は愛されているのだ。アニメ・シリーズが続き、私の子供の頃から今に至る迄ずっと人気を保っているのだから、驚く。ちなみに私の小学生時代のあだ名は「鬼太郎」であった。髪が長く、いつも片眼が隠れ気味だったから。

 矢張りひろば入り口近くに建つのは、鬼太郎である。

調布市、鬼太郎ひろば
鬼太郎だ

 その左手、縁台に鎮座するぬらりひょんは、可也迫力も存在感もある。流石だ。

調布市、鬼太郎ひろば
ぬらりひょん

 やっぱりスゴミがあるな。

 ぬらりひょんの対面、ベンチには、やまびこが座っている。

調布市、鬼太郎ひろば
やまびこ

 隣りに座り、やまびことツーショット自撮りをする方がおられた。一見して、私と近い世代の女性だ。鬼太郎世代だものな。

 奥へ向かうと、一際デカいぬりかべは、ボルダリングが可能。

調布市、鬼太郎ひろば
ぬりかべ

 但し、下にはマットも何もないので、登る場合はご注意を。

 広場最奥に、一反もめんは長〜いベンチ。

調布市、鬼太郎ひろば
一反もめん

 鬼太郎ハウスもある。さっき来る途中、チラ見えしたのは、これだったのだ。

調布市、鬼太郎ひろば
鬼太郎ハウスと妖怪ポスト

 梯子を上り中へと入れば、この方が入浴中。

調布市、鬼太郎ひろば
目玉おやじ

 裏手へまわると、ハウスは滑り台でもあった。

調布市、鬼太郎ひろば
鬼太郎ハウス

 子泣きじじい、砂かけばばあ、ねこ娘そしてねずみ男と言ったお馴染みさんがいないのが少々さみしいが、余り沢山いるとテーマパーク化してしまい、「町の公園」感が薄れてしまうからであろうか。それに彼ら彼女らは、一反もめんやぬりかべと異なり、遊具化は出来ないものな。

 しかし、彼らと夜に出会えてよかったかもしれない。おそらく、昼間より雰囲気は合うだろう。子供の頃は、面白いと同時に大分コワくも感じていたが、流石に今は後者は無い。でも一寸、昔感じたそのコワさが甦って来た。なんかおじさん、とても、わくわくした。

 悪戯したり破壊行為に及んだり、そうしたフトドキ者が現れないことを願うばかりだ。

 続く

2019年霜月5日
(取材は10月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所は調布市下石原、最寄り駅は京王線調布駅です

*鬼太郎ひろば:「ゲゲゲの鬼太郎」原作者水木しげるさんは調布市に50年以上お住まいになり、多くの作品がこの地で生まれ、調布市の名誉市民となっている

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

夜間走行―多磨霊園・深大寺
 ナイトライド―夜間走行―で、府中、調布方面に出掛けた。このエリアを走ろうと思った理由は、特にない。強いて言えば、偶々「ゲゲゲの女房」の再放送を見掛けて、多少刺激を受けたかもしれない。それに、大大大好きな多磨霊園も、そういえば夜に訪ねたことは無い。行ってみたくなった。

 今までの夜間走行は、日が落ちてすっかり暗くなってから出掛けていたが、今回は、早めに猫連中の散歩と食事を済ませ、まだ十分明るい光が残る頃に出掛け、ぶらぶら走りながら途中適当なところで夜となる、という想定で出発した。
 結果、その「途中」でこんな景色に出会った。

府中市、府中の森公園
府中の森公園(標高54.8m)

 以前触れた陸軍燃料廠(こちらこちら)の、その跡地にある「府中の森公園」。大分葉が草臥れかけたサクラの向こうに、三日月だ。

 さて、上の公園から左程遠からぬ多磨霊園だが、閉門は17:30。もう疾うに過ぎている。辺りは暗く、正門の灯りが暖かな光で周囲を照らしている。

府中市、多磨霊園
多磨霊園正門

 霊園中央を貫通するバス通りは通ることが出来るが、他はダメである。夜間は墓地エリアに入ってはいけませんと、そう表示されている。バス通りから墓地エリアを覗くが、確かに驚くほどに暗い。漆黒、と言ってよいほどに真っ暗、暗黒。東京の市街地にこんな暗い所があるのかと、そう思うほどに暗い。灯り一つ、無い。霊園・墓地好きの私も、流石に、コワイ。確かにこれは、色々な意味で危険だ。フロントライトを400ルーメンモードにして走ったら面白いだろうなとも思うが、転倒でもしたら大変だし、犯罪に巻き込まれないとも限らない。

府中市、多磨霊園
バス通り北端

 正門とは正反対の位置にあるバス通り北端口から、園内を見る。通り両脇の木立の上から、アオマツムシ(Calyptotrypus hibinonis)の声が喧(やかま)しいほどに降り注いでいる。

 霊園東を行く野川を越える。

調布市、野川
野川

 御塔坂(おとざか)橋から上流を見る。変わった名の橋だが、深大寺の塔堂へと続く「御塔坂(おとうざか、おとざか)」のふもとにある為の名であると言う。

 深大寺だ。「ゲゲゲの女房」と言えば、天台宗別格本山浮岳山深大寺である。

調布市、深大寺
深大寺参道(標高39.8m)

 左の灯りが、以前にもチラリとご登場願った有名な「鬼太郎茶屋」。お客さんはもういないが、スタッフの方がおられる様だ。

調布市、深大寺
深大寺山門(標高42.7m)

 参道の突き当り、閉められた山門と、小生の影。山門は、幕末(1865)の大火で大方の建造物が失われたなかで、焼失を免れた数少ないものの一つ。屋根裏の棟札から、元禄8年(1695)の建立とされている。現在、茅葺は旧庫裡とこの山門のみと言う。
 ふと山門よりさらに上を見上げると、丁度山門の上に「W」のカシオペア座が懸かっていた。

調布市、深大寺
山門前の通り

 山門前を横切る通りには、趣あるお店(「雀の〇宿」ほか)が建ち並ぶが、無論すべて閉ざされ、人気は無い。日中は何度も訪れているが、夜は初だ。「ゲゲゲの女房」と鬼太郎人気で、いつもは人込みでごった返す山門前だが、丸で違う世界の様だ。良い、イキフンだ。

 しかし、夜間走行は疲れる。少しでも早く路面の障害物や人や自転車を見つけようとして、無意識のうちに首を立ててしまうので、首と肩が痛くなる。全体に緊張も増すので、背中も凝る。
 でも、楽しい。夜はいい。全てが媚びることなく、それでいて優しい(どこかで聞いたことあるな)。それに、ミステリアスだ。多摩とは言え東京の市街地は、これでもかと明るいLED街灯が立ちまくり、人も自転車も自動車もそれなり多いが、それでも昼に比せば、十分にミステリアスだ。

調布市、深大寺
深大寺通り(深大寺前)

 静かな夜、街灯に照らされた通り。記憶の片隅にありそうな、何処か懐かしく、ちょっと神秘的な、そんな風景である。

 続く

2019年霜月4日
(取材は10月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・これらの場所は府中市多磨町(多磨霊園)・調布市深大寺元町(深大寺)、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅(多磨霊園)・京王線調布駅(深大寺)です

*アオマツムシ:直翅目マツムシ科。鮮やかな緑色の樹上性のコオロギ。一般に中国からの外来種とされる。明治時代に東京赤坂で確認されて以降全国に広がる。都市部の街路樹・公園樹などに多い。リーリーリーと可也甲高い声で、近くではうるさいほどである
*山門:主柱を二間(約3.6m)間隔で立て扉を付け後ろに控え柱を立てた「薬医門」。柱や梁はケヤキ、垂木などはスギ。ケヤキ部分はベンガラ(赤)、スギ部分は黒で、深大寺で唯一彩色された建物

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

多磨全生園―土塁
 前回のハンセン病資料館を後に正門方向へ向かう途中、「中央通り」を渡ろうとしていると、先ほど見掛けた納骨堂にお参りしていた入所者の方々が幾人か、看護師さんに車椅子を押され、私の前を横切って行った(中央通りは墓参通りとも呼ばれるそうだ)。女性ばかりだが、皆さん、我が家のおばあちゃんと同じ90歳台くらいにお見受けする。後姿を見送りながら、どれ程の年月を、この園内で過ごされて来たのであろうと、そう考える。

 自転車に跨り、正門方向へ行く。確かその近くに、この療養所と言う名の「収容所」を象徴する様なものの痕跡があるはずなのである。「土塁」だ。
 ただ、これが分からない。一体どこにある。「全生園ガイドツアー」の簡単な地図には、高架水槽の少し西南にある様になっているが―。その辺り入って行くけれど、作業場的な場所や土盛り、草繁る空き地ばかりで、何の表示もない。一体、進入可なのか不可なのかも分からない。
 しかし、暫しさ迷うと、確かに高架水槽の少し奥、「西梅林」の近く、昼なお暗く木立ちの繁る辺り、らしきものが見える。

東村山市、国立療養所多磨全生園、土塁跡
土塁か?

 中央のタケの幹を見れば、奥のタケの枯葉が積もった左右に伸びる部分が、手前より高くなっているのがお分かり頂けるだろう。タケの節で言えば7から8個分だが、一節が何センチかは不明である。

 タケが生い立つこの土手状の部分、これが開園当初に造られたという土塁と堀の痕跡であろうか。
 何の解説もないが、更に西側(所沢街道側)には職員住宅(跡?)があるので、嘗て職員エリアと患者エリアを隔てていたそれ、ではなかろうか。明らかに、土の高まりが南北方向に連なっている(様に見える)。
 タケの節含め確認したいが、土手には「スズメバチの巣あり」の掲示があり、実際飛翔するスズメバチの姿もチラホラあるので近寄れない。然も、よりによって黒Tシャツで来てしまった。どころか、カスクから帽子、グローブ、バックパックそしてスニーカーみな黒じゃないか。
 残念ながら離れて眺めるしかないが、どうも、土塁っぽく見える。思い做し、であろうか。

東村山市、国立療養所多磨全生園、土塁跡
土塁であろうか?

 実際これが土塁なのかどうかは確証がないが、「土塁(と堀)」は、古航空写真でもハッキリ確認できる。

多磨全生園航空写真(1949)
多磨全生園航空写真
昭和24年(1949)3月2日米軍撮影

 左上から右下へと走る所沢街道の白い斜線に並行する様な、黒い線がクッキリと見えるであろう。左(西側)の官舎が並ぶ職員エリアと右(東側)の患者エリアとの間、これが土塁と堀だ。私の「土塁」写真は、まさにこの付近のものである。
 「全生園ガイドツアー」によると、この土塁と堀は、明治42年(1909)の開設当初の遺構で可視的なものとしては園内唯一と言う。この最南部分は大正11-12年の拡張時に延長されたものであるが、現時点で確認できるのは20m程の範囲で、他の土塁や堀はすでに失われているそうだ。
 土塁と堀というのはセットで、地面を掘ってつくった堀の土を積み上げて土塁にするのである。ところが、これも「ガイドツアー」によるが、ここの土塁は約2mと言う堀の深さに見合うだけの高さが無いという。つまりは、掘った土の一部は他に運ばれたのではないかという事だ。もしかしたら、前回訪問時に紹介した「望郷台」の土にも、ここから運ばれたものが含まれているのかもしれない。
 今回私が確認した(?)土塁がもし実際のものであるならば、ここにも是非、史跡として解説板なりを設置して頂きたいと希望する。療養所が、現実には「収容所」であったという事実を、象徴的に示す痕跡の一つであると考えるのだ。

 最後に、全生園とは直接の関係はないが間接的にはかなり濃い関係性のある物件に出会ったので、ご報告。

 今回の全生園及びハンセン病資料館訪問の際、西武新宿線久米川駅横を抜ける都道をロードバイクで走っている時だ、交差点の信号待ちで、ふと横道の奥に視線をやると、何やら見覚えのある風景が見えた。サクラ並木の続く、緩いカーヴの細道。奥に向かい少し上がっている。これが妙に気になった。
 確かに、何所かで見たことある。結構最近見た様な―。非常に気になりモヤモヤするので、自転車を降り歩道から通りの向こうを覗き込む。通り沿いに青いビルが見えるが、何所かで見たぞ。なんだ?なんだ・・・?「あん」だ!そう、映画「あん」の「どら春」があった場所(標高73.6m)じゃあないか。この間、テレビで観た、正にあの場所だ。

東村山市、「あん」ロケ地
「どら春」ロケ地

 「映画「あん」私設宣伝部」さんによると、この青いビル下のピロティ(一階の一部を柱だけで支え外部に開放した空間)的スペースにセットを組み、撮影が行われたのだそうだ。
 まったく、偶然の遭遇であった。

2019年霜月1日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご理解頂けます様、お願い致します

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)他

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・この場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

*拡張:開園当初の敷地は正門から現神社通り辺りまでの東西方向に長い長方形(30,700坪)。大正11年(20,353坪)・12年(4,664坪)にその南に拡張。昭和2年にその東に拡張(25,163坪)。その後北側に昭和6年(9,473坪)、昭和12年(9,418坪)、昭和13年(10,007坪)が拡張されほぼ現在の形となった
*黒い服:スズメバチは他の色に比し日中は黒或いは濃い色に強く反応する傾向がある(夜間は黒は見え難いので白に反応するとか)。理由は天敵のツキノワグマが黒いからとか諸説ある

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

多磨全生園―ハンセン病資料館
 ついに念願かなって、ハンセン病資料館へ。前回の納骨堂からは、50m程の距離だ。

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館
国立ハンセン病資料館(標高60.8m)
入館無料

 この施設は、ハンセン病に対する偏見や差別を除くため、病気に対する正しい知識の「普及啓発」をし、また患者・元患者さんの名誉の回復を図って設けられたもの。平成13年(2001)の総理大臣談話中の「ハンセン病資料館の充実」に沿う形で、入所者の方々が資料収集から資金工面まで自ら行って平成5年(1993)に設立した「高松宮記念ハンセン病資料館」を、平成18年(2006)に全面リニューアルし、「国立ハンセン病資料館(The National Hansen's Disease Museum)」としたものである。

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館
資料館入口

 入り口右手、「高松宮記念館」プレートの横にはお遍路姿の母子像が建つ。

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館
母娘遍路像

 古川武治(こがわたけじ)氏の手になるブロンズ像。平成5年(1993)に、全国からの寄付をもとに建立されたとある。前にも少し触れたが、ハンセン病の方の中には家族への迫害を避ける為等の理由で四国遍路に出る方もあった。一般の巡礼道とは異なる、「カッタイ道」を行ったのだ。ハンセン病者のこうした苦難を歴史的事実として世に遺すため、全生園大師講が中心になって、この像が建てられたと説明板に記されている。

 入り口を入った左手の受付でアンケートを記入し、リーフフレットやチラシ、資料等を頂き(計6部あった)、順路の説明を受ける。

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館
資料館リーフレット

 ここで判明したが、館内は全面撮影禁止である。そう表示がある。念のため受付で確認したら、やはりその通りであった(カリガツ)。残念だが、決まりでは致し方が無い。

 展示は2Fが中心。順路は1F奥にある階段から始まるのだが、その付近に少し展示がある。前々々回に書いた「ヒイラギの垣根」3m時代の写真と、その高さを示すものもある。床から3m、天井ギリギリの部分にヒイラギの造葉があり、その高さは想像以上だ。
 また、園内上映に使用された、その巨大さに圧倒される映写機もある。隣りには本格的な消防ホース車及び消防服もある。これは火災発生時に、感染を恐れて消防署が来てくれないため園内で組織された消防団のものだ。どれも、園が外部と遮断された世界であったことを示すものである。

 2Fは、3つの展示室に分かれている。「展示室1 歴史展示」は古代から近世、そして患者の隔離政策時代とハンセン病に関わる歴史の流れを概観して、らい予防廃止や国賠訴訟などの現代へと繋がる、図版も多い通史的展示。此処を見ることで、続く展示が理解しやすくなると思う。「展示室2 癩療養所」は、「プロミン」などの治療薬が生まれる前の時代、療養所での生活を表す展示。発病、「宣告」から強制入所、そして園内での生活を、写真の他、園内で「患者作業」で使用されていた実物の様々な道具・用具や実物大復元も含め展示し、ビジュアル的なコーナーでもある。「展示室3 生き抜いた証」は、患者・回復者の方々の文学・美術・写真などの創作活動ほか、生きる姿、生きた姿を展示し、すべての展示を締め括っている。
 館の大元は前記の如く「高松宮記念ハンセン病資料館」で、「ハンセン病患者・回復者が自ら生きた証を残し、社会にあやまちがくりかえされないよう訴える事」を目的に設立とある。当時は、「展示室3」のような展示が主であったのかもしれない。
 内部の写真は無いが、ご参考までにリーフレットにある写真を載せたいと思う。これならOKであろう。

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館
資料館リーフレット

東村山市、国立療養所多磨全生園、国立ハンセン病資料館
別のリーフレット
展示室2にある昔の生活の実物大再現

 「展示室2」には、一つ石の道標があり、そこには「全生村」と刻されている。全生園がまだ全生(ぜんせい)病院であった時代(1909年にから1941年)、駅から病院までの道しるべとして東村山の路傍に置かれていたものと言う。「全生村」との呼称は、当時の人びとに、病院(現療養所)が外界とは隔てられた別の世界である様に受け取られていたこと、入院が二度と戻れぬ遠国への移住の如く感じられていたという事を示すのであろう。しかし同時に、否応なしの生活の場、生を全うせざるを得ない場であるとはいえ、病の身である自らの手で開拓・開墾し作っているまた作り上げて来たと言う、全生病院(全生園)に対する或る種の愛着や自負の様なものが現れている様にも思える(愛着も自負も自らを納得させるため無理に仕向けたものかもしれないが)。
 何れにしろ、とても印象に残る、石標である。
 展示は上にある様に写真また実物展示が多く、非常に見ごたえがあり、園内散策と併せて見学すると大きな感銘を受ける。近所にお住まいだったという宮崎駿監督が、全生園を散歩コースにし、「全生園に行くと人生観変わるよ」と言った意味の事をスタッフの方々に仰っていたとの話もきく。其の言葉の意味がよく分かる様な、そんな体験であった。ああ、もっと早くに園と資料館を併せて訪ねるべきであった。一寸、後悔。

 各ハンセン病療養所の入所者数は、やがてゼロとなる時が来る。然しそれで、ハンセン病問題が終わる訳ではない。われわれの社会に存在する、ありとあらゆる差別の根は同じである。無知が偏見や恐怖を生み、それが更に差別を生むのだ。ハンセン病について考えることは、あらゆる差別について考えることと同義であると思う。やはり、ハンセン病について知り、考えることは重要なのだ。残念ながら世界は(ヒトは)、魔女狩りの時代から、何も変わっていないのだから。

 夢中になって気付かなかったが、外へ出ると、もう結構日が傾きかけている。思いの外、時が経っていた。
 資料館自転車置き場からロードバイクを出し、納骨堂を木立の向こうに見ながら行くと、納骨堂に白衣の看護師さんの姿が多く見える。車椅子姿の方も多く見える。入所者の方々が、お参りしているようだ。

 つづく

2019年神無月30日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご理解頂けます様、お願い致します

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)、ハンセン病者の生活史 隔離経験を生きるということ(青弓社)、国立公文書館アーカイブズ第66号「国立ハンセン病資料館の活動について」他

・この場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

*国立ハンセン病資料館:設置者は厚生労働省だが、運営は日本財団に委託されている。開館は9:30-16:30(入館は16:00まで)。休館日は月曜日が基本(HPにてご確認ください)。平成28年(2016)度の来館者は31,331人で約半数が団体利用
*古川武治(1918-2004):彫刻家。青森県生まれ。弘前市名誉市民。主作品は「りんごの乙女」「りんごの風」「津軽為信」「初代若乃花」「栃錦」など
*全生(ぜんせい)病院:公立療養所第一区全生病院として明治42年(1909)9月28日に開院し、昭和16年(1941)7月1日に国立療養所多磨全生(ぜんしょう)園となった
*カッタイ:「傍居(かたい)」のことで路傍で物乞いをする人の事だが、一般にはハンセン病者を指す場合が多かった
*優生政策:人類の遺伝的素質を向上させるため優良な遺伝子を残し増加させ劣悪な遺伝子を淘汰させようという優生学或いは優生思想に基づく政策

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

多磨全生園―納骨堂
 四阿でランチ(前回)を済ませ、園東縁部へ向かう。
 この領域は、火葬場、墓、納骨堂また供養塔など、「死」に係わる史跡や施設の集中する場所だ。となると、暗くなりそうで敬遠されそうだが、そうはならない様にするので、是非、読み続けて頂きたいと、お願いする次第である。

 四阿のある居住棟跡の広場から、園東縁の資料館方向へ向かい、樹林中に入ると、まず出会うのが此方だ。

東村山市、国立療養所多磨全生園、動物供養塔
動物供養塔

 療養所では研究のため、サルなどを対象に動物実験も行われていた(資料館に写真がある)。ここは、その動物たちのための供養塔である。

 供養塔から少し樹林下を進むと、最初の火葬場跡、だ。火葬場は病院(当時は全生病院)開設二年後の明治44年(1911)に建てられ、それから「開所当初の墓地跡」での土葬から火葬へと切り替えられた。当初は敷地外であった(のち拡張により園内となる)。

東村山市、国立療養所多磨全生園、最初の火葬場跡
最初の火葬場跡
後は納骨堂

 亡くなった入所者の遺体は、現永代神社鳥居付近にあった霊安室兼解剖室から、大八車(今のリアカーに当たる)でここへと運ばれ、荼毘に付された。外へと出られぬ入所者仲間は土手に上がって、立ち上る煙に手を合わせたという。

東村山市、国立療養所多磨全生園、最初の火葬場跡
火葬場跡解説板

 更に行けば、上の火葬場跡解説板の向こうに見えている納骨堂だが、一人お参りをされている方がいらっしゃるので、お帰りになるのを待ちながら、お堂前の参道脇にある、小さな石碑を取材する。
 「尊厳回復の碑」だ。これは、お墓である。

東村山市、国立療養所多磨全生園、尊厳回復の碑
尊厳回復の碑

 2001年にハンセン病政策の国の責任が認められ、有識者による検証会議の調査が行われた。その結果(2005年)、ここ全生園を含む全国の療養所(13ヵ所)に、ホルマリン溶液に漬けられた胎児の標本が多数存在することが明らかになった。入所者には「産ませない」と言う優生政策の下に堕胎させられた胎児の、その標本である。全114体の標本中、全生園では36体が確認された。
 ハンセン病の感染経路、特に母子感染についての研究のため、これら標本が残されたとされている。それが何時しか忘られ、放置されていたらしい。「全生園ガイドツアー」によると、標本の胎児が、我が子であると判明した事例もあるそうだ。

 この「尊厳回復の碑」を撮っていたら、さっき一人お堂にいらっしゃった方がお参りを終えてのち、私の後を通り際、
「まだ写真撮るの?」
と声を掛けて来た。
「はい」
と答えながら振り向くと、上品な雰囲気のおばさまである。そのおばさまが、
「ここは蚊がスゴク多いから」
とバッグから防虫スプレーを出し、
「あらあら、もう止まってる」
と言いながら、ショートパンツから剥き出しの私の脚にスプレーを掛けて下さった。
「あ、ありがとうございます」
と、突然の事に驚きつつ、恐縮至極である。
 なんとお優しい方だ。既に私の脚は、数多くのモスキートの襲撃を受けており、可也痒みと戦っていた状態であったので、非常に有難かった。それから暫らくの間、スプレーの甘い匂いが私を包んでくれていた。

 納骨堂だが、まずは引きの絵を。

東村山市、国立療養所多磨全生園、納骨堂
全生園納骨堂

 右に、背の高い墓碑がある。もとは、「開所当初の墓地跡」にあったものなので「全生者之墓」とある。大正5年(1916)に、浅草東本願寺より贈られたものだそうだ。

東村山市、国立療養所多磨全生園、納骨堂
納骨堂
納骨堂は全国13か所すべての療養所にある

 昭和10年(1935)、入所者、職員そして宗教団体などの寄付に拠り建てられた。建設は前回の旧図書館同様、入所者の手によって。ここには、開設以来園内で亡くなった4,200人以上の方の内2,400人以上の方の遺骨が収められている(多磨全生園ガイドツアーより)。
 お堂手前左にある、入所者自治会による「納骨堂建立のことば」には、現在のお堂は1985年に入所者寄付金により再建されたものであると刻されている。

東村山市、国立療養所多磨全生園、納骨堂
納骨堂建立のことば
1986年3月建立

 ここには、「三四九三名の諸霊の遺骨を納めた」ともある。これは、「ガイドツアー」にある「2,400人以上」の数字と合わない。1986年にこの「納骨堂建立のことば」碑が作られた後、引き取られたご遺骨もあるという事なのであろうか。

 納骨堂前面には、「倶會一處」(倶会一処(くえいっしょ))とある。

東村山市、国立療養所多磨全生園、納骨堂
納骨堂

 これは、こうした合葬墓や納骨堂によく見られる言葉である。多磨霊園の合葬墓の記事でも書いた様に、倶(とも)に一つ処(ところ)で会う、と言う意味だ。「阿弥陀経」にあるもので、原義は、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し仏・菩薩に出会い一つ処で暮らす、という事。一般には、人皆、死ぬその時もその場所も別々だが、あの世に行けばまた出会い同じ処で暮らせる―、という意味で、使われる場合が多い様だ。
 多磨霊園の合葬墓の、訳あって無縁となった人々の墓所に使われているのも、その言葉の意味を様々考えてしまうが、ハンセン病に対する偏見や差別、また隔離政策によって、家族や故郷と縁を断たれた人々の墓所にこうして使われているのを見ると、また、改めてその意味を考えてしまう。

 療養所と言う治療施設内に、こうして火葬場があり、また納骨堂があるという事が、何を表しているのか。答えは、簡単である。一般の火葬場の使用を拒まれ、郷土の墓地にも入ることが出来なかったからだ。入所者の方々は、死してなお、外の世界に受け入れられることが無かった、という事である。療養所で、その生涯を完結せざるを得なかった人々の多くが、死後も外へと出ることが叶わなかったのである。
 この、納骨堂や火葬場跡また尊厳回復の碑のあるエリアは、或る意味このハンセン病療養所と言う存在を象徴する、重要なエリアであると思うのだ。

 納骨堂のすぐ北側には、これから訪問するハンセン病資料館がある。これは偶々ではなく、資料館訪問の際近くに納骨堂があることでその存在を知ってもらうため、忘られぬようにするためであるという。資料館を訪ねたら、是非ここにも寄ってくださいね、と言う思いからであるそうだ。
 私は、その順番とは逆になるが、次に資料館を訪ねる。

 つづく

2019年神無月28日
(取材は9月中旬)

――――――――――――――――

・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご理解頂けます様、お願い致します

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)他

・この場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

*優生政策:人類の遺伝的素質を向上させるため優良な遺伝子を残し増加させ劣悪な遺伝子を淘汰させようという優生学或いは優生思想に基づく政策
*火葬:火葬の煙で野菜が枯れる、など言われたりすることもあったという(本で読んだのだが何の本だったか分からなくなってしまった)
*倶会一処:患者自治会編の全生園史「倶会一処 患者が綴る全生園の七十年」(1979)のタイトルに使用された

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

多磨全生園―最古級
 前回の「ヒイラギ」の垣根脇から木立ちを潜り、園内へと進む。と、そこは以前紹介の望郷台(築山)横であった。更に進み、入所児童のための小・中学校「全生学園」跡の広場を越えると、何とも懐かしい風情の木造建築物が現れる。理美容室だ。以前は図書館であったものである。何とも古(いにしえ)感の漂う、趣ある建築だ。

東村山市、国立療養所多磨全生園、理美容室
理美容室(床屋・美容院)
旧図書館である

 昭和11年(1936)に、現在の東京国立博物館(本館)、当時の帝室博物館が鉄筋コンクリート建築に建替えられる際、その古建材を譲り受け、患者作業により入所者の手で建てられた。
 ここで少し、「患者作業」について触れておこうと思う。全生園には、最も多い昭和18年(1943)の時に1,518人の患者がいたという。8年後の昭和26年(1951)頃では1,200人の患者がおり、それに対し職員は102人、看護師は僅か10人であった(人権ライブラリー「ハンセン病と人権」より)。詰まり極端な人手不足である。こういった理由などで、「病人」であるはずの患者さん達は、軽症者による重症者の看護も含め様々な園内での作業を担わされた。それが患者作業である。患者さんの中には、大工さんや左官屋さんなど様々なプロフェッショナルがいたので、専門的な仕事も任されたが、一般的な食品製造、運搬作業、し尿・ごみ処理、土木作業から遺体処理、火葬・埋葬、そして農作業や家畜・家禽飼育などなど、ありとあらゆる作業があった。これ等を担ったのは、すべて「患者」である。治療中の人も後遺症のある人も含まれている。当然、作業による病状悪化やケガ、他の病気の併発などもあった。こうした患者作業で、自分たちを隔離する施設の運営を、自ら行っているような形になっていたとも言えるだろう。
 患者作業で建てられた理美容室だが、園内最古級の木造建築物であろうと言う。東京都が近代和風建築物に選定し、厚労省も保存すべきものと認めているそうなので、保存に関しては安泰そうである。

 理美容室の向いには、園開設当初の墓地跡がある。

東村山市、国立療養所多磨全生園、墓地跡
開所当初の墓地跡
解説板後はクロマツ、右端はアカマツ

 明治42年(1909)に「全生(ぜんせい)病院」として開所されてからの二年ほどは、亡くなった患者さんはここに土葬されていたという(1911年から火葬)。埋葬の際には、現在で言う所の樹木葬のように、松の苗を植えたそうだ。今、ここにはクロマツ・アカマツが多いが、これがその頃植えられ育ったものなのかどうか不明であるという。昭和5年(1930)に、ここの遺骨は発掘され、後に建てられた納骨堂に改葬されたので、今あるマツは、後に植え直されたものかも知れないと、解説板にはある。

 墓地跡からは、西の高架水槽が見える。

東村山市、国立療養所多磨全生園、高架水槽
高架水槽

 水槽と知らねば、療養所の歴史を知る身としては、監視塔に思えてしまう。でもそうではないので、誤解のなきよう。

 さて、もう少し奥まで見学させて頂けそうなので、進んで行く。
 理美容室東に接するのは、永代(ながよ)神社参道となっている「神社通り」。通りの奥には、鳥居が見える。

東村山市、国立療養所多磨全生園、神社通り
神社通り
画像左が理美容室

 ここは、園の中央付近を南北に通るメインストリートで、開設当初は園の東の縁だったそうだ。療養所が、後に大分拡張されて行ったことが分かる。それはそのまま、強制隔離が進行し入所者が増加していったことを示しているのであろう。
 神社通りは、居住区の中を通るので、入所者の方々のお住まいも見える。左手のものは複層階だが、右手のものは平屋である。現在の都・市営住宅と、昔の都・市営住宅が混在している様だ。
 ここを行くと、東西方向のメインストリート「中央通り」が直交する。ここには、映画「あん」に出て来た食堂「和(なごみ)」がある。道路脇のガードレールは、「どら春」店長が腰掛けていたものであろうか?

東村山市、国立療養所多磨全生園、中央通り
中央通り

 画像で左側、中央通り沿いに並ぶ樹々には、植樹された方々の名札があるが、記された名は多くが「園名」だと言う。「園名」は、家族に差別が及ぶのを避ける為、入所時に付けさせられた名前だ。無記名、詰まり匿名の名札も混じる。

 中央通り沿いには、この様なものもある。

東村山市、国立療養所多磨全生園、盲導鈴
昔の盲導鈴

 昔の「盲導鈴」だ。ハンセン病の症状の一つで視力が低下した方のためのもので、今も新しいものが交差点など園内の要所に設置されている。これがそうであるか不明だが、昔は風を受けて鈴が鳴る方式だったそうだ。現役は、スピーカーを使用した下の様なタイプである。

東村山市、国立療養所多磨全生園、盲導鈴(現役)
現役の盲導鈴(盲人会館前)
白い柵は盲導柵

 前回訪問した際は、このスピーカーから柔らかなチャイムが繰り返し流れていたが、今回はなぜかすべてのスピーカーが沈黙している。何故であろうか。

 本日の主目的は、前回訪問時お天気の加減(雷雨接近)で果たせなかった「ハンセン病資料館」見学だが、その前に、大分ペコハラなので、前回同様居住棟跡地の四阿(あずまや)にて、ランチ―。

東村山市、国立療養所多磨全生園、四阿
四阿から南を見る

 フクタラになったところで、もう目前の資料館へと向かうが、その前に、資料館近く、可也重要なものが並ぶエリアを見学させて頂く。

 つづく

2019年神無月26日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご理解頂けます様、お願い致します

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)、人権ライブラリー(東京会場 講義8 平成27年9月30日「ハンセン病と人権」)、国立公文書館アーカイブズ第66号「国立ハンセン病資料館の活動について」他

・この場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

*東京国立博物館:明治5年(1872)創設の日本最古の博物館。帝室博物館の名は明治33年(1900)から昭和22年(1947)まで使われた。現本館建物は関東大震災で使用不能となった、ジョサイア・コンドル設計の先代(元は明治14年(1881)完成の第2回内国勧業博覧会展示館)に代わり、昭和13年(1938)に開館した(昭和7年(1932)着工、昭和12年(1937)竣功)。現在も現役で重要文化財に指定されている
*患者作業:一日の作業賃は12-13銭で、施設運営費から捻出されるため作業賃が増えれば医療費や食糧費が減るというシステムだった。昭和23年(1948)から予算に作業賃が含まれるようになった(人権ライブラリー「ハンセン病と人権」より)

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多磨全生園―ヒイラギ
 此度の、国立療養所多磨全生園への訪問では、前回と少し変えて、西側の正門からは入らず、南側から入ってみたい。
 園西縁に沿う所沢街道から曲がると、こちらの面は、敷地内にある幼稚園が先ず現れ、そしてすぐに小さなバス停が現れる。
 このバス停、映画「あん」でどら春店長達が「天生園」を訪ねた時に下りたバス停?

東村山市、全生園角バス停
「全生園角」バス停

 かと思ったが、ロケで使用されたのはこのもう一つ先の「全生園南」バス停であった。でも、彼方の立派な屋根とベンチ付きのバス停より、こちらの方が趣があるではないか。私はこの鄙びた小さなバス停の方が、断然好きだ。何故こちらでロケしなかったのか、納得がいかない。

 さて、バス停の少し先で園内へと入る。道路際にはずっと、所謂「柊(ひいらぎ)の垣根」が続いている。枝は密に繁り、路側帯を歩けないほど厚みのある生垣だ。

東村山市、国立療養所多磨全生園垣根
園外側

東村山市、国立療養所多磨全生園、垣根
園内側
柊の垣根

 今は高さが私(身長165p)の肩程であるが、嘗ては約3mもあり、園の内外を隔てていた。当初は土塁と堀、後に板塀そして更に後、大正末から昭和初期の頃から順次ヒイラギの垣が園の外周に巡らされたという。
 上の園内側の画像でお分かりの様に、垣の内側には散策路が設けられている。垣根は昭和35年(1960)に低く刈り込まれたそうだが、結果、この散策路を歩くと園の内外の人が顔を合わせるようになり、気まずく、皆この路を散歩しなくなったと、そう話す入所者の方もおられたそうだ。園内外の人の心を隔てるものは、まだ続いていたという事であろうか。

 ところでこの垣根、どの資料や文献を見ても、みな「ヒイラギ」とあるが、よく見るとヒイラギではなく「ヒイラギモクセイ(柊木犀)」である。

東村山市、国立療養所多磨全生園、垣根(ヒイラギモクセイ)
全生園垣根のヒイラギモクセイ
葉に棘は多いが短い
左の会長の身長は約30mm

 ヒイラギモクセイ(Osmanthus × fortunei)は、ヒイラギ(Osmunthus heterophyllus)と、皆さんよくご存じのキンモクセイのその原種であるとされるギンモクセイ(Osmanthus fragrans)との交配種である。高さは7mほどにもなる常緑樹で、その葉に鋭い棘は多数あるが、ヒイラギ(下)の棘ほど長く強いものではない。

ヒイラギ
ヒイラギ(自宅庭で)
葉に棘は少ないが長く強い

 とは言え、ヒイラギモクセイでも棘は痛い。元来防犯目的で生垣によく使用される樹種であるが、これが垣根用に選定されたのは、やはり、そこに入所者逃亡阻止の意図があったからなのであろう。入所者の方々にとって、この「柊の垣根」が、療養所という存在の一つの象徴となっているのは、無理からぬところである。
 ヒイラギモクセイは、秋が深まる時季―キンモクセイが終わる頃―に白い小さな花を多数つける。この垣根が高かった頃は、その花の発する甘い芳香が、おそらくは噎せ返るほどであったであろう。

 この垣根については、「ぼくはヒイラギ〜百一年目の思い〜」と言う小学生が作った詩が、サイト「映画「あん」私設宣伝部」さんに掲載されているので、一読をお薦めする。

 つづく

2019年神無月24日
(取材は9月中旬)

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・この場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

*ヒイラギモクセイ、ヒイラギ:共にモクセイ科モクセイ属の常緑小高木で雌雄異株。丈夫で管理しやすく防犯目的で生垣に使われることが多い。老木になると棘が減る。前者は日本には雄株しかなく結実しない

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ムジナ坂
 「東京都による都市計画道路の整備方針(第四次事業化計画)」に含まれ、今後10年間(2016年度−2025年度)で優先的に整備するよう定められた、優先整備路線「3・4・1号線」(幅員16m、延長2,060m)および3・4・11号線(幅員18m、延長830m)が、国分寺崖線(はけ)を分断する計画であることは、以前記事(2016年5月)に書いた。その道路計画地を通りかかった際、このような掲示が目に付いた。

小金井市、ムジナ坂
ムジナ坂下のポスター

 「野川ほたる村」の方の作成によるポスターである。「交通量が減る中で、ハケや野川の貴重な自然を壊し、コミュニティを分断する 3・4・1号線および3・4・11号線は本当に必要でしょうか?」と書かれている。

 ポスターの場所は、国分寺崖線の上とその下の「はけの道」を結ぶ「ムジナ坂」(標高52.5m(下)・62.9m(上))。

小金井市、ムジナ坂
ムジナ坂(下から)

 農地へ通う為に利用されていたという山林中の細道の坂で、暗くなるとムジナ(二ホンアナグマ)に化かされると噂されていた事が名の由来と言う。計画地図を見ると、3・4・1号線は、まさにこのムジナ坂付近を通る。

 計画道路は、3・4・1号線に東で直交する形の3・4・11号線と共に「街づくり・防災」の観点から計画されたものだが、実は両路線共に、元は1962年に計画されていたものである。この計画は実行に移されること無く、半世紀以上が経過し、予定地には緑多い住宅地や公園(武蔵野公園)が造られてきた。
 予定通り、3・4・1号線が造られることとなれば、このムジナ坂辺りで分断され、国分寺崖線(はけ)の緑地と住宅地は失われることとなる。

小金井市、ムジナ坂
ムジナ坂(上から)

 このムジナ坂や「借りぐらしのアリエッティ」ロケ地で有名な「はけの小路」(此処も一部道路にかかる)、また「はけの道」等を含む小金井市の国分寺崖線は、開発の激しい多摩地域において、連続した自然環境として稀少である。サイクリングで多摩を彼方此方走り、そう実感する。
 サイクリングで道路は利用させてもらっている立場だが、本当に必要なもの、本当に残すべきものを、しっかりと見極めたいと思う。

2019年神無月22日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所は小金井市中町、最寄り駅は西武多摩川線新小金井駅です

*ムジナ坂:坂下の野川沿いの農地と、坂上を結ぶ
*はけの小路:ムジナ坂の少し東。崖線と野川を結ぶせせらぎ沿いの遊歩道。アリエッティ達が薬缶の船で下ったのはここ

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雨間大塚古墳
 「Fe塔」の、大久野(おおぐの)線6号鉄塔記事で触れた大塚古墳だ。この「大塚」と冠される古墳は全国至る所に存在するため、一応所在地の地名である、あきる野市雨間の「雨間」を付けさせて頂いたことを、お断りしておく。これは正式名称ではないので、お間違えの無い様にお願い致します。
 しかし、「雨間」とはめずらしい地名である。もとは神奈川県南多摩郡雨間村だった様だが、名の由来は分からない。この雨間には、古墳の南1.5Kmほどの、秋川の向こう側に「雨武主(あめむしゅ)神社」があるので、若しかしたらこれが由来に関係するのかもしれない。でも、そのあたり無知で分からない。でも、気になる名だ。

 さて、古墳だ。6号鉄塔からは僅か50-60m程の距離。あきる野市役所の南、市役所前踏切のやや北西、五日市線と五日市街道に挟まれた住宅地、大塚公園内にある。東西に細長い島状を成す秋留台地の、ほぼ中央。

雨間大塚古墳航空写真(1947)

雨間大塚古墳航空写真(2008)
雨間大塚古墳航空写真
上、昭和22年(1947)11月14日米軍撮影
下、平成20年(2008)9月9日国土地理院撮影

 何方の写真も、上部を横切るは五日市街道、下部を横切るは五日市線。周囲の環境は全く異なるが、道の形はさほど変わらない。現在、古墳が大きくなったように見えるのは、周囲が緑地化されているためだ。

 下は、南側に沿う道路から見る古墳。左手の鳥居が、登り口。

あきる野市雨間、大塚古墳
大塚古墳(標高153.4m(基部))

 解説板は非常に新しい。「令和元年八月」の日付がある。一月ほど前に新調されたばかりだ。つやつや過ぎて、正面から撮れない。

あきる野市雨間、大塚古墳
大塚古墳解説板

 東京都指定旧跡である。「標識」は大正15年(1926)5月、「指定」は昭和30年(1955)3月18日と記されている。かなり古くから、重要な史跡と捉えられていた様だ。しかし、解説文を読むと、少々カリガツ(がっかり)。
 解説を掻い摘むと、―昭和57年(1977)の測量で一辺が約33m、高さが約8mの方墳の可能性が高いとされたが、平成5年(1993)の部分的発掘では周溝が確認できず、盛り土の特徴も古墳的ではないことが判明した。この遺跡については、古墳ではなく塚である可能性も考えねばならぬ―。と言った内容である。
 そうか、そうなのか。「塚」っぽいのか。と言われても、古墳と塚はどう違うのであろうか。調べてみた。
 「古墳」とは、古代の墳墓と言う意味になるが、考古学的にはもっと限定的で、弥生時代終末の3世紀後半から7世紀末頃迄に日本で築造された高塚の墳墓を「古墳」と呼ぶ。対し「塚」は人工的に土を盛った場所で、墓所であったり祭場であったり或いは標識(一里塚とか)であったりなど、その築かれた理由も時代も様々。
 つまり、広い意味で言えば、古墳も塚の部類となるが、学術的には、他の塚とはっきりと区別される、と言う事だ。
 こう見ると、「大塚古墳」は古墳と定義される時代のものではなくまた墳墓であるかどうかも確定されない、との事なのであろう。いつの築造になるのかは不明だが、文化・文政期(1804-1829)に編まれた「新編武蔵風土記稿」には、この存在が記されているそうなので、その頃には確実にあった、という事になる。
 塚なのか古墳なのかはっきりさせて頂きたいところではあるが、全面的発掘は、歴史的重要性や予算の面など、いろいろ問題はあるのであろう。仕方がない。あれこれ妄想して楽しもう。

 では、まず登らせて頂く。
 赤い鳥居を潜ると、緩やかにカーヴし山腹を巻く様に石段が頂部へ向かっている。階段は短く、ほんの僅か上がれば、階段上の鳥居が目前。

あきる野市雨間、大塚古墳
大塚古墳上部鳥居

 墳頂に達し、再び鳥居を潜れば、可也立派な灯籠と祠がある。

あきる野市雨間、大塚古墳
大塚古墳祠

 灯籠の火袋(灯を入れる部分)には、月と星。祠に祀られているのが何方(どなた)であるかは、不明だ。

 さして広くはない墳頂は、鳥居と祠と灯籠でいっぱいいっぱいの感もあるが、更に祠の右手に、東面して大きな石碑が建っている。

あきる野市雨間、大塚古墳
日露戦役功烈之碑

 墳頂東の端、可也ぎりぎりにあるので、祠よりは後に建てられたものであろう。
 片足を斜面に踏ん張りながら長方形の石碑を見上げれば、頂部に「日露戦役功烈之碑」と篆書(てんしょ。漢字の古い書体の一つ)で刻されている。日露戦争におけるすぐれた功績の碑、の意だ。明治39年(1906)7月の日付があるので、日露戦争(1904-1905)終結の翌年に建立されたという事になる。びっしりと文字が刻まれているが、樹陰で暗く、かつ漢文調なので何が書かれているのかはよく分からない。が、部分的に分かるものを幾つか書き出すと―。
 冒頭、「満州軍総司令官陸軍元帥侯爵大山巌篆額」とある。「篆額」とは石碑上部の篆書の題字のことなので、先ほどの「日露戦役・・・」を、初代陸軍大臣大山巌(1842-1916)が書いたという事の様である。
 次には、「東亰府西多摩郡東秋留部人従軍者共計七十九名」とある(部の字は一寸自信が無い)。明治22年(1889)に雨間村他が合併してできたのが西多摩郡東秋留村なので、この村から出征した方が79名いたという事であろう。
 また、旅順、日本海、台湾、朝鮮などの地名が並んだのに続き「其中戦病死各四名」ともある。日露戦争中各地で、ここ東秋留村から出征した方の内、8名の方が戦病死したということの様に思われる。
 最後に、「正四位勲三等文学博士重野安繹撰」、その隣に「正五位日下部東作書」とある。漢学者で日本初の文学博士の重野安繹(やすつぐ)(1827-1910)が文章を作り、それを近代書道確立者の一人で書家の日下部東作(1838-1922)が書いたということだ。大山巌と言い、可也著名な方々がこの碑に関わっておられるのに、少々驚く。それほど、日露戦争と言うものが、当時の日本或いは日本人にとって、重要・重大な出来事であったという事を示しているのであろうか(私見)。
 当時の人びとにとって、可也重要であろうこの日露戦争に関わる碑が建てられたこと、そして祠が祀られていることなど考えれば、古墳であるか塚であるかに関わらず、この大塚古墳が地域の人々にとって重要な存在であった事が窺われる様に思う。

雨間大塚古墳周辺航空写真(1947)
雨間大塚古墳周辺航空写真
昭和22年(1947)11月14日米軍撮影
中央が古墳、左は西秋留駅(現秋川(あきがわ)駅)

 1947年航空写真を改めて広角で見れば、一面の農地の中、大塚古墳は可也目立つ存在で、ランドマーク的なものであると同時に、地域の精神的な座標点であったのかもしれない。

 さて、改めて、この平らな秋留台地にある高まりから、眺望を楽しませて頂こう―と思ったのだが、墳頂は樹々生い茂り、東に建つ大久野線6号鉄塔含め、全く見えず。
 眺望は、僅かに、南の階段部分からきくのみ。

あきる野市雨間、大塚古墳
大塚古墳から南望

 農地の向こう、秋川の向こうの丘陵までよく見える。ん?あれってもしかして。

あきる野市雨間、大塚古墳
あれは・・・

 サマーランドの観覧車だ。子供の頃憧れていた、あのサマーランドはあそこか。ちょっと、トキメク。
 これは「Fe塔」向きの事柄となるが、観覧車右手に見える赤白の巨大鉄塔は、おそらく東京西線の67号であると思う。

 この大塚古墳に関しては、富士塚説もある様だ。印象だけからいえば、その様な気がしないでもない。見た感じ、登った感じ、何も知らなければ、富士塚かな、と思ったかもしれない。だが、富士塚にしては階段がストレートすぎる。富士塚に詳しくはないが、多くの富士塚はモノホンの富士山と同様にジグザグな「登山道」となっている様に思うのだ。以前紹介の「荒幡富士」もそうであった。それに富士塚には付き物の、富士山の溶岩も見当たらない。富士塚では、なさそうだ。

 1977年の測量で方墳の様だとされたというが、この南東の道路からの角度では確かにそのようにも見える。

あきる野市雨間、大塚古墳
南東から

 右手側斜面に稜線の様なエッジがみえる。しかし、公園内東側から見ると、こんもりと丸みを帯びている。

あきる野市雨間、大塚古墳
東から

 古墳の西と北は児童公園となっているが、そちらからは木立に遮られ、墳丘の存在さえ定かではない。

あきる野市雨間、大塚古墳
北西から

 いつか、大塚古墳の全面的調査がなされ、その実体が明らかにされることを願いつつ、最後、古墳前の道路脇でなんとも懐かしきものを見付けたので、それを紹介して、終わりにしたい。

あきる野市雨間、大塚古墳
木柱街灯

 何十年ぶりかで見た。子供の頃は、こうした木柱街灯が普通で、ブリキ製の傘が付いた白熱電灯が設置されていた。下部にスイッチがあり、朝夕、誰かがオンオフをしていたものである。私もスイッチを入れるなり切るなりしたかったが、気付いた時にはすでに誰かがオンオフをした後で、残念ながら自分でやった記憶が無い(下手に触ると大人に叱られたし)。
 当時と異なり、これは流石に白熱灯ではなく蛍光灯で、且つスイッチも自動オンオフだが、この風雪に耐えた木柱の木肌、これは変わらぬ。懐かしくって涙が出そう。これだよ、これ。昔街に立ち並んでいたのは。

あきる野市雨間、大塚古墳
アップ

 私の住む地域では、もう随分と以前に姿を消してしまったが、まだあったのだね。
 遠からずこれも、新たな街灯柱に交換され、姿を消すのだろうな。

追記:あきる野市では、台風19号(HAGIBIS)により秋川で増水・氾濫が生じた事を知りました。崖崩れ、住宅崩落、床下・床上浸水が発生し、多くの方が避難生活をされていると。被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。

2019年神無月20日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・この場所はあきる野市雨間、最寄り駅はJR五日市線秋川駅です

*秋留台地:多摩川、秋川、平井川により侵食されて形成された。関東ローム層と段丘礫層からなる
*古墳:古墳と呼ばれるより以前の弥生時代のものは「墳丘墓」、奈良時代のものは「墳墓」と呼ぶらしい
*東京サマーランド:昭和42年(1967)開園。屋内・屋外含めプールメインのレジャー施設。その名の通り冬場(12-2月)の大半は休業

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

あなたの街の―
 多摩川とその支流秋川の合流点付近、八王子市高月町を抜ける都道166号線。

八王子市、高月町
高月町都道166号線

 西側の加住丘陵と田園の狭間を抜ける道だが、古い屋並もある、昔ながらの雰囲気を感じる道路。
 前回の田園から出、この道を北へと向かっていたらば、道路沿い、歴史を感じる民家の壁面に、この様な看板があり、非常に気になった(標高107.8m)。

八王子市、高月町
道沿いの看板

 いつ頃書かれたものであろう。このイラストのイキフン、そして褪色の具合。1980年代であろうか。何れにしろ、時代を感じる、趣ある看板である。

八王子市、高月町
あなたの街の―

 ポニーテール靡かせる女子(だろう)、サイクルキャップの男子(だろう)、二人ともに、良い前傾姿勢だ。残念ながら、右端がポスターで隠れ見えないが、2019年1月撮影のストヴュー画像で見ると、「ブリヂストン自転車 あなたの街のふれあいの店・・・」と言うのが全文であることが分かる。
 こちらのお家が、その「ふれいあの店」ではなく、おそらくは、貸し看板スペース的なものだったのであろう。どうも今現在、この看板が機能しているようには、失礼ながら、見えない。

2019年神無月11日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所は八王子市高月町、最寄り駅はJR五日市線東秋留駅です

*高月町:丁番は無い。元は神奈川県南多摩郡高月村。のち変遷あって昭和31年(1956)高月町となる

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

田園
 多摩西部、昭島市の大半は多摩川北岸にあるが、僅かに多摩川南岸にも市域がある。拝島町の一部と田中町の一部がそれにあたる。この付近で、多摩川南北に分かれた昭島市を繋ぐのが、拝島橋。長さ527m、竣功は平成3年(1991)の比較的新しい橋である。
 この拝島橋の南の袂、西に向かって一本の細い道路が川に沿って真っ直ぐにのびている。両側には建造物もない緑に囲まれた、自転車乗りとしては非常に惹かれる道である。ただ、何所へどう繋がっているのかが分からない。行ってみたら行き止まり、では困る。が然し、やはり魅力的なので少し入ってみた。
 すると少し先に、開いてはいるが可也頑丈そうな黄色いゲートがあり、道端に「滝ガ原運動場専用道路」と表示されている。やはり、一般の道路ではなかったか―、と引き返そうと思ったのだが、自転車を止めて思案する私を追い越し、次々と、自動車がその道を進んで行く。平日にこんなに多くの自動車が運動場へ行くものであろうか。如何も気になるので、引き返すのは中止し、探り探り進んでみた。
 しかし、行けども行けども左右は草木の生い茂る深い緑地で、何も現れない。自転車で走るのは、とても気持ちの良い道だが(路面は荒れ気味だけれど)、少々不安になる。
 だが、その内前方に赤いアーチの橋が見え始める。拝島水道橋だ。そうしてやっと、周囲は運動場っぽくなってくる。しかし、駐車場はガラガラだ。あんなに沢山の自動車が私を追い抜いて行ったのに。多分ではあるが、運動場専用道路と言いつつ、抜け道的利用がされているのであろう。という事は、行き止まりではないという事だ。ここでやっと、自信をもって進むことが出来るようになった。
 それにしても広々とした空間の中の一本道だ。爽快である。と思いつつ行けば、またしても黄色い頑丈そうなゲートが出現。

八王子市、滝ガ原運動場西ゲート
滝ガ原運動場西ゲート付近(標高98.7m)
門は開門5:00、閉門20:00

 運動場を抜けたのだ。その抜けた先は、どこかに瞬間移動してしまったのかと思うほどに、東京とも思えぬ一面の田園地帯であった。

八王子市、高月町
北を見る

 丁度、東側を流れる多摩川に北西から秋川が合流する辺りである。田園の多い地域の方には、何所が、と言われそうだが、東京でこれだけの広い田園には、滅多にお目にかかれるものではない。
 運動場方向を振り返っても、田園。

八王子市、高月町
滝ガ原運動場方向を見る

 私の立つ細道も、先ほど来た道同様頻繁に自動車がやって来る(向きはさっきと逆だ)。車一台やっと通れくらいの道幅ゆえ、私と自転車は可也オジャマである。よって、畦道脇の用水路の格子状の蓋の上に移動する。見ていると、運動場方向から来る自動車も含め、みな南の滝山公園方向へ上がる道に曲がって行く(画像右手)。何であろう、やはり抜け道的に使用されているのだろうか。何れにしろ、思いの外自動車が多いので、ご訪問の際は十分ご注意ください。

 一面に広がる田の稲穂は、見事に頭(こうべ)を垂れている。

八王子市、高月町
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」
現皇后が皇太子妃に決まった際
好きな言葉にあげていたのを思い出す

 この八王子市高月町(たかつきまち)のエリアは、嘗て河川敷で、田圃の下には砂や石が堆積しており、それが米どころで有名な新潟県の魚沼地区の田圃に似ているのだとか。秋川の水とその地質で、米作りに適し、有機肥料を使用した減農薬栽培で作られた「高月清流米」は、道の駅などで販売しているそうだ。

 稲穂の下には、オモダカ(面高)(Sagittaria trifolia)の白い花。

八王子市、高月町
オモダカの花

 オモダカはオモダカ科オモダカ属の多年草で、こうした水田や水路、また湿地などに見られる在来の野草。オモダカなんて知らない、と仰る方が多いと思うが、実は、お節料理に出て来る「クワイ」は、このオモダカの栽培種であるクワイ(Sagittaria trifolia L. 'Caerulea')の塊茎なのである。また、残念ながらうまく撮れなかったが、この葉が独特な「鏃(やじり)」型で、これを図案化した「沢瀉」の家紋をご存知の方もあるであろう。

沢瀉(福島正則)
沢瀉紋(福島正則)
発光大王堂さんより拝借)

 田圃から視線を移し、南の丘陵を見れば、お団子の様なかわいい子山が並ぶ。

八王子市、高月町
ペコハラー
左端のお団子が滝山城跡

 航空写真を見ると、北西−南東方向に多摩川が流れ、その南西側に水田地帯を挟んで、濃い緑に覆われた、新第三紀層と洪積層からなる加住(かすみ)丘陵(標高100-270m)が広がる。

高月町周辺航空写真(2008)
高月町周辺航空写真
平成20年(2008)9月9日国土地理院撮影

 この丘陵に東北−南西方向に幾すじかの谷が並び、「お団子」を形成している様だが、上から見れば、別に丸っこくはない。面白い地形だ。画像の左から右にお団子に1、2、3と振ったものが、航空写真上の数字に相当。水玉が運動場西ゲート、黄緑玉がお団子を見ているポイント。因みに丘陵には、室町−戦国期にかけて造られた、武蔵国守護代大石氏の高月城と滝山城の址がある。

 しかし、思いもかけず、こんな風景に遭遇できるのも、サイクリングの醍醐味の一つである。相方もどことなく嬉し気である、様に見えないこともない。

八王子市、高月町
稲穂と相方
向こうの右端の山が高月城跡

 この高月の田園は、八王子市HP「見どころ風景」でも「知る人ぞ知る都内最大級の田園風景」と記されている。確かに、知る人は多くない存在かもしれない。少なくも私は、全く知らぬままおじさんになってしまった。勿体ないことをした。

 日本の水田は、1960年代から2000年代にかけ24%程も減少したという。土の水路や土手で囲まれた、野生生物の住みやすい田圃という事に限れば、その減少割合は約50%だそうだ(WWFジャパンキャンペーン「失われる命の色」より)。水田生態系と言うのは、雑木林生態系と同様で人手が加わることで成立・維持される二次的自然。よって、田圃やそこにすむ生物たちを護ることは、或る意味とても難しいことであると思う。農業には直接関わらない身ではあるが、環境に配慮された田圃で作られたお米を購入するとか、生活の中で出来ることを考えて行きたい。

2019年神無月9日
(取材は9月中旬)

追記:10月18日
台風19号(HAGIBIS)による被害に遭われた皆様に、心よりお見舞い申し上げます。多摩川・秋川の氾濫による影響が気になります。

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・ご訪問の際は、農地へ立ち入らない、ゴミは持ち帰るなどマナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します。また、自動車には充分お気を付け下さい
・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・この場所は八王子市高月町、最寄り駅はJR五日市線東秋留駅です

*高月町:丁番は無い。元は神奈川県南多摩郡高月村。のち変遷あって昭和31年(1956)高月町となる
*高月城、滝山城:ともに室町時代から戦国時代の城。高月城は長禄2年(1458)山内上杉氏家臣、武蔵国守護代大石顕重が築城したとされる。滝山城は永正18年(1521)に大石定重が築城し高月城から移ったとされる。のち大石氏は北条氏照を婿として迎え滝山城と武蔵国守護代職を譲った
*オモダカ:東アジア、東南アジア、西アジアに広く分布。クワイは中国原産とされる。葉の形から「勝ち草」「勝軍(かちいくさ)草」の別名がある
*福島正則(1561-1624):戦国期から江戸初期の武将・大名。豊臣秀吉の従兄弟にあたり幼少期から秀吉に仕える
*水田:日本の水田に生息する野生生物は5,668種。日本産汽水・淡水産魚類の42%が絶滅或いは絶滅が危惧される状態にあるがその様な魚類の多くが水田やその周辺に生息する(WWFジャパンキャンペーン「失われる命の色」より)

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砂利軌道
 以前に、嘗て多摩川は砂利採取が盛んに行われていたと「牛群と橋」で書いた。南武線、西武多摩川線、京王相模原線などなど、現在は普通に旅客を運ぶ鉄道も、砂利運搬鉄道というルーツを持っていたりする。これ等鉄道は、今も形を変えて残り続け列車が走り続けているが、中には消滅してしまったものもある。今回ご紹介の「熊川砂利軌道」も、その消滅してしまった砂利専用線路の一つである。

福生市、熊川砂利軌道跡
熊川砂利軌道跡解説板(標高110.7m)

 この軌道は、現在あきる野市と福生市を結ぶ睦橋の付近で採取された砂利を、拝島駅まで運ぶためのトロッコの軌道。解説板は、睦橋の福生市側(東詰)、睦橋通りの傍らにある。この解説板の建つ歩道部分(幅約1m・長さ約12m)は、平成29年(2017)12月22日に福生市登録史跡に指定されている(登録第七十二号)。

福生市、熊川砂利軌道跡
熊川砂利軌道跡
左端が睦橋通り

 私の相方(ロードバイク)の停めてある歩道が軌道跡で、史跡指定された部分の様だ。

 この史跡の二百数十m程南を流れる多摩川で、東京と言う新たな都市を建設するため、明治以降砂利が本格的に採取されるようになり、ここ福生では明治30年代頃からこの現在睦橋がある周辺などで採取が行われるようになった。
 軌道は、明治45年・大正元年(1912)頃(1912年7月30日に明治から大正に改元)、個人起業家による私設と言う形で敷設されたが、のち大正11年(1922)頃、東京府営となった(当時は東京府)。
 河川敷で採られた砂利は、この軌道を使い、大正頃までは馬で、後には小型ガソリン機関車でトロッコを牽引して拝島駅西側の砂利積込場へと集められ、そこから駅で積み替えられて、東京や横浜などの都市建設需要に充てられるため鉄道で運ばれた。
 今、軌道そのものは失われているが、ほぼそれに重なる様に道路として残っている。まだ軌道があった頃の、古航空写真を見てみよう。

熊川砂利軌道航空写真(1947)
熊川砂利軌道航空写真
昭和22年(1947)11月14日米軍撮影
まだ睦橋は無い

 黄玉が解説板辺り。左端が多摩川。黄玉辺りから右上の拝島駅方向へ延びる線が、現在の睦橋通り。その下にほぼ並行するようにある細い線が、軌道であろうと思う。左下の河川敷辺りが、砂利の採取場であったようだ。
 砂利の採取自体が、昭和30年代には枯渇により行われなくなり、この軌道も昭和28年(1953)頃には廃線となった。よってこの航空写真は、軌道晩年の姿という事となろうか。

熊川砂利軌道跡航空写真(2008)
熊川砂利軌道跡航空写真
平成20年(2008)9月9日国土地理院撮影

 こちらは現在の、解説板(黄玉)を中心とした周囲の画像。採取場だったと思われる周辺は、現在は福生南公園となっている。
 まだ操業されていた時の経路を現在に当てはめると、福生南公園辺りの採取場から、公園入り口を経て睦橋通りへ上がり、解説板の先で右折、石川酒造横の南内出通りを進み、真福寺墓地手前で左折、奥多摩・新奥多摩の両街道を横切り、国道16号を越えて積込場へと続いていた、となる様だ。

福生市、熊川砂利軌道跡
熊川砂利軌道跡
右が酒造

 これは、解説板少し上から、「多満自慢」で有名な石川酒造横の南内出通りを見ている。右手が酒造で、この道の先二百数十m程で左折するようだ。
 残念ながら私はこの道を行くことは無く、多摩川堤防の自転車・歩行者専用道を求め少し先で右折した。しかしそこは、酒造の黒板塀や蔵造りの建物が並ぶ素敵な道であった。石川酒造には、国の登録有形文化財の建造物が6棟ともあるそうだ。納得、である。

2019年長月27日
(取材は9月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・参照:熊川砂利軌道解説板、福生市教育委員会会議録(平成29年第10回定例会)ほか

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・この場所は福生市大字熊川、最寄り駅はJR青梅線・JR八高線・西武拝島線拝島駅です

*睦橋:昭和55年(1980)竣功、昭和57年開通。長さ415m。都道7号(五日市街道)が渡る
*軌道跡:福生市教育委員会議事録には総延長凡そ4Kmとある
*多摩川の砂利採取:江戸の頃から行われていたが本格化するのは明治から。のち護岸破壊、農業・漁業への影響他河川環境へ悪影響を及ぼしたため昭和40年(1965)に多摩川全域で採取禁止となる
*石川酒造:文久3年(1863)から歴史が始まる蔵元。細い通りを挟んで和風建築の直営レストラン「福生のビール小屋」がある

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霊園掃苔―望郷台
 少し前に書いた、ハンセン病療養所「多摩全生園」訪問記。この訪問の際、園内で非常に強く印象に残った史跡、「望郷台」の、その名付け親の一人とされる歌人のお墓が多磨霊園にあると知り、訪ねた。―のだが、あれっ?これは・・・。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
尋ね当てたお墓

 あらかじめ、サイト「歴史が眠る多磨霊園」さんでの予習で見た写真のお墓と違う。全然、違う。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
墓石が三つ

 サイトで拝見したのは、如何にも歴史を感じさせる古寂びた墓石。しかもごく一般的な四角いものであったが、これは―、メインとなる墓石は、五輪塔だ。

 然し、霊園内の「住所」(12区1種1側)は間違いなくここ。しかも、目指すお方のお名前は「宇都野」さんで、全く同じ。この様なめずらしいお名前のお墓が、同じ区画に複数あるとも思えない。やはり、ここだ。新しく建替えられた、と考えるべきなのであろう。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
墓前灯籠

 墓前にある、かわいらしい小さな丸置灯籠には、金文字で「宇都野家」と示されている。間違えは無い。

 目指すお墓の主のお名前は、宇都野研(1877-1938)(うつのけん。本名は「きわむ」)。小児科の医師でもあった、歌人である。愛知県の出身で、活動の時期は大正から昭和の前期。佐佐木信綱(1872-1963)や窪田空穂(1877-1967)に師事。大正9年(1920)に「朝の光」、昭和4年(1929)に「勁草」を其々創刊している。「木群(こむら)」「春寒抄」等の歌集がある。
 失礼ながら、高名な方ではない。何故この方を知ったかといえば、冒頭触れた、東村山市にある、ハンセン病療養所「多磨全生園」を訪問したことによる。
 明治42年(1909)に開設された、療養所の前身である「全生(ぜんせい)病院」の時代を含めれば、110年にも及ぶ歴史を持つ園内には、種々の史跡が存在するが、その一つに「築山」がある。高さ10mほどの小さな山だが、可也重要な史跡で、現在は崩落の危険などもありフェンスで囲われ厳重に保護されている。この山については、訪問記3に詳しく書いたので、そちらの方を是非見て頂きたいが、一応こちらでも説明しておこうと思う。

東村山市、多磨全生園、築山(望郷台)
築山(北から)
残念ながら登る事は出来ない

 全生病院(現多磨全生園)の敷地が、大正11年(1922)に拡張された際、開墾した農地から出た木の根や、ハンセン病者隔離政策時代であるから、入所者の逃亡を防止する為に掘られた堀の、その残土などを重ねて造られたのがこの築山。患者たち自らの手によって、造られたものだ。作業は主に午前中。長靴が高いので足袋に草鞋の足ごしらえで、トロッコで運ばれた土をもっこに移し山に登ることを繰り返した。半日3銭の支給を受けたという。作業は厳しく、手足のキズを悪化させる事も多かった。大正13年に着工し、三年ほどで竣功した。
 園内から唯一、堀と共に周囲にめぐらされた高い土塁(高さ約2m)の向こうの外界を望むことが出来た場所で。収容されたばかりの患者の殆んどは、ここに登ったという。周囲に人家もない昔は、富士山、秩父連山また筑波山も見ることが出来た。所沢街道を新宿へと、農作物を運ぶ荷車の灯りも見えたという。

 この、入所患者憩いの場である築山が、「望郷台」と呼ばれるようになった由来は、園を訪問した歌人達がその作品中で「望郷台」と詠んだこととされている。その歌人とは、ひとりは土屋静男。そしてもう一人が、今回紹介の宇都野研であったのである。

東村山市、多磨全生園、築山(望郷台)
「望郷台」解説板と会長

 彼は、昭和6年(1931)5月に全生病院を訪ね、その際詠んだ歌が12首、全集中にあるという。

 望郷台頂きに立てば四方展け遠き目の寄らむ何物もなき
 打ち見れば目も濡れにけり武蔵野や今日をかぎろひ青葉埋もる

 また小児科医であった彼は、

 消毒帽マスク長靴に身を甲ひあなよそよそし衷心(した)歎かるる

も残している。

 墓所を、もう一度拝見して見よう。まだつややかな墓石には、「平成十九年吉月吉祥日建之」とある。鳥居が刻されているので、神道形式と思われる。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
鳥居

 以前紹介の、入口に大きな鳥居のある西園寺公望墓同様、香炉もない。しかし彼方とは異なり、頂部の尖った「兜巾(ときん)」の竿石ではない。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
五輪塔

 しかし、五輪塔は仏教系墓のものではなかろうか。江戸時代以降の仏教式の墓石は、大体がこの五輪塔を簡略化したデザインと言う。でも、五輪塔の「空・風・火・水・地」の「地」には「先祖各霊神」、とあるのでやはり神道なのであろうと思われる。
 だが、埋葬者のお名前には、男性は「道士」女性は「道婦」とある。私としては、はじめてお目にかかるものである。神道で、こうした呼び方をするのであろうか。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
道士・道婦

 仏教の戒名(居士・信士や大姉・真女など)に相当する神道の諡(おくりな)は、男性なら「郎男(いらつお)」「大人(うし)」など、女性なら「郎女(いらつめ)」「刀自(とじ)」などが一般。「道士」「道婦」とは見たことが無い。

府中市、多磨霊園、宇都野研墓
五輪塔

 三つの墓石には、左側面に建立者の方のお名前がある。五輪塔は正面に四名、右側面に二名、計六名の方の諡があるが、生前のお名前は無い。どの諡が研氏にあたるのかは、不明だ。
 小さい二つの墓石は、建立者の方のお父上や祖父母お二方の諡と共に、生前のお名前もある。

 「道士」というと、私世代ではどうも「霊幻道士」を思い出してしまう。あれは、道教に関係する「道士」だと思うが、「道士」には、広義では「その説く道を求める立派な人」或いは「道義を体得した人」という意味があるとの事である。こちらのお墓の「道士・道婦」は、そういう意味のものなのであろうか。
 寡聞にして、このようなタイプのお墓があることを初めて知った。よそ様のお墓を前にあれこれと、誠に失礼ではあるのだが、どうも気になってしまう。性質(たち)なので、どうかお許しを頂きたい。

 合掌。

府中市、多磨霊園、12区・13区ロータリー
12区・13区ロータリー

 取材後、ランチする為寄った、墓所から北西に160mほどの距離にある12区と13区境のロータリーの植込みには、こんなキノコがいっぱいあった。

府中市、多磨霊園、12区・13区ロータリー
ロータリーのキノコ

 薄いベージュの傘の中央がやや色濃く、小さな小籠包みたいな形の粒粒がトッピングされている。
 キノコは、同定が難しい。何の種類か、全く分からない。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年長月18日
(取材は9月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・参照:〈全生園の森〉の文献(4) 著書篇(A 歌集・句集・詩集、B 随想・記録・論文 共に柴田隆行編)

・この場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線新小金井駅or多磨駅です

*ハンセン病(Hansen's disease, Leprosy):癩(らい)病、レプラとも。また天刑病(天の刑罰による病)、業病(悪業による報い)などとも呼ばれた。らい菌により主に皮膚と末梢神経が侵される感染症で遺伝はしない。感染力は非常に低い。ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン(1841-1912)がらい菌を発見(1873)したことに因む名称。嘗ては不治の病とされされたが、現在では外来通院で完治できる
*ハンセン病療養所:国の政策により患者はすべてここに強制的に隔離され外部と遮断された
*隔離政策:明治40年(1909)から一部行われたが、昭和6年(1931)制定の「癩予防法」により在宅患者も強制入所・隔離の対象となった。これによりハンセン病に対する偏見・差別が助長された。その後昭和28年(1963)の「らい予防法」を経て、1996年まで隔離は続いた
*神道墓:仏教墓では「△△家之墓」などとするが、神道墓では「△△家奥津城」などとする場合が多い
佐佐木信綱、窪田空穂:共に歌人で国文学者。前者は万葉集研究で有名。後者は小説も残している

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ナイトライド―夜景
 ショートステイで少し時間ができたので、鉄塔巡りに行きたいがどうも、お天気が良くない。鉄塔撮影には最も不向きな曇り空ばかり。でも、ロードバイクで何所か出掛けたいし・・・。で、気付いた。昼行けないなら、夜行けばいい。夜なら曇りも晴れも関係ないし。其れに―夜景が見たい。考えてみればもう、何年も夜景など見ていない。介護が始まってから、夜に家を空けるなどという事は出来ないからなあ。
 よし、決まった。ナイトライドに出掛けよう。新しいリアライトも使いたいし、新しいカメラにある機能「夜景」モードや「ナイトショット」モードも試してみたい。

 という事で。ナイトライドの行き先は、多摩市の丘だ。夜景、と言えばここしか思い浮かばない。多摩丘陵の上から、下界を存分に見下ろそう。

 しかし、猫達の散歩も食事も済ませ、自分の食事も済ませ、食器も片づけ、出掛けたは良いが、9月に入ったばかりで夜も暑い。もちろん昼ほどではないが暑い。少なくも期待していたほどには、全く涼しくない。それに、湿度がキツイ。西に沈みかけたミカヅキも、湿気を吸って不気味なほどに赤黒い。

 さて、行き着いた多摩市連光寺の「ゆうひの丘」(標高118.5m)だが、桜ヶ丘公園の北側、その一部に当たる。北向きの斜面に広がる公園だ。
 日中訪ねたことはあるが、夜間はお初。夜景撮影も初めてなら、新カメラの「夜景」モードも初めて触るので勝手が分からない。
 分からないながらも、撮ったのが此方。

多摩市、ゆうひの丘
多摩市、ゆうひの丘
国立市・府中市方面を見る

 私は斜面に広がる草地から見ているが、この上に更に少し高く公園は続く。しかし、何方か歌の練習をしておられるし、それにそこそこ長い階段も上がらねばならぬので、カッツアイ。もう既に、十分キッツい坂を上がってきているのだもの。

多摩市、ゆうひの丘
ゆうひの丘
聖蹟桜ヶ丘駅方面及び立川市方面を見る

 初めての夜景を撮り終えて、更に高みを目指し、記念館通りの坂を上る。途中、真っ黒なスクーターが5台ほど路傍に固まって停まっている。うち一台は少々それっぽい改造車で、ちょっと、ドキッた。
 右手の灯り一つない暗闇の桜ヶ丘公園緑地から、子供の頃以来数十年ぶりに聴く、クツワムシ(Mecopoda nipponensis)の賑やかな音が響く。

 坂の多い住宅地の道を行き、ゼエゼエ、ハアハア言いながら到着したのは、「耳をすませば」のラストシーンはここがモデルではなかろうかと個人的には思っている(私見です)、多摩市聖ヶ丘「てっぺん丘」(標高157.9m)。都道137号沿いだ。
 こちらも昼間訪ねたことはあるが、夜は初めて。

多摩市、てっぺん丘
多摩市、てっぺん丘
フェンスの向こうに電波塔がある

 まずは、てっぺん丘とわが相方。フロントライトは最大400ルーメンだが、街灯が多いので、ここまでは100ルーメンモードで充分であった。

 さあ、丘の末端へ立ち、夜景を拝見しよう。

多摩市、てっぺん丘
てっぺん丘

 聖蹟桜ヶ丘駅方面、及びその向こうの国立市・立川市方面(と思う)の夜景。

 上の写真でも手前に少し写っているが、ここは、下から可也長い階段が続いている。この階段は、丁度多摩市の聖ヶ丘と連光寺との境界に当たるらしく、このてっぺん丘が何方に所属するのかは、非常に微妙である。
 その階段の上から、見下ろす。

多摩市、てっぺん丘
てっぺん丘
ナイトショット

 如何です、長い階段でしょう。
 これは「ナイトショット」による撮影なのだが、急に思い付き、通常撮影との比較を試みてみた。

多摩市、てっぺん丘
てっぺん丘
通常撮影

 こちらは通常撮影。「ナイトショット」の方がキレイだが、肉眼での見た目には、通常撮影の方が近い。この蒼褪めた色合い、LEDの街灯に照らされた階段も夏草も、確かにその場の夜のイキフンに近い。
 階段向こうの街の灯りは、多摩市のものである。

 「ナイトショット」も「夜景」モード同様初の試みで、こちらもまだ、勝手がよく分からない。
 ふと気になり、隣りに建つ電波塔(旧KDDI?)を「ナイトショット」で撮ってみた。こんな感じだ。

多摩市、てっぺん丘電波塔
てっぺん丘電波塔

 あら、意外にはっきり写る。肉眼では真っ暗でよく分からないのに。これは・・・もしかしたら鉄塔もイケるのではないか?そう思い、全く念頭に無かった鉄塔の撮影も、この後試みてみた。すぐ近くに建つ、桜ヶ丘線鉄塔だ。それについては、「Fe塔」でこの後記事にする予定なので、宜しければご覧下さい。

 ナイトライドは約である。慣れないので、少し交通量の多い道など一寸びくびくもの。前後に二人子供を乗せた、電動アシストママチャリが、かっ飛んで行くのを、すごいなあ、と思いながら見送っている様な状態だ。流石に帰る頃は大分慣れ、幹線道路も堂々と走れたが。
 でも、やはり緊張が大きかったのであろう、今まで何度も行ったことのある場所、何度も走ったことのある道なのに、なんか、昼間の倍くらい疲れた。肩・首・背中が、張ったよ。
 最後に、リアライトについて。
 リアライトは二つ装着した。やや大き目(直径45mmの円形)、明るめの新しい方はバックパックに、以前から持っている小さな方(直径28mmの円形)は、面ファスナーで足首に其々装着し、共に点滅モードにした。
 リアライト二個態勢の効果は如何に。リアライトは自分で確認できないのが悲しいところだが、でも後ろから来る自動車の反応を見ていると、効果はあるような気がする。私を追い抜いて行く自動車が、何か面白い様に私から大きく距離をとって避けてくれる、ような気がするのだ。あれ?追い抜くときこんなに距離とってくれたっけ?と思ったのは、一度二度ではない。
 まあ、気のせいだ、と言われればそうとも思えるが―、でも、少なくも安心感は可也あるので、良しとしたい。
 ただ、ただねえ、私は自動車に全く乗らないので、自動車から自転車が如何見えるかが分からない。自転車目線だと、他の自転車の点滅リアライトやペダルのリフレクターまたホイールの側面リフレクターが目立つのは分かる(リアライトが点滅ではなく常時点灯だと、自動車のテールライトやその他の灯りに紛れて分かり難いのも分かる)。でも自動車の目線は自転車とは異なる。自動車から自転車は如何見えるのであろう。気になる。私が自動車に気づかれずに轢かれたら、私も困るが相手の方にもご迷惑がかかる。安全対策は、考えて、考え過ぎることは無い。

 歩行者、自転車、自動車がそれぞれ別に通れる道路を指向するのが良いのだ。それが実現すれば皆が、安心・安全・快適である。

2019年長月11日
(取材は9月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所は多摩市連光寺、聖ヶ丘、最寄り駅は京王線聖蹟桜ヶ丘駅です

*クツワムシ:キリギリス科の日本固有種。関東以南から九州に分布。マメ科のクズを好む。轡を鳴らすようにガチャガチャと鳴く。環境変化に弱く東京都では絶滅危惧IA類に分類されている
*ゆうひの丘:ISSに滞在しスペースシャトルで帰還したサクラの種子から育った「宇宙(そら)桜」の一木がある(醍醐桜)
*耳をすませば:ラストシーンのロケ地は、てっぺん丘から南へ500mほどにある「連光寺給水所」であるとの説もある様だ。アニメでは、右側に緩くカーヴした道路があり、二人が丘の端へと向かう場所は右に金網フェンスとその向こうに樹々とコンクリート製の塔、左に低い植込みがある。ストヴューで見ると、植込みと樹々以外はよく似ている。塔の道路側に小さな建屋があるのも似ている。うーん、これはてっぺん丘よりこっちの方が可能性濃厚であるか
*それぞれが別に:よくある「自転車歩行者専用道」も歩行者と自転車と言う全く異なるものが同居するからいろいろとトラブルも起こるし、最悪事故も起きるのではなかろうか。「歩行者専用道」「自転車専用道」とするのが望ましいと思うのだが

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多磨全生園 4
 前回の「望郷台」から、東へ向かうと、此方は更に広い一面の原っぱ。嘗ては、入所者の方々が暮らす居住棟が並んでいた。

東村山市、国立療養所多磨全生園
多磨全生園あやめ通り
白線は盲導線

 案内図によると、「あやめ通り」と名付けられた道路である。

 「1」でも見た様に、古航空写真によれば、昔は園周辺は人家も無い田園地帯であったのが分かる。ここの入所者であった作家の北条民雄(1914-1937)の名作「いのちの初夜」の冒頭、主人公が入院(その頃は全生病院だった)のシーンで周辺の風景が描写されるが、その当時―昭和9年(1934)―とさほど変わってはいないのであろう。

多磨全生園航空写真(1949)
多磨全生園航空写真
昭和24年(1949)3月20日米軍撮影

多磨全生園航空写真(2008)
多磨全生園航空写真
平成20年(2008)5月6日国土地理院撮影
上下とも左の斜めの線は所沢街道

 昭和24年(1949)当時の園は、敷地東部(右側)は農地になっているが、平成20年(2008)ではびっしりと居住棟が並んでいる。詰まり、令和元年(2019)の現在は、このエリアに関しては旧に復したような状態と言えるかもしれない。
 昔、療養所は、西側の職員地区を除き入所者の逃亡を防ぐため土塁と堀に囲まれていたという。1949年の写真は、園の輪郭が妙にくっきりと見えているが、これは1922-23年に土塁と堀に代わって作られたという板塀(高さ5m)なのか、それとも更にその後作られたヒイラギ(モクセイ科の常緑樹。葉に鋭いトゲがある)の生垣(高さ3m)なのか。「いのちの初夜」では、ヒイラギの生垣となっているので、そうなのかもしれない。

 さて、今の全生園に戻る。
 冒頭写真の原っぱを抜ける一本道(あやめ通り)を行くと、路傍に、お墓があるのかと思ったが、そうではなかった。

東村山市、国立療養所多磨全生園、「あん」記念碑
映画「あん」記念碑
会長を置かせて頂いた

 ここ全生園が舞台となった、映画「あん」の記念碑であった。

 全生園の皆様へ感謝をこめて
 2016.5.30植樹 「あん」関係者一同

東村山市、国立療養所多磨全生園、「あん」記念碑
記念碑上面

 と、花崗岩の石碑上面に赤い文字で「あん」と大きく書かれた下に記されている。台座にはシダレザクラを植えた樹木希林さん、永瀬正敏さんそしてドリアン助川さん(原作者)が写った写真が掲示されている。写真上部には「映画「あん」大ヒット&公開1周年記念」と書かれている。映画及び植樹の記念碑であったのだ。しかし、植えられたはずのサクラは無い、と思ったら原っぱの奥の方に三本ある様だ。

東村山市、国立療養所多磨全生園、「あん」記念碑
記念碑写真

 記念碑の更に奥(北)の原っぱ(此処もかつては居住棟が並んでいた)には、まだ新しい四阿(あずまや)がある。丁度頃合いも良いので、ランチ。
 四阿傍らには、「一般財団法人 全生互恵会」の記念碑がある。

東村山市、国立療養所多磨全生園
互恵会記念碑

 全生互恵会は職員、入所者が構成する、入所者の生活支援・福祉向上を図る組織で、農産物生産・売店経営・月刊誌(多磨、山桜)発行またハンセン病啓発事業など行っていたものだそうだ。

 ここで、ちょっと遅いかもしれないが、国のハンセン病に関する政策等の流れを、下に簡単にまとめたので見てみよう。ただし、浅学の私の自己流なので、その辺りはご承知願いたい。

■明治40年(1907):
「癩予防に関する件」制定 放浪患者(放浪らい)・貧困患者救済を目的とするも、療養所に隔離することにより偏見を助長した

■昭和4年(1929):
「無癩県運動」開始 各道府県(東京はまだ「府」だった)が競って「らい病者ゼロ」を目指し官民一体となってハンセン病患者を見つけ出し強制入所させた。これは1960年代まで続いたという

■昭和6年(1931):
「癩予防法」制定 ハンセン病絶滅政策の考えのもと、在宅患者も家族から引き離し強制入所させ隔離。偏見を更に助長した

■昭和22年(1947):
国内で治療薬プロミンによる治療が始まり、1949年より国庫負担で行われる

■昭和23年(1948):
「優生保護法」制定 ハンセン病を対象として明記。本人同意が前提だが、結婚の条件などとし実質強制不妊手術の対象とされた

■昭和28年(1953):
「らい予防法」制定 ハンセン病の予防・医療及び患者・公共の福祉増進を目的とするも、強制入所・隔離という「絶滅政策」は変わらず、偏見・差別を更に助長させた

■平成8年(1996):
らい予防法廃止 昭和35年(1960)には治療法が確立するも強制隔離はこの廃止まで続いた

 ハンセン病は、治療法が確立される以前は病気の進行によって四肢や顔などに変形が現れる場合もあり、また遺伝病と誤解されるなどあって、古来より偏見・差別の対象とされてきた。それが、国の強制的な隔離政策により、ハンセン病に対する偏見・差別に謂わばお墨付きが付いた様な形となって、90年に渡る間、ハンセン病の方々の人権は無視されてきたのである。ハンセン病は遺伝はせず、感染力も極めて弱く、療養所の長い歴史の中で、職員からは一人の感染者も出なかったという。しかし、国が強制的に患者を連れ去って療養所に入れ、住んでいた家を真っ白になるほど隅々まで消毒する光景を見て、人々はハンセン病をそしてその患者をまたその家族を恐れ、また患者や家族を差別したのだ。1947年には「プロミン」が使用されるようになり、不治の病ではなくなったにもかかわらず、おそくとも1960年には治療法も確立されていたにもかかわらず、国は隔離政策を改めなかった。
 現在は、隔離政策は重大な誤りであったと認められ、国も正式に謝罪している。しかし、患者さん・元患者さんまたその家族の方々に対する偏見や差別が消えた訳では全くない。平成29年度(2017)の、内閣府のハンセン病元患者及びその家族に対する調査で、差別的言動を受けた、結婚で周囲に反対された、就職や職場で不利な扱いを受けた、を挙げた人がそれぞれ3割ほどもいたという。偏見は今も生き、差別は今起きていることなのである。
 かつて療養所への入所者は、入所の際に差別が家族に及ばぬようにと園名(偽名・仮名)を名乗ることを指示されていた。2016年の朝日新聞の調査では、全国の療養所入所者の内38%の方が、今も本名を伏せ園名を使用しているという。理由は種々ある様だが、親族への影響を考えての方もおられる様だ。上にも書いた北条民雄は、没後77年を経た2014年にはじめて本名(七條晃司)が公表された。親族への差別・偏見を避ける為、長きに渡り非公開であったのである。また同じ2016年の毎日新聞によるアンケートでは、入所者の75%、退所者の89%が今も差別・偏見があると回答している。なお同アンケートで、44%の人が「病歴を隠さず行きたい」と望んでいる、ともある(2016年3月27日記事)。

 こうした種々のハンセン病に関わる歴史の資料等展示されている、園内の「ハンセン病資料館」も見学したかったのだが、生憎と午後は雷雨予報が出ており、しかも資料館近くに来たとたん、ぽつりぽつりと冷たいものを腕に感じはじめた。自転車で来ている身、残念だが、資料館外観のみ撮影して、カメラをバックパックに仕舞い、帰路を急がざるを得なかった。ランチでのんびりし過ぎた。
 今回見学できたのは広大(352,796平方m)な園の一部である。資料館含め、何時か再訪し見学したい。

東村山市、国立ハンセン病資料館
国立ハンセン病資料館

2019年長月7日
(取材は8月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご了承頂けます様、宜しくお願い致します

・園の場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病家族の「人生被害」と残された課題(NHK時論公論)、ハンセン病 日本と世界(工作舎)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)他

*ハンセン病(Hansen's disease, Leprosy):癩病、レプラとも。また天刑病(天の刑罰による病)、業病(悪業による報い)などとも呼ばれた。らい菌により主に皮膚と末梢神経が侵される感染症で遺伝はしない。感染力は非常に低い。ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン(1841-1912)がらい菌を発見(1873)したことに因む名称。嘗ては不治の病とされされたが、現在では外来通院で完治できる
*プロミン(グルコスルフォンナトリウム):アメリカのカーヴィル療養所で開発され1941年より治療が始まった。WW2後の1947年より日本でも使用される。元来結核治療薬として開発されたがハンセン病治療にも効果があり「カーヴィルの奇跡」と呼ばれた
*北条民雄:昭和9年当時の全生病院に入院。川端康成に師事。入所後に書いた「いのちの初夜」で文学界賞受賞。23歳で腸結核により死去。差別を避けるため伏せられていた本名が生誕100年を機にはじめて公表された
*差別:原因は複合的であるが、外見的症状の現れることの多いハンセン病は、肌の色の違いに拘る等と同じくヒト(サルの仲間)が嗅覚に頼るイヌやネコなどに対し視覚に頼る動物であることが一因しているのかもしれない(私見です)
*優生保護法:「不良な子孫の出生を防止」を目的とし、遺伝疾患、ハンセン病、精神障害等を理由とする不妊手術や中絶を本人同意なくも認める法律。1996年「母体保護法」に改正
*不妊手術:施設内で子を持つことが許されなかったのは日本だけと言う
*謝罪:平成13年(2001)熊本地裁での、らい予防法の憲法違反、隔離政策の違法性、国会議員の立法不作為(法律制定の義務を怠り国民に損害を与えること)を認める判決を受け、衆参両院で謝罪決議が採択された。首相、厚生大臣からも謝罪が出された。また2019年には、ハンセン病患者家族が受けた被害に対する国家賠償を命じる熊本地裁の判決を受け首相が謝罪した

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多磨全生園 3
 前回の宗教地区の東、南門近くに来ると、小高い築山がある。これは、「望郷台」或いは「望郷の丘」とも呼ばれるものだ。高さ約10mとされている。

東村山市、国立療養所多磨全生園
築山を北から

東村山市、国立療養所多磨全生園
築山を南から

 大正11年(1922)に全生園(当時は全生(ぜんせい)病院)の敷地を南東に拡張した際、患者たちの手によって元の雑木林を開墾し農地にした。その時掘り起こした木の根や、逃亡防止の為に掘られた堀の残土により造られた築山と、解説板にある。

東村山市、国立療養所多磨全生園
築山解説板

 「遠くを見たい」と言う患者たちの希望で、患者たちの手により、1924年に着工し1927年に完成したという。
 「〈全生園の森〉の文献(4) 著書篇」(柴田隆行編)と言う資料に、築山作業についての記述が見られるが、それによると、土は、納骨堂の土を運んだ、鶏舎横の堀からトロッコで運んだ等とある。また、逃走防止のため患者には靴や地下足袋は渡されないので、底に古い足袋の底を張り付けた足袋や足袋に草鞋履きで行われたともある(それでも作業期間中数人脱走があったそうだ)。集めた土を重ね、或る程度山が出来ると、物珍しさで皆が登り踏み固めるので、また土を盛るという事を繰り返して、高さ三十尺程(凡そ9m)になったという。
 築山は、元は文字通り築山(つきやま)と呼ばれたり、富士見台等とも呼ばれていたそうだが、のち訪問した歌人の土屋静男や宇都野研(1877-1938)(医師でもあった)らがその作品中で「望郷台」と詠んだことに由来し、「望郷台」或いは「望郷の丘」と呼ばれるようになったらしい。

 望郷台のいはれを我は聞き終えて垂りし涙に気づきたりしか
 六とせまへ我が訪ひゆきて上りたる望郷台は今もあらむか 土屋静男

 望郷台頂に立てば四方展け遠き目の寄らむ何物もなき 宇都野研

東村山市、国立療養所多磨全生園
会長、「望郷台」と呼ばれているそうです

 解説板には、ここに登れば、所沢街道を行き交う人や車が、また富士山や秩父の山並みも見えた、とある。
 入所の患者さんたちが、出て行くことの叶わぬ外の世界を、この丘に登り望んだと考えると、何とも切ない。ここは「療養所」ではあるが、その本質は「収容所」だったのだ。
 療養所の入所者は、子供を持つことを許されなかった。昭和23年(1948)制定の優生保護法に、「本人又は配偶者が、癩疾患(ハンセン病)に罹り、且つ子孫がこれに伝染する虞(おそ)れのあるもの」は任意で優生手術が施せると規定されていた。ハンセン病は遺伝しないが、家族間では僅かとは言え感染が比較的起きやすいためと言う事であろう。こうした優生政策は、優生保護法制定以前から、療養所内では「所内では子どもは産ませない、育てさせない」として行われていたという。また「任意」とは規定されていても、実際は強制・半強制であったとされている。
 詰まるところ。「療養所」は、ハンセン病者を根絶やしにしようとした「絶滅収容所」だったという事である。

 築山は厳重に護られ、現在登るのは不可だ。園内訪問者増で決壊が起き、2004年に修復されたが、子供の事故防止などの理由でフェンスで囲われたそうだ。残念ながら、入所者の方々が見た景色を追体験することはできない。ここは、是非残してもらいたいと望む声が多いという。

東村山市、国立療養所多磨全生園
望郷台全景
白い盲導柵の所に盲導チャイムのスタンドある

 築山の東北側は、小さな畑とその奥の原っぱ。その向こうに、平屋の居住棟が並んでいる。入所者の方であろう、手押し車を押したご高齢の女性の姿が時折見える。(居住区域は立入は不可だ。感染云々ではなく入所者の皆さんの生活の場だから)

東村山市、国立療養所多磨全生園
畑はほんの少し
柵は盲導柵

 同じ畑と原っぱを、東から。1940年代の古航空写真を見ると、築山側の畑部分には居住棟が三つ見えるが、原っぱ部分は今同様に建物は無い。此方は畑だったのかもしれない。

東村山市、国立療養所多磨全生園
原っぱ

 さらに東へと、行ってみる。

 4につづく

2019年長月6日
(取材は8月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご了承頂けます様、宜しくお願い致します

・園の場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病家族の「人生被害」と残された課題(NHK時論公論)、ハンセン病 日本と世界(工作舎)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)、古賀克重法律事務所「わが国におけるハンセン病政策の歴史」、国立療養所多磨全生園における緑地の意義と変遷(山道あい他)、〈全生園の森〉の文献(4) 著書篇(A 歌集・句集・詩集、B 随想・記録・論文 共に柴田隆行編)他

*ハンセン病(Hansen's disease, Leprosy):癩病、レプラとも。また天刑病(天の刑罰による病)、業病(悪業による報い)などとも呼ばれた。らい菌により主に皮膚と末梢神経が侵される感染症で遺伝はしない。感染力は非常に低い。ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン(1841-1912)がらい菌を発見(1873)したことに因む名称。嘗ては不治の病とされされたが、現在では外来通院で完治できる
*優生保護法:「不良な子孫の出生を防止」を目的とし、遺伝疾患、ハンセン病、精神障害等を理由とする不妊手術や中絶を本人同意なくも認める法律。1996年「母体保護法」に改正
*優生手術:生殖腺を除去せずに行う生殖を不能にする手術のうち優生保護法に基づいて行われるもの。なお、施設内で子を持つことが許されなかったのは日本だけと言う
*優生政策:人類の遺伝的に優良な形質を保存し劣悪とされる遺伝的形質を排除しようとする優生学に基づく政策。ナチス政権時代のドイツ等で行われたものが著名

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多磨全生園 2
 前回の洗濯場跡から、自転車の消えて行った方角へ進むと、左手に、監視塔かと訝るほど背の高い高架水槽が現れる。その下を行くと、通り沿い樹々の狭間にこじんまりした建物が右手に散在している。左手の遠くには、居住棟が多く見える。ハンセン病の後遺症を抱える方々が、暮らしておられる場所だ。大半の方はもう、ハンセン病は治癒しているそうだ。現在ハンセン病があったとしても療養所に入る必要はなく、一般の通院治療ができるのだが、高齢化の問題や、本人又家族に対する差別・偏見が根強く残っているなどの問題がある為、園外で暮らすことが難しいのである。

 ロードバイクを転がし歩けば、散在する建物手前の道端に、巨大な鬼瓦が二つ並び、ぎょっとする。

東村山市、国立療養所多磨全生園
多磨全生園の鬼瓦

 「礼拝堂鬼瓦」とある。

東村山市、国立療養所多磨全生園
鬼瓦アップ

 「礼拝堂」は、多様な宗教宗派の祭壇が並び、各種イヴェントが行われるホール的なものであったそうだ。1982年老朽化のため解体されてしまったが、当時は北多摩随一の木造建築とも呼ばれた、相当大きな建物であったと言う。確かにこの鬼瓦も、可也巨大である。ちなみに、下の様なステンレスの解説板は、入所者の皆さんが、それぞれ設置場所を選択し解説も書いたものだそうである。

東村山市、国立療養所多磨全生園
礼拝堂跡解説板

 鬼瓦のある場所には「盲人会館」がある。これを見て合点がいった。気付けば路傍彼方此方に大人の身長程度の高さのスタンドにスピーカーが設置され、常に柔らかなチャイムが流れているが、これは目の不自由な入所者の方のための「誘導チャイム」(盲導鈴)なのだ。ハンセン病では視力障害が多く起こるので、視力の低下する方が多いのである。

 盲人会館の向かいには、幾つもの建物が並んでいる。先ほど樹々の間に見えたものはこれだ。よく見ると、カトリック教会と日蓮宗のお堂が向かい合っている。様々な宗教施設の並ぶエリアだ。入所者の方々の不安や、精神的苦悩が推し量れる様な場所である。

東村山市、国立療養所多磨全生園
カトリック教会
向こうに高架水槽

東村山市、国立療養所多磨全生園
日蓮宗会堂

 上の写真で、道沿いに白い柵、道の中央に白い線がそれぞれ見えるが、これは、杖で叩きながら自分の居る場所を把握する「盲導柵」と、歩行を助けるための「盲導線」。上の「盲導鈴」同様、ハンセン病の後遺症で目の不自由になった或いは視力の落ちた方のためのものである。

東村山市、国立療養所多磨全生園
日蓮正宗蓮華堂
会長と見学

 宗教施設についてだが、これら施設は、外部の慰問者や寄付によって維持されてきたそうだ。しかし、入所者の減少などもあり、その維持は難しくなっているとか。現在は、信者さんやボランティアの方々により維持されているそうだ。
 外部の方々により維持されてきたという事は、ここは国の施設内ではあるが、これら宗教関連施設は「国の財産」とは見做されていないという事であろうか。この国策によって作られた「ハンセン病療養所」と言う存在を考える時、これら療養所に強制的に入所させられた方がたを精神的に支えて来たこれ等諸施設は、「療養所」と一体の重要な存在であり、保存が必要なものと思うのだが、如何であろうか。

 3につづく

2019年長月5日
(取材は8月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご了承頂けます様、宜しくお願い致します

・園の場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病家族の「人生被害」と残された課題(NHK時論公論)、ハンセン病 日本と世界(工作舎)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)、他

*ハンセン病(Hansen's disease, Leprosy):癩病、レプラとも。また天刑病(天の刑罰による病)、業病(悪業による報い)などとも呼ばれた。らい菌により主に皮膚と末梢神経が侵される感染症で遺伝はしない。感染力は非常に低い。ノルウェーの医師アルマウェル・ハンセン(1841-1912)がらい菌を発見(1873)したことに因む名称。嘗ては不治の病とされされたが、現在では外来通院で完治できる
*後遺症:病気の進行により皮膚の末梢神経が破壊され機能が失われてしまい戻らなくなる。視力障害、運動障害が伴う場合もある
*経過措置:治癒していても社会復帰が困難なため入所中の方々の生活を保護する経過措置がとられている
*高齢化:2016年5月時点で全国13療養所の入所者1,577名の平均年齢は84.8歳

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多磨全生園 1
 東京西部、「所沢街道」と通称される道路がある。東京都道・埼玉県道4号東京所沢線の一部、西東京市田無町一丁目交差点から埼玉県所沢市金山町交差点に至る間だ。この道路が、東村山市西部の青葉町を通り抜けるその東側に広大な施設がある(面積352,796平方m)。「国立療養所多磨全生園」だ。

東村山市、国立療養所多磨全生園
多磨全生園正門(標高61.9m)

 ハンセン病の療養所である全生園(ぜんしょうえん)は、明治42年(1909)に設立された、公立療養所第一区府県立「全生病院」(こちらは「ぜんせい」と読む)が元である。昭和16年(1941)に厚生省に移管され、現名称となった。

東村山市、国立療養所多磨全生園
全生園門柱

 平成8年(1996)に「らい予防法」が廃止となる迄、すべてのハンセン病の方々は、国の「癩(らい)絶滅政策」により、長きに渡ってこの一つの町とも言える療養所内に隔離されていたのである。
 「ハンセン病(Hansen's disease, Leprosy)」と言っても、ご存知の無い方もいらっしゃると思うので、私なりに少し説明したい。
 この病気は、以前は「癩病(らいびょう)」、「レプラ」とも呼ばれていた。また、中世においては不信仰などによる仏罰(或いは神罰)の現れとの捉え方が主であったので、天の刑罰による病と言う意味で「天刑病」、前世などの悪業による報いである「業病(ごうびょう)」などとも呼ばれた。らい菌により主に皮膚と末梢神経が侵される感染症で、遺伝することはない。また、感染力、発症率は非常に低い。名称は、ノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセン(1841-1912)が病原体であるらい菌を発見(1873)したことに因むものである。嘗ては不治の病とされされたが、現在では外来通院で完治できる「普通」の病気だ。
 「普通」の病気ではあるが、治療薬もなく治療法も確立されていなかった時代には、病気は進行し易く、進行すると顔や手足に変形が生じるなどあり、患者は長く差別・偏見の対象となって来た。また基本的に感染力が弱いため、生活を共にする家族内に複数患者が出ることが多い場合があったので、遺伝すると誤解され患者本人のみならず家族、子や孫などにも差別が及んだ。
 そうした歴史の流れの中で、近代化を進める明治政府は、ハンセン病患者を療養所に収容・隔離する政策を実施する。そして昭和になると徐々に収容・隔離政策は厳しいものとなり、「患者狩り」の様相を呈することとなる。在宅療養の者を含めすべての患者を強制的に収容し、患者の家を消毒した。「御上がそこまでする」と、人々の中にあった、ハンセン病に対する恐怖そしてハンセン病患者・家族に対する偏見・差別は更に強いものとなっていったのである。
 古くよりハンセン病者に対する差別はあったとはいえ、病者は(不本意ながらも)四国巡礼に出たり、勧進のため街に出たりなど、或る程度の自由は認められ、少なくも絶対的な隔離はされていなかったという。人々はそれなりに共生していたとも言えよう。それが、国の強制収容・強制隔離政策によって、ハンセン病は感染力の強い恐ろしい病気であると、人々の中に誤ったイメージを定着させ、差別・偏見を助長し苛烈なものにしたのだ。

 感染力に対する誤解と言うと、一つのエピソードを思い出す。我が家のおばあちゃんに聞いた話だ。
 WW2中、日本陸軍の従軍看護婦であったおばあちゃんは、当時のオランダ領インドネシア、スマトラ島にある「南方第10陸軍病院」へと配属されていた。彼女(当時二十代)は伝染病棟の担当で、そこの患者さんに一人ハンセン病の方がいた(おばあちゃんは「レプラ」と呼んでいた)。その患者さんは個室で、部屋のドアには下部に小さな窓があり、食事の時間になると料理の入った食器がその窓の外に置かれ、患者さんが自ら窓から食器を中に入れ、食事が終わると空の食器を窓の外に置く。そしてそれを看護婦さんが回収するという形であった。詰まり患者さんと看護婦さんの接触を極力減らすという事だ。また、敗戦後の事だが、おばあちゃんの居た病院はイギリス軍(英印軍と言っていた)によって接収され、彼女らはトラックに載せられ捕虜収容所へ運ばれた。患者さんたちはそのトラックの荷台からこぼれんばかりに満載状態であったのに、ハンセン病の患者さんは、ただ一人、ポツンとトラックの荷台に載せられていたそうだ。とても気の毒に感じ、その光景が非常に強く印象に残っていると、彼女は良く話してくれた。この「一人ポツンと」が、イギリス軍(英印軍)の指示によるものか、病院側の指示によるものか、その辺りは全く不明だ。
 おばあちゃんが話してくれた、ハンセン病の患者さんが陸軍病院で謂わば「プチ」隔離状態に置かれていたというエピソードは、一般にハンセン病が強い感染力を持つものだという認識で捉えられていたことを示すものと言えるのだろうが、国は、ハンセン病が感染力も発病率も極めて低い病気であるという認識は、持っていたという。なのになぜ、大々的に隔離政策をとったのか。この辺りは難しくよく分からないが、欧米と対等な存在になろうとする「文明国」日本にハンセン病者が存在することを「国辱」と捉えたから、と言う考え方がある。また、時代が戦時体制へと向かう中、兵力・生産力として位置付けられた国民の中からハンセン病者を排除しようとした(民族浄化)から、との捉え方もある。
 隔離の理由は複合的なものであろうが、何れにしろ、医学的には隔離の必要のないものであったのだ。
 しかし、兵力・生産力にならないという理由なら、当時ハンセン病と同じく不治の病とされた結核の患者が排除・隔離の対象とはならなかったのはなぜか。その辺りは、古来から連綿として存在して来たハンセン病に対する偏見・差別が影響していたのかもしれない(私見です)。

多磨全生園航空写真(1944)
多磨全生園航空写真
昭和19年(1944)6月27日陸軍撮影

 これは、昭和19年当時の全生園。周囲は田園で、園が周囲(社会)から隔絶された施設であったことがイメージできよう。アップで見ても、少し離れた街道沿いまで民家も見えない。画像左、園西縁に沿う斜めの線が所沢街道。右端に見えるのは、軍の結核療養所である傷痍軍人東京療養所(昭和14年開設)の一部。全生園内中央上部に、野球場があるのだが、この頃は食糧確保のため畑となっていた様だ。

 以前は、上記の如く隔離され閉ざされた世界であったハンセン病療養所だが、今は、この多磨全生園も開放され入所者の方々も、そして我々も、出入りは自由だ。
 前から訪ねたかったのだが、今回すぐ脇を通る中富線の鉄塔を追跡するとともに望みが叶った。見学・散策は自由であるが、あくまで「療養所」であり、入所者の方々の生活がある場。そこは、それなりの配慮が必要だ。(20名以上での見学・散策は事前連絡が必要)

 正門から入らせて頂くが、だだ広い空間が目前に展開し、案内図を見るけれど初の訪問・見学で勝手がわからず、彷徨う。

東村山市、国立療養所多磨全生園
総合案内図

東村山市、国立療養所多磨全生園
隠れた史跡案内板設置場所地図

 探り探りロードバイクを押しながら歩いてゆくと、事務関連や治療施設等現れ、これは入ってはいけないエリアかと、迷う。すると、道脇にステンレス製の解説板が目に付いた。

東村山市、国立療養所多磨全生園、洗濯場跡
洗濯場跡

 「全生園の隠れた史跡 洗濯場跡」とある。こうした解説板があるという事は、入ってもいい場所ではあるらしい。洗濯場は、入所者の方々が包帯やガーゼの洗濯作業をしていた場所で、「洗濯場事件」というかつての療養所と言う存在を象徴するような出来事があった場だと解説板に記されている。
 昭和16年(1941)、洗濯場主任の患者さんが、穴の開いた長靴では足や神経痛に支障が出ると新しい長靴を要求したところ、理由は不明だが拒否されてしまった。そこでその患者さんは二三日仕事をサボタージュし、結果たまったガーゼや包帯を腐らせてしまい、その責任を問われ、所長の懲戒検束権により群馬県草津の「栗生(くりう)楽泉園」にある「特別病室」に奥さんと共に送られた。ここは実質、医療も行われない懲罰用の監房で通称は「重監房」であった。患者さんは監房で重体となり、42日後に出獄したがその後程なくして亡くなった―。
 解説板の設置されている場は給食棟や現在の洗濯場がある、何の変哲もない場だが、初めて訪れた療養所で初めて知った過去の出来事がかなり重要な事柄で、ちょっと身が引き締まるような感じだ。

 こうした史跡解説があることで、入ってもいいエリアであることは分かったが、この先が如何行ってよいのやら分からず、きょろきょろしてしまう。すると、制服の少女と若いおにいさんが自転車で同方向へと続けて私の前を行きすぎるので、何となくそちらへ行ってみる。

 2につづく

2019年長月4日
(取材は8月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・文中、差別的ともとれる用語を使用している場合がありますが、歴史的な説明のためであり差別的意図は一切ありません。何卒ご了承頂けます様、宜しくお願い致します

・園の場所は東村山市青葉町、最寄り駅は西武新宿線秋津駅orJR武蔵野線新秋津駅です

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・参照:歴史から学ぶハンセン病とは?(厚生労働省)、Leprosy.jp(多磨全生園ガイドツアー)、ハンセン病家族の「人生被害」と残された課題(NHK時論公論)、ハンセン病 日本と世界(工作舎)、ハンセン病 排除・差別・隔離の歴史(岩波書店)他

*全生病院:建設に当たっては風評で野菜が売れなくなるなど地元農民の反対運動があった
*府県立:東京府、関東6県、新潟県、愛知県、静岡県、山梨県、長野県の連合府県立療養所という事
*四国巡礼:一般巡礼道とは別の「カッタイ道」を行ったという。「カッタイ」とは「傍居(かたい)」で、路傍で物乞いをする人の事だがハンセン病者を指す場合が多い
*すべてのハンセン病患者:在日朝鮮人・韓国人の方々も含まれる。こうした方々は謂わば二重の差別・偏見に晒されたのである。また旧植民地である朝鮮・台湾でも療養所への強制収容・隔離が行われた
*ハンセン病療養所:私立の療養所や外来診療機関も存在した。国立の療養所は現在全国に13ヵ所ある
*懲戒検束権、重監房:前者は入所者を処罰するために所長に与えられた権限。後者は昭和13年(1938)から昭和22年(1947)まで使われ、収監された93名の内23名が亡くなったとされている。暖房もなく死者の多くは寒冷期に出たという。重監房は現在重監房資料館(群馬県草津町)に再現されている
*英印軍:イギリス植民地時代のインド軍の事だが、おばあちゃんの言うこれがインド人兵士により構成されたものを指すのか、インド駐留のイギリス軍を指すものかは分からない

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デイタイムライト
 可也、寂れたイキフンの公園である(標高138.3m)。

多摩市、連光寺公園
連光寺公園

 旧火工廠多摩火薬製造所跡地周辺の鉄塔をロードバイクで巡った際、、チーランする為に訪れた、多摩市連光寺の、その名も「連光寺公園」。隣接する「桜ヶ丘公園」に比し、可也小さく且つ非常に地味な公園だ。テニスコートと芝生広場のある部分と、一段高い遊具等ある部分に分かれるが、シニアの方々がプレイ中で非常に賑やかなテニスコートとは異なり、階段を上がった上にある私の居る場所は人気は無い。階段の丸太も、半ば朽ちている。鉄棒下には、長い事放置された様に見受ける子供の帽子が落ちている。
 かなりの勢いで夏草も繁り放題であるが、あまりの暑さの所為か、モスキートの攻撃はない。野外で日中襲来するヒトスジシマカ(ヤブカ)は、概ね摂氏35度超となると不活発になるそうだ。産卵を控えたカには生憎だが、半袖短パンの身には有難い。

多摩市、連光寺公園
連光寺公園と相方

 色々書いたが、別に、連光寺公園をディスる意図はない。可也私好みである、こういう荒れた公園(いや、ディスってないって)。樹々の緑も、その落とす影も共に濃く、セミの声に満ちた真夏の昼下がりの連光寺公園は、何所か郷愁を誘う。
 その濃い緑の中に、サイクリング&鉄塔巡りの「相方」が写っているが、少年時代以来、〇十年振りに乗り始めたこのロードバイク、共に走って早1年。いろいろ彼方此方行く内に、必要を感じたり、不足を感じたりなどし、グッズが増えたり、装備の仕方が結構変わったりなどしている。
 そこで一寸、それらについて触れたいと思う。

 まずは、【ポンプ】(空気入れ)。これは、携帯用のパナ〇ーサーのミニ・フロアポンプを自宅でも使用していたが、いくら足で固定して使用できるタイプとは言え、流石に小さいので6バールから7バール(大体三日で1バール抜ける)まで入れるのに三十・四十回押さねばならぬ。使えないことはもちろんないのだが、結構疲れる。よって中古で通常タイプの大きなフロアポンプを探したところ、幸運にも即見つけることが出来たので即ゲット。ごくごく普通のポンプだが、6から7バールへは四・五回押せば入る。ビックリするほど楽。

 カスク(ヘルメットの様なもの)の下に普通のキャップを被っていると、庇で前が見えないのでキャップの代わりにバンダナを被っていたが、やはり庇なしでは眩しい。そこで、庇が小さく上に撥ね上げることもでき前傾姿勢でも視界が妨げられない、その名も【サイクルキャップ】を被ることにした。幸い色・デザイン違いの二つを共にUSEDで手に入れることが叶った。何方も綿35%・ポリエステル65%生地で、メッシュでもないのに真夏でも汗による不快感はなく、カスクを脱げばすぐ乾き、とても重宝している。髪が可也残念な状態の私には、有難いグッズ。デザインは大分カジュアルでスポーティー感が希薄なものを選んだので、普段着でも全く違和感がない。

 真夏と言えば、サイクリングで重要なのは水分摂取である。今まではサイクルボトル(水筒)一本態勢であったが、これではすぐ空になってしまうので、二本態勢とすることに。為にボトルを装着する【ボトルケージ】を一つ増やした。見た目を考慮し、以前から装着しているジュラルミン製ケージと同型・同色のものを物色していたら、こちらもUSEDで幸いゲット。

 最近は、私としては全くと言ってよい程未知の地域へ出かけることが多くなり、地理的勘にはそこそこ自信のある私もスマフォのマップのお世話になることが増えた。帰路はまず見ないが、往路では最低でも二・三度はスマフォで目的地と現在地との位置関係をマップで確認する。のだが、スマフォがバックパックの中なので、これがメンドイ。―今いる位置が分からない、バイクを歩道に停める、バイクから降りる、バックパックを下す、スマフォを出す、調べる、スマフォを仕舞う、バックパックを背負う、バイクに乗る、走り出す―。これを二・三度繰り返す訳で、可也メンドイ。
 なので、スマフォをすぐ手元に置けるように、ステム(ハンドルとフロントフォークを繋ぐパーツ)横に付ける、R2〇0製の【フロントポーチ】を購入(中古では見つからなんだ)。高さと言うか深さが約170mm、幅が70-100mm(断面が台形)で、私の長さ約160mm、幅約80mmのスマフォが丁度収まり、非常に便利。マップを見たい時は、自転車を歩道に停めて跨ったままポーチからスマフォを出し、見終わったらポーチへ戻し、走り出す。これだけである。もっと早く、導入すべきであった。鍵を入れるのも便利で、サドル下のブラケットに装着していたワイヤーロックもここに入れている。ブラケットに付けていると使い易いのだが、走行中カタカタ音がし、結構気になるのである。スマフォと鍵と両方入れると少々きつきつだが、使える。

 これが必要、あれが不足、となんだかんだ言っても、矢張り最も気になるのは、「安全」である(損害賠償補償付傷害保険には入っている)。アルツハイマー病のおばあちゃんと、猫達の命が私の肩に乗っていると考えると、「安全」の二文字が何時も脳裏にちらつく。
 なので、最近、「Daytime Running Lights(DRL)」詰まり【昼間点灯】(デイタイムライト、デイライト)を実践してみたりする。偶に見かけるフロントやリアのライトを昼間点灯(点滅)させている自転車が、結構目立ち視認性がよいので、私も真似して点滅させている。フロントは手持ちのライトをそのまま使い、ハンドルに装着。リアは手持ちのものは夜間は問題ないが昼間は輝度が少々心もとないので、新たにUSEDで見付けたデイタイムライト対応のものを購入しサイクリング用バックパックに装着した(ライトは皆CA〇EYE製。古いリアはナイトライドの時足首に装着)。一般的なサドル下位置に付けてもいいのだが、余り車体に彼是装着すると、自転車を置いて鉄塔を追ったり、或いは帰りのスーパーでの買い物の際等着脱が面倒になる。それにバックパックに付けていれば、多少位置も高くなるし、車体から離れた場合でも後方にアピールしてくれるのでより安全ではないか。もっとも護らねばならないのは、車体ではなく、私の体、なのだから。
 自転車死傷事故の78%は昼間に発生しているのである。重大事故は、出会い頭が55%、追突(進行中)が8.7%。死亡事故に限れば40%は追突事故によるもの。多くの方が日中自転車に乗ることが多いので、絶対数が多いというのもあるだろうけれど、何であれ、昼間にも多くの自転車事故が起きているのは事実なのである。
 私は自動車免許を持たないので、自動車から自転車がどの様に見えるのかは、全くと言ってよいほど分からない。だが、ロードバイクに乗る様になって、以前と一番変わったのは、今までは意識的に避けていた幹線道路やそれに準ずるような道路、詰まりは交通量の多い道路を、無意識のうちに走ることが増えたことである。ロードバイクは早く走る為に作られた自転車なので、ゆっくりのんびり走るより、或る程度スピードを出して走る方が快適なのだ。なので、普通に走っていても自然自然とスピードが出、そうなるとまた自然自然と幹線道的な道路に誘われるように入ってしまうのだ。
 然しそうなると、今度は恐怖を感じることが多くなる。私のすぐ横を走り抜ける、私の目の前を横切って行く、鉄の塊―。私を追い抜いてゆく自動車のドライヴァーさんに、私の対向右折車のドライヴァーさんに、私は見えているのだろうか。好みの関係で(メタラーなので)、全体に黒っぽい恰好をしているし、見えてないのかなあ、と不安になる。
 オートバイクは今は昼間点灯が基本となり、「道路運送車両法・保安基準32条の7」でエンジン始動と同時にライトがオンになりオフにはできない構造になっている(法改正以前製造の車両は別)。当然、安全のために視認性を高める目的だが、自転車ははっきり言ってオートバイクより更に目立たない。なので、自転車こそ、昼間点灯が必要なのではなかろうか。自分のためにも、他者のためにも。
 セーフティライト(リアライト)に関しては、フロントライトより重要かもしれないとも思う。私の前にいる自動車は視界に入るので対応できることは多いが、私の後ろにいる自動車には対応できることは少ない。一応バックミラーは装着しているが、バックミラーばかり見ていてはこれも危険だ。やはり、後ろの自動車のドライヴァーさんに私の存在をアピールする事は重要であろうと思われるのだが、如何であろうか。

 安全関連で言えば、【サイクルグローブ】をするようになった。ロードバイクは低速時には非常に不安定な乗り物なので、転倒の危険性が高い。転倒すれば、ニンゲン無意識のうちに手をつく。アスファルトに素手で手をついたら、エライことである。よって、真夏でもハーフグローブ(指が短いグローブ)装着となった(中古では見つけられなかった)。ハーフのグローブをした程度では、暑さに変わりは全くない。それに、掌のパッドがハンドルからの衝撃を吸収してくれるので、痛くなり難い。

 ああ、モノは増やしたくない性質なのだが、何か色々グッズが増える。何時かは輪行もしたいし、火野正平パイセンの様に自転車旅もしてみたい(地上波放送してくれないかなあ)。そうなるとまた増えるな。あれやこれやとネットで自転車グッズを物色するのは(買わなくても)楽しいが、やっぱり、モノは増やしたくないなあ。

2019年葉月29日
(取材は8月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・公園の場所は多摩市連光寺、最寄り駅は京王線聖蹟桜ヶ丘駅です

*損害賠償補償付傷害保険:私が自転車で他者にケガをさせてしまった場合の賠償が補償される所謂「自転車保険」的なものが含まれる保険。自転車保険は自治体によっては加入が義務化されている。なお自転車保険の中には「自転車ロードサーヴィス」が付帯しているものがある。これは故障や事故などで自転車に乗って帰れなくなった場合など自動車で駆け付け一定距離内なら無料で自転車(のみ)を運んでもらえるもの。商品により内容に多少の違いはあるが基本は同じ。これは一寸魅力的だ。ロードサーヴィスのみっていう保険もある。気になる

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霊園掃苔―桃李
 鉄塔取材の際、たまたま遭遇した、日野市の「小島善太郎記念館(百草画荘)」(2013年開館)。

日野市、小島善太郎記念館 日野市、小島善太郎記念館
日野市立小島善太郎記念館
手作りな表札が右門柱に

 その画荘主(あるじ)であった小島善太郎氏(1892-1984)のお墓が多磨霊園にあるのを知り、これも何かの縁と、後日取材をした。

 場所は5区(1種30側)。墓所は北面し、その前に立てば、右後方に残丘の浅間山(せんげんやま)が望める。

府中市、多磨霊園、小島善太郎墓
小島善太郎墓(中央)

 墓碑には「小島家之墓」とある。

府中市、多磨霊園、小島善太郎墓
小島善太郎墓

 墓碑手前左側には墓誌。善太郎氏含め、父上・母上また若くして亡くなられた妹さんなど七名の方々のお名前がある。

府中市、多磨霊園、小島善太郎墓
墓誌

 墓誌に向かい合う様に、右側には、お饅頭を縦に割った様な小さな石碑。

府中市、多磨霊園、小島善太郎墓
石碑

 裏には、平成17年12月に三人のお子さんたちによって建てられたと記されている。この石碑は、ほぼ同じものが記念館にもある様だ。
 表面には、

 桃李 不言 下自 成蹊

府中市、多磨霊園、小島善太郎墓
コントラスト強調

の短い文章と、その下にモモ二つ。
 この言葉は、

 桃李(とうり)もの言わざれど、下(した)自(おの)ずから蹊(こみち)を成す

と言う諺であるそうだ。司馬遷(BC145/135?-87/86?)の「史記」中「李将軍列伝」で引用されたものであると言う。意味は、モモやスモモは何も言わぬが、そのよい匂いや美味しさを求め人が集まり、その木の下には自然と小道ができる、と言うもの。つまり、「李」将軍の人徳・人望をモモやスモモに例え称えたのである。此処で李将軍とは、前漢時代(BC206-8)、文帝・景帝・武帝に仕えた、武勇に優れると共に非常に清廉な人柄であったという、李広(りこう)(?-BC119)の事(中島敦の小説で有名な李陵の祖父)。
 小島氏は、この八文字の言葉を座右の銘にしていたそうだ。其れであるのかどうかは不明だが、モモも沢山描いている。
 氏の作品は、記念館公式HPで多く見ることができる。系統としては「日本的」フォーヴィスム(野獣派)、となるらしい。淡い色調と柔らかな輪郭で、モモやリンゴの静物画などセザンヌっぽいと思ったら、氏はセザンヌを尊敬していたそうだ。「ミチル」と「ちー子」という愛猫が描かれているが、どちらも三毛さんである。
 小島善太郎と言っても、失礼ながら、ご存知の方はなかなかの「通」の方で、多くの方は絵画ファンでもご存じない、という場合が多いのではなかろうか(Wikipediaにも掲載が無い)。斯く言う私も、存じ上げなかった。ので、少し解説。
 氏は東京は新宿生まれ。一家困窮の為小学校を中退し醤油店で丁稚奉公し家計を支える。明治43年(1910)18歳の時、「坂の上の雲」にも登場の陸軍大将中村覚に見出され書生となり、本格的に画を学ぶ。フランス留学から戻った洋画家安井曾太郎(1888-1955)の作品に感銘し、大正4年(1915)23歳で師事(安井氏もセザンヌに影響を受けたという)。大正11年(1922)30歳の時には、野村証券社長の後援でフランス留学。ここではピエール=ナルシス・ゲラン(1774-1833)に師事し、翌年には「サロン・ドートンヌ展」で入選する。帰国後は美術学校教授を務めたり、美術協会を立ち上げるなど洋画家として活躍。明星学苑理事など教育にも携わった。
 昭和6年(1931)に、環境を気に入り百草(当時は七生村)に土地を購入。翌昭和7年(1932)八王子市丹木町(当時は加住村)に転居し、以降多摩に暮らす。八王子では子供たちに絵を教えていたそうだ。
 昭和46年(1971)、以前買った土地にであろうか、日野市百草にアトリエ・住居を設け移り住む。昭和59年(1984)91歳で日野市にて死去したのち、平成25(2013)に遺族よりアトリエ・住居と作品等が市に寄贈され、現在記念館となっている、訳である。
 50年以上多摩で暮らし、百草や青梅、八王子また奥多摩など、多摩の風景を描き多摩の地で亡くなった方を存じ上げぬとは、全く持って不覚であった。

 しかし、暑い。昨年より一月遅れの梅雨明けの報が届いたばかりだが、蒸籠の中の様に蒸し暑い(入ったこと無いけど)。小島氏の墓所は5区だが、この区は公園のある東のエリアと、大廻り西通りを挟んだ西のエリアとに分かれている。訪ねた墓所は後者側で、以前紹介の、無縁墓所付近を除き余り樹陰が無く容赦のない強い日射が照り付けるのだ。
 ので、取材後ランチ場所を求め、霊園南西部、木立に包まれた浅間山下のロータリーへ。

府中市、多磨霊園、浅間山下ロータリー
たまらんにゃ〜会長とロータリーで

 4・5・25・26の四つの区が接する部分のロータリーだが、高木に囲まれ周囲にベンチが並び、休憩には良き場所である。
(私に摘ままれているのは、「たま発!倶楽部」のたまらんにゃ〜会長。いつも一緒に行動して多摩ネタではこうして時折写真に登場願っている。なのだが、会長がチャイチイ。実は、体長20cm超のもっと大きな会長もいるのだが、ロードバイクで行動する私にはデカすぎて連れて行けないのだ。なかなか上手く行かないものである)

 これからの季節は、モスキートの大量来襲もあり、多磨霊園の掃苔(そうたい)にはやや不向きだが、またその内に、何方かの墓所にお邪魔させて頂くこととなろう。

 合掌。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年葉月10日
(取材は7月末)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅or新小金井駅です

・参考:小島善太郎記念館年譜、東京文化財研究所アーカイブデータ他

*小島善太郎記念館:氏は青梅の自然も愛し、その縁で青梅市に「小島善太郎美術館」(1984年開館)がある。名前が似ているのでお間違えの無いように
*漢詩:内容は同じ漢詩に名が由来する成蹊大学HPを参考にさせて頂いた
*フォーヴィスム(fouvisme):20世紀初頭パリで興た絵画運動。激しく大胆な色使いや筆致が特徴。1905年、上記「サロン・ドートンヌ」の出品作を評論家が「フォーヴ(野獣)」と表現したことに由来

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ショート・ラン
 90才代半ばになる我が家のおばちゃんは、ペースメーカーを入れているので、半年に一回病院でペースメーカーのチェックを受ける。この際、「ペースメーカー手帳」と言うペースメーカーを植えこんでいる患者さんが持つ手帳に、チェックした業者さんが種々データを記入して下さるのだが、先日受けた検診で、この記入されたデータの中に「short run 4回」と言うものがあった。
 「short run」。このショート・ランとは、一般的には「短期的な」とか「長続きしない」といった意味だが、心臓に関しては「心室性期外収縮」と呼ばれる一種の不整脈(脈が跳ぶ、乱れる)の内、二拍以上連続するものをさす言葉となる。なので、手帳の記述に拠れば、前回検診後のこの半年間に、四回このショート・ランがあった、という事だ。手帳を見返すと、以前の検診時にも、何度かショート・ランの記入があった。ドクターに拠れば、これは、全く問題ない、とは言い切れないが、特別問題はない、と言えるレベルのもので、ご心配はご無用、とのことである。ペースメーカー

 今迄何度も検診を受けているのに、なぜ急にこのショート・ランが気になったのかと言うと、一寸訳がある。
 その訳とは、先月の初旬に起きた、おばあちゃんの「転落」事故に、ペースメーカが影響したのかも?という疑惑があったからだ。
 7月初めの或る日、私が自室でPCに向かっていると、玄関で可也大きな物音がした。自室にいても、おばあちゃんの居る場所については常に注意を向けているので、音を聞いて反射的に部屋を飛び出し、音のした方、詰まり玄関へ向かった。明らかに猫が立てる様な音ではなく、もっと重く大きなものによって立てられた音と判断されたからだ。
 玄関に行けば、案の定、おばあちゃんが玄関に「転落」している。転落とは少々大袈裟だが、玄関は床面から50センチほど低くなっているので、やはり「転落」なのだ。
 私が発見したとき、おばあちゃんは玄関ドアの右手に頭が位置する形で、身体の左側を上にして転がっていた。声を掛けたが反応が無い。私は自身の不注意を呪いながら、とりあえず、おばあちゃんを玄関から床上へ引きずり上げた(重くてそうするほかなかった)。すると、おばあちゃんの意識は戻り、何やら意味不明なことを口にしている。これは、ちょっとヤバいな、と判断し、即タクシーをお願いし、5分程で到着したタクシーに乗り近所の総合病院ERへ向かった。
 タクシー到着の頃には、おばあちゃんはすでに自分で立つこともでき、しゃべることも普段の通りに戻っていた。ので、ERで受けたトリアージでは、順番通りの受診となった。
 MRI検査でも特に問題はなく、肘の大きな擦過傷の治療を受けただけで帰宅と相成った(ただし、遅れて症状の出ることがある「慢性硬膜下血腫」だけは注意が必要である)。
 この件に関しては、これで終わったと思ったのだが、翌日、ERでの担当ドクターが態々電話で、「言い忘れてしまいましたが、若しかしたらペースメーカーの不調で気を失って転落した可能性も考えられる」ので、ペースメーカー検診ではそのことを担当ドクターに話してみてくださいと、そう教えて下さったのである。
 言われてみれば、なるほどである。よって、検診の際、ペースメーカーのショート・ランが気になったのである。ただ、上記にもある様に、この程度のレベルでは心配ご無用、転落の原因とは考えにくい、ということで、安心した次第だ。

 育児の経験は私には無いが、小さな子供がいると目が離せない、と言う親御さんのそのお気持ち・大変さが、何か分かるような気がする、今日この頃である。

 追記:おばあちゃんは転落によるケガがやっと治ったと思ったら、今度は軽い熱中症で、かかり付け医院で点滴三時間である。またまた注意の至らなさを自身で呪い、おばあちゃんに心で侘びる次第だ。然し―ほんと、気の休まるときが無いよ。

2019年葉月7日

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画像は、シルエットACよりお借りしました
(これはあくまでイラストで、ペースメーカー装着者を示す公式なマークではない。ペースメーカー装着に限らず外からは分からない内部障害・内臓疾患などを示すものとしては「ヘルプマーク」(赤い長方形の中に白い十字とハート)や「ハート・プラスマーク」(下)などがある

ハート・プラスの会

*慢性硬膜下血腫:頭を打った際その時点で出血は無くも徐々に出血が起こって頭蓋内にたまり脳が圧迫されて1か月、2か月も経った頃症状が出る。脳と頭蓋との間に隙間の大きい高齢者に多い

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霊園掃苔―斜向かい 2
 前回の戦闘機に続き、今回は中島飛行機製爆撃機他をご紹介。そして最後に、再度中島知久平墓について。

中島一〇〇式重爆撃機「呑龍」
一〇〇式重爆撃機「呑龍」一型
(浜松陸軍飛行学校所属機)

 一〇〇式重爆撃機「呑龍」(陸軍):皇紀2601年(昭和16年(1941))採用なので元来は「一式」となるべきところだが「一〇〇式」となった。ニックネームは、中島飛行機工場所在地群馬県太田市にある大光院新田寺の通称「呑龍さま」に由来。戦闘機の護衛なしに行動できる高速重武装爆撃機、の構想のもとに開発。初めて尾部銃座が採用された。余り実用性が高いとは言えずまた多くが中国大陸に配備されたためあまり目立った活躍は無かった。
 子供の頃、東京下町の親戚の家へ行く途中、「十三間通り」と言う商店街のとあるお店の入口横に、この呑龍のプロペラの翅が一つ飾ってあった。其れをよく覚えている。

中島陸上攻撃機「連山」
陸上攻撃機「連山」

 陸上攻撃機「連山」(海軍):大戦末期に遂に完成された日本初の本格四発大型爆撃機。技術的、性能的に不十分で失敗となった海軍初の四発陸上攻撃機「深山」での経験を活かし開発。が、戦局悪化で試作機4機の完成で終わった。性能的(数字的)には英米の同種機種に比しても遜色はなかったが、十分な試験が行えない状況であったので実用レベルであったかどうかは不明。ただ仮に実用に問題はなくとも、当時の日本の生産力や工作技術レベルを考えれば、実際に数を揃え運用することは難しかったであろう。

中島重爆撃機「富嶽」
重爆撃機「富嶽」
画像提供:空のカケラさん(許諾済)

 重爆撃機「富嶽」(陸海):アメリカ本土爆撃を意図し計画された、6発の重爆撃機。太平洋を越えアメリカを爆撃後そのまま大西洋を越えて同盟国ドイツに着陸して補給を受け、逆コースで再度アメリカを爆撃して日本へ帰るという壮大な計画を実施するための機体である。もちろん当時の日本にこれを実現させるだけの技術・工業・生産力がある訳もなく、昭和19年(1944)に開発中止となった。知久平氏は、米軍のB-29爆撃機が実戦配備されれば日本の軍需工場は壊滅するゆえ速やかに大型爆撃機を作りアメリカの飛行場や工場を使用不能にせねばならない、と昭和18年(1943)に軍令部(海軍の中央統括機関)の夕食会で訴えたという。
 因みに計画での大きさは、全長46.00m、全幅63.00m。現在の代表的大型爆撃機であるボーイングB-52H爆撃機が全長47.55m、全幅56.39mであるから、そのデカさがお分かり頂けると思う。
 富嶽は、「Z飛行機」・「Z機」と呼ばれることがあるが、これは知久平氏が独自に立案した上記の米本土先制爆撃計画「必勝防空計画」中で構想された大型長距離爆撃機のことで、のちに富嶽へと繋がっては行くがあくまでも別の飛行機という事の様である。

中島九七式艦上攻撃機
九七式艦上攻撃機一二型(三号)

 九七式艦上攻撃機(海軍):WW2初期、零式艦上戦闘機、九九式艦上爆撃機とのトリオで大活躍した雷撃機(魚雷搭載機)。この機は一から三号までがあり、二号は三菱開発による全く別の機体となっている。全金属製・低翼単葉・引込脚(二号は固定脚)採用と、登場時は世界最先端の画期的存在であった。インド洋、太平洋と空母に搭載され転戦し続けたが、後継機登場後は主に陸上基地で対潜哨戒、船団護衛などに運用された。

中島艦上攻撃機「天山」
艦上攻撃機「天山」一二型

 艦上攻撃機「天山」(海軍):上記九七艦攻の後継機。攻撃機は「山」に因む名とすると言う命名基準によりこの名となった。「天山」は中国の天山山脈ではなく佐賀県の「天山」(標高1,046m)。航空母艦のエレベーター寸法に合わせる為、垂直尾翼が前傾している。当時世界トップの性能を誇るも、登場時(昭和18年(1943)7月採用)にはすでに活躍の場が無かった。米軍のレーダーやVT信管が実用化されて艦船の対空防御力は以前とは比較にならないほどに強固となり、後には天山が載るべき日本の空母部隊も壊滅してしまったのだ。

中島艦上偵察機「彩雲」
艦上偵察機「彩雲」

 艦上偵察機「彩雲」(海軍):快速を生かして活躍した、世界でも珍しい専用艦上偵察機。追撃機(F6Fヘルキャット戦闘機)を振り切った際打った「我に追いつくグラマン無し」の電文は有名。戦後米軍によるテスト(ハイオクガソリン使用)では、海軍機最速となる694.5Km/hの最高速度をマークした。エンジンは「疾風」「紫電改」と同じ「誉」。高速と高空性能の高さから「月光」の様に斜銃を搭載し防空戦闘機としても一部運用された。
 なお、彩雲とは気象現象で、太陽近くの高積雲の雲粒が光を回折し虹色に彩られるもの。高空を飛翔する、このスマートな機にはぴったりの名だ。

中島特殊攻撃機「剣」
特殊攻撃機「剣」

 特殊攻撃機「剣」(陸軍):鋼製(一部木製)で離陸と共に脚を切り離し爆弾架も機銃もなく、照準器すらなかった。海軍名を「藤花」と言う。この名からも想起されるように、一般に体当たり専用機と見做されるが、設計主任の青木邦弘氏によるとあくまでも限られた物資・資材で生産可能なように簡素化・簡易化したもので、攻撃後は胴体着陸しパイロットとエンジンは回収する前提のものであったそうだ。なお、剣はある程度生産されたが実戦参加は無かったとされている。藤花は生産されていない。

中島特殊攻撃機「橘花」
特殊攻撃機「橘花」
二度目のテスト飛行時

 特殊攻撃機「橘花」(海軍):日本初のジェット機「橘花(きっか)」。ドイツが開発した世界初の実用ジェット機メッサーシュミットMe262の技術資料を参考に開発(エンジンは空技廠)。空襲を避け、農家の小屋で組み立てられたのは有名な話。日本が完成に漕ぎつけた唯一のジェット機だが、初飛行は広島への原爆投下翌日、昭和20年8月7日という、降伏直前ことであった。
 なお、特攻機を示す「花」が名に付き、「剣・藤花」同様特攻機と見做されるが、当初よりそう計画されたものではなくそうするより他運用方法が無かったという事の様である。元来は帰還前提の特殊攻撃機であった、との証言(エンジン艤装担当の渡辺進氏)もある様だ。
 写真は8月11日に行われた1号機による第二回目のテスト飛行の際のものだが、この時滑走路をオーヴァーランして破損。修理中に敗戦となった。よって、日本初のジェット機の飛行は、7日のテストの際の約12分間のみで終わったこととなる。

 因みに、何方もご存知の零式艦上戦闘機(ゼロ戦)は、アニメ「風立ちぬ」でご承知の通り三菱が開発したものだが、エンジン(栄)は中島飛行機の開発である。また零戦自体もライセンス生産しており、生産機数は三菱よりも多い。

 斯様に、中島は軍用機が開発・生産の主ではあったが、民間機も開発している。

中島AT-2
AT-2(初期型)
(日本航空輸送の絵葉書より)

 AT-2:昭和11年(1936)から20年(1945)まで、旅客機として活躍。陸軍では、九七式輸送機として採用され落下傘(パラシュート)降下訓練などにも使用された。

 飛行機の話ばかりになってしまった。私は戦争は大キライだが、軍用機は大好きなので、如何かお許し頂きたい。
 最後にもう少し、お墓のお話を。

 バドミントンは余裕で、ヴァレーボールでも頑張れば出来そうな、霊園内でも最大級に広い墓域だが、そこには細かな石が敷き詰められ、草木一つない。めずらしい存在だ。殆んどのお墓には、何等か意図的に樹木が植えられている。また、特に古いお墓では管理者の意に反して自然に成長した木々も多い。草々もまた、手入れの行き届いたお墓でも結構この季節など多いものだが。堀辰雄のお墓に似ているか。あちらも細かな石が敷き詰められ、草木一つなかったな。規模は全く異なるが。

府中市、多磨霊園、中島知久平墓
中島家墓域
 入口から続く敷石など、「中島家」墓前部分は新しく鏡の様だ。或る意味、とてもキレイな墓所だ。

 墓石の右にはやや離れて墓誌。此方も、正面からは写せないほど、ぴかぴかだ。

府中市、多磨霊園、中島知久平墓
中島家墓誌

 ここには、五名の方の戒名があり、右端に知久平氏。「知空院殿久遠成道大居士」とある。知久平の「知」と「久」、そして飛行機にかかるのであろうか「空」の文字が入る。生まれ故郷、群馬県太田市の徳性寺にも、分骨され墓所があるそうだ。知久平氏は戦後A級戦犯に指定されるが、病気のためこの墓所東北東約1.2kmにある自宅「泰山荘」(中島飛行機三鷹研究所、現在の国際基督教大学内)で拘禁となった。二年後戦犯指定は解除されるが、更にその二年後、この泰山荘で亡くなっている。享年65。
 墓誌の、右から三番目には、政治家として活動された長男の源太郎氏、左端には同じく政治家であったお孫さんの洋次郎氏。四番目には、生没を見ると生後僅か二か月で亡くなった嬰児の戒名がある。
 知久平氏の隣にある、「ハナ」と言うお名前の方は何方であろう。生年を見ると知久平氏の20歳下である。知久平氏は生涯独身で、内縁の奥方がいらしてその方との間に一男一女があり、自身の戸籍に入れたとある。一男というのは前記源太郎氏である。一女は久代さんと言う方で、おそらく他家へ嫁いだので此処には無いのだろう。
 あれこれ調べたが、どうもこの「ハナ」さんが、その内縁の奥方様のようである。しかし、この方の姓は小島さんだ。「中島」の姓で中島家のお墓に入ることは、難しそうである。最期に、入籍が叶ったのであろうか。

 合掌。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年文月29日
(取材は7月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅or新小金井駅です

航空機参照:「Keyのミリタリーなページ」さん
航空機画像出典:Wikipedia(パブリックドメイン)、「富嶽」のみサイト「空のカケラ」さん

*呑龍:大光院新田寺開祖の呑龍上人(1556-1623)に由来。新田寺は徳川家康がその祖とする新田義重(1114または1135-1202)の為に創建した
*プロペラ:飛行機の方の「呑龍」のプロペラだが、置いてあったお店は「石渡」と言うメガネ屋さんであったという記事がネットにある。う〜ん、メガネ屋さんだったかもしれない。でも、そこまでは覚えていない
*VT信管:正式には「近接信管」。目標物に当たらずとも一定の距離内に達すれば砲弾を爆発させる信管。この実用化により米艦隊の対空防御能力は飛躍的に向上したとされる
*泰山荘:北海道探検家、松浦武四郎の書斎「一畳敷」が含まれ、現存するすべての建物が国の登録有形文化財となっている
*草木一つない:なぜかこの墓所の周囲はそういった似たようなタイプが多い

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

霊園掃苔―斜向かい 1
 前回紹介した北原白秋のお墓の、その斜(はす)向かい、名誉霊域通りを挟んだ向こう側に広大な墓域を持つお墓がある(やはりシンボル塔の北であるからすぐ分かる)。

府中市、多磨霊園、中島知久平墓

府中市、多磨霊園、中島知久平墓
中島知久平及び中島家墓所
間口は北原家の倍(約16m)

 中島知久平(ちくへい)(1884-1949)及び中島家のお墓だ。
 向かって左に知久平氏の墓石、右には中島家の墓石。見た目はほぼ一緒。

府中市、多磨霊園、中島知久平墓
中島知久平墓
花は極新しい

 墓所もデカいが、墓石も可也デカい。大人の背は、優に超す。

 中島知久平、と言っても殆んどの方はご存じないと思う。旧海軍軍人で、明治から昭和前期にかけての代表的政党、立憲政友会の総裁や、鉄道大臣、軍需・商工大臣を務めるなど政治家としても活動した人物であるが、やはりご存知ではないであろう。しかし、この御仁、今では「SUBARU」となった富士重工業のその前身である、中島飛行機の創設者である。といっても、中島飛行機をご存じないか―。
 では、ここで、中島飛行機について少し説明。
 中島知久平は、海軍時代から米英仏に留学するなどして飛行機の研究をし、退官後に日本初となる民間の航空機製造会社を設立した。これが、中島飛行機なのである。当時は、アジア最大、世界でも有数の飛行機メーカーだ。退官の際は、戦術上・経済上、大艦巨砲主義を捨て航空軍備を進めるべきと強調したという。
 会社は、知久平氏の郷里、群馬県尾島町に創設された「飛行機研究所」がスタート。その後太田町(尾島町も太田町も現在は太田市)に移転し「中島飛行機製作所」となり、昭和6年(1931)に「中島飛行機」となった。当時の事ゆえ、作る飛行機の殆んどは軍用機だが、数々の名機・傑作機を産んでいる。
 少々長くなりそうだが、以下にその飛行機たちをご紹介。

中島九一式戦闘機
九一式戦闘機

 九一式戦闘機(陸軍):陸軍初の単葉戦闘機且つ陸軍初のオリジナル国産戦闘機。これ以前は、フランスのニューポール24(甲式三型戦闘機)、ニューポール・ドラージュNid29(甲式四型戦闘機)、スパッドS.XIII(丙式一型戦闘機)そしてイギリスのソッピース「パップ」(ソ式三型戦闘機)など、外国機を輸入或いはライセンス生産したものばかりであった(甲式の二つは中島が生産)。なお、オリジナルとは言え、設計は招聘された二名のフランス人技師の方々によるものである。採用が昭和6年(1931)と満州事変中であり、参戦はしているが、実戦は行われなかったようだ。

中島九七式戦闘機
九七式戦闘機甲型
(飛行第59戦隊)

 九七式戦闘機(陸軍):陸軍初の低翼単葉戦闘機(その前の九五式は複葉機)。圧倒的な運動性能を発揮した、ノモンハン事件からWW2初期までの主力戦闘機。主翼前縁が直線であるのが大きな特徴で、これは後の中島製戦闘機に受け継がれて行く。
 見た目がカワイイので、もし自分が自家用機を持つなら、これそっくりのデザインにしたい。

中島一式戦闘機「隼」
一式戦闘機「隼」二型

 一式戦闘機「隼」(陸軍):WW2初期、海軍の零式艦上戦闘機と共に大活躍した。同じエンジンを搭載した零戦と異なり武装の弱さが目立ったが、敗戦まで現役で戦い、陸軍機中最高の生産機数であった(約5,700機)。小惑星「イトカワ」で有名な糸川英夫氏が設計に参加していた(上記、前縁直線翼発案者)。ただし、「イトカワ」の名は探査機「はやぶさ」の打ち上げ後に付いた名であるので、「イトカワ」に「はやぶさ」が着陸したのは偶然であるそうだ。

中島二式戦闘機「鍾馗」
二式戦闘機「鍾馗」二型丙

 二式戦闘機「鍾馗」(陸軍):格闘戦重視で運動性を優先する思想から生まれた一式戦のような「軽戦闘機」ではなく、一撃離脱戦法向きの速度・加速性・上昇力・急降下性能などを優先した「重戦闘機」。運用に不慣れな面もあって不評もあったが、優秀な迎撃戦闘機(インターセプター)として活躍。戦後米軍では、日本戦闘機中最も優れた迎撃機と評価された。
 私が小学低学年の頃、はじめて作った飛行機のプラモデルがこの「鍾馗」であった。たまたま近所の文具店にあった為で、当時は日本の戦闘機はみなゼロ戦だと思っており、特にこれを選んだわけではなかった。だが、そんな縁もあり今でも、この頭でっかちで翼の小さな、喧嘩の強いモズの様な戦闘機には一寸特別な思いがある。
 名前の「鍾馗(しょうき)」だが、これは中国の魔よけの神様。唐の玄宗皇帝の夢に現れ邪鬼を払い熱病を直したという伝説を持つ。五月人形でも有名。

中島四式戦闘機「疾風」
四式戦闘機「疾風」一型甲
報道への初公開時(飛行第73戦隊)

 四式戦闘機「疾風」(陸軍):WW2日本最優秀戦闘機とも称される名機。九七戦、「隼」、「鐘馗」と来た小山悌氏を中心とした設計チームの集大成。速度・上昇力・航続力・武装・防御力・運動性(また生産性)などが高次元でバランスした存在。同じ中島製「誉」(陸軍名はハ45)エンジンを搭載した海軍の「紫電改」ともども大戦末期に活躍した。ただ、このエンジンが設計は優秀だが当時の技術水準や資材・燃料・オイルなどの質では性能発揮が難しかった。戦後ハイオクガソリンを使用した米軍のテストで日本側のデータ624km/h(高度5,000m)をはるかに超える689km/h(高度6,000m)の最高速度を出したのは有名。
 「大東亜決戦機」と期待され、大戦後期の機体乍ら「隼」に次ぐ約3,500機が生産された。

中島夜間戦闘機「月光」
夜間戦闘機「月光」一一型甲
(レーダー搭載型)

 夜間戦闘機「月光」(海軍):元来双発の陸上戦闘機として開発されたが、性能不足により偵察機(二式陸上偵察機)として採用された。其れが後、斜め上向きまたは下向き(角度は30度程度)に固定した「斜め銃」を搭載することで大型爆撃機迎撃に威力を発揮し、夜間戦闘機として再採用されたのがこの「月光」。目標爆撃機と平行に飛行しながら防御の薄い角度から射撃した。特に爆撃機の下に潜り込み後下方から攻撃するのが効果的であったとされる。性能や信頼性は低かったが、対航空機用レーダーを機首に搭載した機体もある。
 ちなみに、斜め銃同様のものを陸軍では「上向き砲」、ドイツ軍では「シュレーゲ・ムジーク」と呼んだ。
(写真に写る方々は搭乗者及び上官、整備の方々の様にお見受けするが、詳細は不明)

 やっぱり長くなってしまったので、今回はこれまで。次回は爆撃機他と、中島知久平墓の触れていない部分を。

 2に続く

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年文月28日
(取材は7月中旬)

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航空機参照:「Keyのミリタリーなページ」さん
航空機画像出典:Wikipedia(パブリックドメイン)

*シュレーゲ・ムジーク(Schrage Music):直訳は「斜めの音楽」となるが、変な音楽の意味でジャズを揶揄した語らしい。日独似たような兵器となったが関連は無く所謂収斂進化(同じ環境に生きる異なる系統の生物が似たような姿となること。サカナと魚竜とイルカ、翼竜とトリとコウモリ等々)的な事らしい。ただ機銃の角度は大分異なりこちらは60-70度

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カメラ
 十数年ぶりにカメラを買った。この「北の離れ」でも時折触れるように、私の趣味はサイクリング&鉄塔巡りである。これに出かける際は必ずコンパクトデジタルカメラを携行し、そのカメラで撮影した画像を加工して、blogで使用しているのだが、このカメラが当然ではあるが、些か旧型。と言うか可也古いタイプであった。

 一般に、カメラの性能を比較するのに使われる画素数で言えば600万画素で、私の使用している大分低価格のスマフォ搭載のカメラの800万画素よりも少ない。そして、カメラの性能を見るには本当は画素数よりももっと重要な「撮像素子」(画像センサー、イメージセンサー)のサイズが、小さい。
 撮像素子?と多くの方はお思いであろう。これは、昔のカメラで言えばフィルムにあたる部分で、デジタルカメラのいわば中枢部である。カメラのレンズを動物の眼に例えれば、網膜に当たるのが撮像素子。幾らレンズから良い映像が入ってこようと、この撮像素子の性能が低ければキレイな写真にはならないのである。
 で、この撮像素子の性能は、一般に大きさに比例する。大きい素子の方が光を多く取り込めるからだ。一眼レフカメラなどは「フルサイズ」と呼ばれる36×24mmという大きなものが使われている。現在、普及型コンパクトデジタルカメラには一眼レフよりは大分小さい5.9×4.4mmの「1/2.3型」の撮像素子が使われているが、上記旧型の愛器は5.7×4.3mmの「1/2.5型」と更に小さいものが使われている。よって当然ながら画質が落ちる。普通に鉄塔や風景やらを撮る分には気にもならないが、めいっぱいズームした際など、やはり可也画像の粗さが気になる。遠くの鉄塔や鉄塔の建設年や高さが記された小プレートなど撮った際は特に。最近些か、不足感が募って来た。

コンパクトデジタルカメラ  ので、左程長くはない残りの人生、楽しむためにもう少し性能の良いコンデジを購入することとした。私は服でも自転車グッズでも多くはUSEDで購入するが、機械ものに関しては、すぐ致命的な故障を起こしなどして、経験上USEDには良い思い出が無いので、新品を―と考えた。のだが、これが、無い。全く無い訳ではないが、非常にコンデジの種類が少ない。久しぶりに調べて驚いた。やはり、手軽さと言う面などで完全に競合するスマフォに駆逐されてしまった様だ。そういえば最近、TVの旅番組など見ていても観光客の皆さん、コンデジなんて持ってないものね。ほとんどの方がスマフォで撮っている。あとは一部の方が一眼レフやミラーレス一眼を持っていらっしゃる感じだ。カメラは、スマフォと一眼レフなどの「本格的」カメラに完全二極化している様だ。
 そんな世の中だが、私の使い方、つまりはロードバイクで遠くへ出かけ、出先或いは途上で鉄塔その他を撮り、blogに載せる、と言う使い方では、軽く嵩張らず、そこそこ画質の良いコンパクトデジタルカメラが一番なのである。

 色々調べた結果、コンデジは機種の少ない新品で探すのは諦め、少し以前のモデル、まだコンデジがスマフォにあまり駆逐されていなかった時代、まだ豊富に機種が揃っていた時代のコンデジを中古で探すこととした。こうなると可也選択肢が生まれる。と言っても予算があるので、選び放題とならない。やっぱり私と似たような考えの方は多い様で、良い機種は中古でも結構高額なのである。
 撮像素子は、13.2×8.8mmの「1型(1インチ)」搭載のものも考えたが、これは所謂「高級コンデジ」となりUSEDでもかなり高額。それに、この辺りのメカニズムはよく分からないのだが、素子サイズが大きいものは広角側には強いが望遠側には弱いのだ。鉄塔巡りの経験上、望遠側は最低でも200mm、出来れば300mm相当(35mm換算)はほしいのだが、「1型」は私の予算内ではせいぜい100mm相当までしかないのだ。これでは、鉄塔巡りには使えない。そこで、ワンランク落とし、普及型コンデジよりはやや大型サイズ7.6×5.7mmの「1/1.7型」で探すことに―。
 結果、1/1.7型センサー搭載で、ズーム望遠側300mm相当の、最近デジカメから完全撤退してしまった某メーカーが数年前にリリースしたコンデジと相成った。画素で言えば先代の倍、1210万画素。レンズも広角側F2.8とやや明るい。私的には結構重要なサイズは、凡そ110×62×37mmで、問題なくロードバイクのトップチューブバッグに入る。重さも、約240gと先代よりやや軽い。不足は、完全お任せタイプではなく一応絞りやシャッタースピード等設定できるようにはなっているが、余りいじれるほどではない、ことぐらいか。色は、今まで使ったことのない、ブラックとした。
 この機種は、性能的にも結構評価が高く、人気もあるようでなかなか予算に合うものが見つからなかったが、幸運にもゲットできた。有難いことである。

 私はカメラは全くの素人なので、上にある解説的部分はあくまでトーシローの私流であります。カメラ購入の参考に等はせぬ様、くれぐれもご注意下さい。
 それと、今回の新規購入でカメラの性能は向上しても、それは私の写真のウデとは全く無関係でありますゆえ、その辺りご期待等なさらぬ様、ご留意下さい。お願い致します。

 という訳で、長年お世話になった先代カメラは、引退(ありがとう)。まだ使えることは使えるのだが、余りに古すぎて下取りは不可。上に書いたように撮像素子は小さいし、画素数もスマフォより少ない。でも、レンズはなかなか明るい良いレンズなので、そこいらのスマフォよりはきれいな画質で撮れる。何度か落下させてキズ・歪みなど多々目立つが、十分使える。勿体ないな。

・・・・・・・・・・・・付録・・・・・・・・・・・・

 余計なお世話だと思うのだが、若しかしたら、鉄塔撮影にはどんなカメラがよいかとお思いの方がいらっしゃるかもしれないので、ご参考までに私の考えを書いておこうと思う。

 と言っても、言えることは一つしかない。何でもいい、のである。カメラは写りさえすれば、何でもいいのだ。スマフォでも十分行けるし、コンデジでも勿論いいし、画質に拘るならば一眼レフ・ミラーレス一眼だって当然いい。
 ただ、強いて言えば、細かい部分は、幾つか言えることはある。
 一つは、上の本文にも書いたが、望遠だ。鉄塔を近くからでも遠くからでも引きの絵で撮る分には、スマフォでも全く問題はない。私の鉄塔写真にも、一部スマフォ撮影のものもある。ただ、はるか遠くにある鉄塔や、左程遠くはなくも近づくことができない鉄塔を写す場合、そして例え近くても、本体に比し大部小さな各種プレートを写す場合などは、望遠の出番となる。が、スマフォのズームは「電子ズーム(デジタルズーム)」と言って、画像の一部をコンピューター処理で拡大するものなので、どうしても画質が落ちる。粗くなるのだ。対しコンデジや一眼レフ・ミラーレス一眼は「光学ズーム」と言ってレンズを伸ばして焦点距離を変えルーペの様に画像を拡大するので、画質の劣化が無い。よって、出来れば、鉄塔撮影には光学ズームを使えるコンデジか一眼レフ・ミラーレスが望ましいと思う。そしてその光学ズームだが、私の経験からだけ言えば、広角側は引き絵用に最低28mm相当、望遠側はアップ用に最低200mm相当はあった方がよいと思う。表現の幅が大分違ってくる。
 二つ目は、大きさ・重さ。これは移動手段によるのだが、私の様に自転車+徒歩というパターンでは、小さなカメラが嬉しい。サイクリングは荷物は出来得るだけ少なく軽いのが良いし、鉄塔を辿る際自転車を置いて歩くことも結構多いので、そう感じる。まあ、鉄塔巡りにはコンデジしか使ったことが無いので比較はできないが、昔、一眼レフ(フィルムカメラ)+交換レンズ二本を自転車で持ち歩いていた経験を思い起こすと、結構しんどい。勿論画質重視で重さ・大きさなど厭わない方は、一眼レフ・ミラーレス一眼でも全く問題はないと思う。

武蔵野線15号
野寺緑地より武蔵野線15号
旧相方コンデジによる

 私如きがアドバイスなど、本当におこがましいと思うが、万に一つでも、ご参考になることがあれば、幸である。

・・・・・・・・・・・・付録・・・・・・・・・・・・

2019年文月24日

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・イラストはacworksさんによるものをイラストACからお借りしました

*先代カメラ:実はこれは買ったものではない。初めに買ったものが故障しメーカーに連絡したら、元よりの欠陥という事で上位機種に無償交換してくれたものである
*撮像素子:レンズから入ってきた光を受けて電気信号に変える部分。眼で言えば網膜に相当

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霊園掃苔―ネジバナ
 萩原朔太郎ゆかりの鉄塔を訪ねた流れで、朔太郎が憧れ、また朔太郎詩人デビューの恩人とも言える、詩人、北原白秋(1885-1942)のお墓を、後日訪ねた。
 場所は多磨霊園10区(1種2側)。シンボル塔の真北、「名誉霊域通り」に面した、大きなネムノキが目印。

府中市、多磨霊園、北原白秋墓
名誉霊域通りからネムノキ
奥方向が北

 幾つか花を付けた、この大樹の下に墓所はある。

 白秋墓は、きれいに刈り込まれた木々に囲まれる、上円下方墳

府中市、多磨霊園、北原白秋墓
北原白秋墓

 上円下方墳は、古墳時代(3世紀後半−7世紀)の終わりころ造られた古墳の一種で、名の通り、四角の上に円形を重ねた古墳。全国で6例しか知られていない珍しいタイプである。天智天皇稜(御廟山古墳)がこの形とされ、明治天皇の「伏見桃山稜」、大正天皇の「多摩稜」そして昭和天皇の「武蔵野稜」はそれに倣い、同じ上円下方墳である。
 上記何れの陵墓も、「上円」が丸っこい川原石のような「葺石(ふきいし)」で覆われているが、こちらは、小さな丸石がコンクリートに貼り付けられている。全体的に印象は、似ている。規模は、全然違うけど。
 設計は、白秋や朔太郎の本の装丁も手がけた、版画家の恩地孝四郎という。

府中市、多磨霊園、北原白秋墓
北原白秋墓

 白秋は、大正−昭和期に活躍した、言わずもがなの大詩人。その作品は知らずとも、その名や、デビュー作「邪宗門」(詩集)の名は何所かで聞いているのではなかろうか。詩は知らなくても、童謡も沢山残しているので、此方はきっと知っているはず。「あめあめ ふれふれ かあさんが」(あめふり)とか、「待ちぼうけ 待ちぼうけ」(待ちぼうけ)とか、「この道はいつか来た道」(この道)とか、「雪の降る夜は 楽しいペチカ」(ペチカ)とか、きっと歌ったこと聞いたことがおありであろう。「にほんごであそうぼ」(Eテレ)で、取り上げてそうだし。
 あまり触れられることは無いが、高村光太郎等と共に、軍国主義的・戦意高揚的な作品も残している。
 また、詩や童謡の他、短歌や民謡、校歌まで、その作品は多岐にわたり、広く人々に愛された、いわば「国民的詩人」と呼べる存在であろうと思う。

府中市、多磨霊園、北原白秋墓
北原白秋墓

 左奥には、北原家の墓が建つ。

府中市、多磨霊園、北原白秋墓
北原家墓

 白秋は昭和10年(1935)、「多磨短歌会」を結成し、歌誌「多磨」(1935-1952)を創刊している。当時の歌壇の現実主義的な傾向に対し、浪漫精神復興を唱えたものと言う。この「多磨」とは、白秋がその葬儀で弔辞を読み、その埋葬にも立ち会った、大パイセン、与謝野鉄幹の墓所が、この多磨霊園であったことに由来する。晩年、歌壇から疎外されていた鉄幹の弔い合戦の意味を込め創刊した、歌誌であるからだそうだ。

 白秋自身がこの「多磨」の地を、永眠の場として望んだのであろうか。それとも、遺族が思いを汲んでこの地を選んだのであろうか。何れにしろ、上の様な経緯を知ると、この地に墓所があるのは、偶々ではなかろう気がする(ダジャレではない)。

 墓前は、草生(む)しているが、よく見ればネジバナ(Spiranthes sinensis var. amoena Spiranthes)の大群落。可愛らしいピンクの花たちが咲き競っている。

府中市、多磨霊園、北原白秋墓
ネジバナ群落

 重い梅雨の空で、来ようか如何しようか迷ったが、天気予報では雨は無さそうであったので来てみた。しかし、空はますます暗く、時折ぽつりぽつりと来る。
 本降りにならぬうち、帰ろう。

 合掌。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年文月18日
(取材は6月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅or新小金井駅です

*北原白秋:本名、隆吉。福岡県柳川市出身とされるが、生まれたのは熊本県らしい(生後すぐに柳川に戻る)
*天智天皇稜:八角墳ともされている
*ネジバナ:ラン目ラン科ネジバナ属の多年草。芝地や明るい草地に生育する在来種。東アジアに広く分布。市街地でも左程めずらしくはないが、さりとて何処でも見かけるというものでもない。私は見つけると、ラッキーと思う

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捕鯨再開
 本当に必要な事柄であるのか、広い議論の無いままの商業捕鯨再開、の印象は拭えない。

 日本による捕鯨の再開は、実質、食糧事情によるものではない。何故再開が必要なのか、十分に説明がなされたのであろうか。領海内、EEZ(排他的経済水域)内での捕鯨とは言え、海は「地球で一つ」の一続きであるし、海の生態系の頂点にある存在の組織的狩猟は海洋生態系への影響も深く考慮すべき事柄だ。クジラは「人工生態系」に組み込まれた家畜とは異なり、野生生物である。また動物愛護・福祉の問題もある。クジラ・イルカは、言うまでもなく魚類ではない。可也高度な知能を持つ哺乳動物であるというところも、もっと考慮されてもよいのではなかろうか。少なくも、この辺りを十分に考えなければ、国際的な批判だけでなく外交への影響を招く危険性もあり得るのではと思う。
 そして、マイクロプラスチックよる汚染問題もある。海洋に漂うマイクロプラスチックがクジラに取り込まれても、それ自体は排出されるが、そこに含まれる化学物質(BPA他)やそれが吸着した化学物質(PCBやダイオキシン他)はクジラ体内に取り込まれる可能性、そしてそれが食物連鎖上位生物であるクジラ体内で濃縮される(生物濃縮)可能性は有る。

クジラのモニュメント(仙崎)

 捕鯨に関しては、様々な意見・思想があり、こうであらねばならないという事は非常に難しい。しかし、IWC脱退、商業捕鯨再開ともに、余りにも広い議論の無いままの、政府による判断と言う感は、少なくも個人的には否めない。
 産業、地域活性化、伝統文化、食文化、地球・海洋生態系保全、野生生物保護、動物愛護・福祉などなどと、捕鯨やイルカ漁に関わる事柄は多岐にわたる。こうした様々な立場や係わり方を尊重しつつ、様々な観点・視点からの国民的議論が必要ではなかろうか。日本では、捕鯨やイルカ漁の問題に、どこか民族主義的な色付けがされているような雰囲気があり、捕鯨・イルカ漁を疑問視する意見やそれらに反対する意見を、何となく言いにくい「空気」がある様にも感ずるので、猶更にそう思うのである。

2019年文月6日

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・クジラのモニュメント写真は百和さんによるものを写真ACからお借りしました

*捕鯨再開:反捕鯨国との対立の深まりから捕鯨再開は無理と日本は昨年12月IWC(国際捕鯨委員会)を脱退を決定。そして本年7月1日より商業捕鯨が31年ぶりに再開された。対象は十分な資源量があるとされるミンククジラ・イワシクジラ・ニタリクジラ。捕鯨枠を設け領海・EEZ内で行う
*捕鯨:IWC加盟国でもノルウェー、アイスランドは行っている(他にアメリカ、ロシア、デンマークの北極圏先住民)。非加盟国ではカナダ(先住民からの申請があった場合)、フィリピン、インドネシアなども行っている
*クジラのモニュメント:長門市仙崎。ここは金子みすゞの出身地。近代捕鯨発祥地とされる。嘗て捕鯨が行われ、母クジラの体内にあった胎児を供養する「鯨墓」(元禄5年(1692))がある

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大腸がん検査―マジ?
 先日、二年に一度の、大腸内視鏡検査を受けて来た。
 今回で何度目であろうか。検査三回、ポリペクトミー(ポリープ切除)一回を受けているので、五回目となるか。その五回目で、初めて女性ドクターに担当して頂いた。過去は全て、私と同じ「おじさん」ドクターであった。担当のドクターは希望があれば指名できるのだが、私の場合、ショートステイでおばあちゃんが留守の際にしか受けられないので、スケジュール優先であるから、ドクターの指名は全く考えていない。よって今までもすべて、偶々、そのドクターにやって頂くと言う形であったが、今回も同様である。
 今回、その、偶々当たったドクターが女性であった。「おじさん」ドクターしか念頭に無かったので、検査室に入って、若い女性を担当医として紹介されたとき、正直、えっ、マジ?と思ってしまった。別に担当医さんが女性であろうと男性であろうと、その辺りは全く問わないが、ちょっと恥ずかしいではないか。おじさんだって若い女性にお尻は見られたくないぞ。
内視鏡検査  然し、恥ずかしいと思ったのはその一瞬のみで、検査台に横臥し点滴(鎮静剤)されたりなぞしているうちに、そんな思いは消えてしまった。例によって、ボーっとしながらモニター画面の自分の大腸内部画像を目で追うばかりである。

 非常にスムーズな内視鏡操作で、苦痛などは全くないまま検査は終わり、ポリープは二つあったがどれも問題となるものではないとの説明を受け、安心して休憩室へ移動(鎮痛剤の作用が消えるまでベッドに寝るのだ)。これで終わりである。次回の検査は2-3年後で、と相成った。

 今回女性ドクターに検査して頂いて思ったのだが、私の様なおじさんでも、女性に大腸内視鏡検査を受けることを、若干とはいえハズイと思うのだ。逆であったらどうだ?女性が男性ドクターに大腸内視鏡検査を受けると考えれば、やはり可也の恥ずかしさがあるのではなかろうか。
 女性のがんによる死亡数で最も多いのは大腸がんである(男性は三位)。2017年には、23,347人の方が大腸がんで亡くなっている(男性は27,334人)。大腸がんは早期に発見・切除を行えば可也予後の良いがんである。しかし、女性の場合がんが進行した状態で見つかることがとても多いという。
 女性の大腸がんによる死亡数が多い理由は、様々複合的にあるのであろうが、一つには検査に関し、恥ずかしさがあるからなのではなかろうか。上でお尻は見られたくないと書いたが、実際は検査着に可也工夫がなされ、お尻を出すことなどは全くないのである。まあ、準備段階のセッティングで、多少看護師さんやドクターの手が触れるくらいはあるが。
 何れにせよ、一次検査(便潜血検査。検便)を含め、女性は、恥ずかしいというイメージが大腸がん検査にはあるのではなかろうか。で、もしそれが、女性のがんによる死亡数一位が大腸がんとなった理由の一つであるとしたら、考えなければならない問題だ。
 女性の消化器内視鏡医師さんがどれほどいらっしゃるのかは不明だが、私の経験だけからいえば少なそうだ。もっと女性ドクターが多くなると、女性も大腸がん検診を受け易くなるのではないだろうか。
 その辺りについては、女性が女性医師による大腸内視鏡検査をどの程度求めているかを調べたアンケートをネットで見付けたので、以下に内容を紹介しておきたい。

 ■南斗病院(札幌市)において大腸内視鏡検査を受けた女性110名に対するアンケート
 ・検査前:
 女性医希望56%(61名) 男性医希望5%(6名) どちらでもよい39%(43名)
 ・検査後:
 女性医希望67%(74名) 男性医希望5%(6名) どちらでもよい27%(30名)

 明らかに女性医を望む女性が多い。特に検査後に増えている。
 検査は検査前のアンケート結果に沿い、女性医希望者は女性医が、男性医希望者は男性医が担当し、どちらでもよいと答えた人は今回の私同様その日の検査担当医が担当(結果、女性医が26名、男性医が17名担当)したとある。
 検査後だが、女性医希望者の90%が次回も女性医を希望した(次回男性医希望は0%)。どちらでもよいと答えた人で女性医が担当した場合は73%が次回も女性医を希望し、男性医が担当した場合は100%が次回はどちらでもよいと回答。男性医希望者は100%が次回も男性医を希望した。その辺の詳細を下で表にしてみた。

女性医希望 どちらでもよい
女性医施行 61名 26名 87名
次回は女性医希望 55名 19名 74名
次回は男性医希望 0名 0名 0名
次回は何方でもよい 6名 7名 13名

男性医希望 どちらでもよい
男性医施行 6名 17名 23名
次回は男性医希望 6名 0名 6名
次回は女性医希望 0名 0名 0名
次回は何方でもよい 0名 17名 17名

 其々の希望の理由も記されている。女性医希望の理由は、「安心できる」19名、「恥ずかしくない・恥ずかしさが半減」12名、「何でも話せる・何でも聞ける」11名、「優しい」6名、「リラックスできる」2名で、やはり女性同士ならではの理由が多い。男性医希望の理由は、「主治医だから」3名、どちらでもよいの理由は、「きちんと検査してくれるなら性別は問わない」5名、「性別は気にならない」3名、「経験による」2名、となっている。こちらは、性別よりはドクターに対する信頼感を重視している感じで、ご尤もだ。

 腸内細菌の状態を調べることで、大腸がんの早期発見に繋げられるのではないか、と言う(大阪大などの研究チームによる)研究成果が最近発表されたそうだが、実現したら有難いことだ。検査前のトイレ往復はツライもの。内視鏡検査そのものは、ベッドの上でナスがママ、キュウリがパパ状態で左程大変ではないが、その前段階が大変だもの。それに、腸内細菌を調べるだけなら、女性の検査に対する恥ずかしさも軽減されるであろうし。

2019年水無月24日

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・イラストはねぎさんによるものをイラストACから拝借しました

参照:日本対がん協会「がん部位別統計」、日本医師会「大腸がんとは?」
アンケート:日本消化器内視鏡学会雑誌2010年第52巻12号「女性は女性医師による大腸内視鏡検査を望んでいるか」

*大腸がん予後:早期発見の場合5年生存率は90%ほどもある
*腸内細菌と大腸がん:大腸がんの進行度により増減する腸内細菌が大きく異なるという。ただしこの変化が、がん進行の原因なのか結果なのかは不明と言う

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また風邪
 懲りもせず、また風邪ネタ(これこれ)。といっても今度は私ではなくおばあちゃんだ。おばちゃんが風邪で寝込んだのである。もう十分に暖かい季節、完全に無警戒であった。

 ショートステイでおばあちゃんが留守の際は、現状私の唯一のサイクリング+鉄塔巡りの遠出の機会である。可也朝早く出掛けられるし、少々帰りが遅くなっても大丈夫だから。デイサーヴィスの場合は、おばあちゃんを送り出してから出掛け、おばあちゃんが帰る前に家に戻らねばならいので、遠乗りは難しい。
 という訳で、おばあちゃんがショートステイに出ている或る日、かなり遠くまで自転車で出掛け、見知らぬ町の見知らぬ住宅街を走っていると、背中のバックパックの中で激しいメタル音楽が鳴り始めた。スマフォが着信を知らせているのだ。若しやと思い慌てて自転車を止めスマフォ画面を見れば、やはりショートステイ先の職員さんからの電話である。何事かと思いつつ電話に出れば、おばあちゃんが昨夜転倒したというのだ。特にケガはないが、検温すると38度以上の熱があったとのこと。如何もその所為でふらつき、転倒したようだ。然し今朝は平熱に戻り、特にこれといった症状もない、とのご報告を頂いた。
 取り敢えずは様子を見、ショートステイはスケジュール通りにという事になった。

 それから数日後、おばあちゃんは家に戻ったが、やはり夜になると若干微熱があるとのことなので、翌日かかりつけ医を受診。
 肺炎、インフルエンザの可能性も排除できないので一応レントゲンと簡易検査を行うが、異常はなし。おそらくは風邪であろうとの診断だ。解熱剤、肺炎予防の抗生剤そして食欲増進を図る薬など頂き帰宅。

看病

 その後、熱やふらつきは一週間ほどで改善したが、食欲が戻らない。以前大腸がん洞不全症候群で入院した際も、インフルエンザで入院した際も、病気そのものは治癒しても食欲が戻らずに入院が長引いた経緯があるので、覚悟はしていたが、案の定だ。
 それから、食事は一口ずつスプーンで食べさせる毎日である。まずは自分の食事をササっと済ませ、後は時間を掛けておばあちゃんの食事介助。慣れない所為もあり、はなはだ疲れる。ただ、幸いデイサーヴィスには行ける状態になったのと、食べる量そのものは大分回復したのとで、少々気持ち的には楽になった。

 冬場はインフルエンザにノーウォークウイルスそして心筋梗塞、これから暑くなれば、熱中症や脳梗塞の危険性が高くなる。やっぱり高齢者の健康管理に関しては、一年中気が抜けない(はあ・・・自分の健康管理だけでも十分大変なんだけどな)。

2019年水無月14日

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・画像は、マツキヨさんによるものをイラストACからお借りしました

*ノーウォークウイルス:一般に「ノロウイルス」と呼ばれるがノロウイルスは属名であり、種名はノーウォークウイルスである。よって国際ウイルス分類委員会はメディアなどに対しノーウォークウイルスに起因する感染症に対し「ノロウイルス」を使用しない様求めている

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霊園掃苔―お隣りさん 2
 公望さんに続いては、北隣の高橋是清さんをご紹介。

府中市、多磨霊園、高橋是清
高橋是清墓所

 高橋是清(嘉永7年−昭和11年(1854-1936)は、この霊園とは縁が深く、彼が暮らしていた母屋と玄関は、長くこの霊園内にあった。
 ご存知の様に、是清は昭和11年(1936)の二・二六事件で青年将校らの襲撃を受け暗殺された。軍事予算縮小を図って、軍部の恨みを買ったとされている。その暗殺現場が、この母家二階(書斎・寝室)である。
 死後彼の土地家屋は東京市に寄贈されて、昭和16年(1941)公園となったが、母屋と玄関は昭和13年(1938)10月に、彼の墓所がある縁で多磨霊園に移築され「仁翁閣」として有料休憩所になっていたのだ(仁翁は是清の雅号)。また、彼所縁の品も展示されていたそうだ。
 のち、老朽化が進み昭和50年(1975)10月に使用停止となった「仁翁閣」は、平成5年(1993)に小金井市の「江戸東京たてもの園」に再移築され食堂および資料館となって現在に至っているが、37年に渡り、彼終焉の場所は、彼の眠る多磨霊園内にあったのだ。

府中市、多磨霊園、高橋是清 府中市、多磨霊園、高橋是清
高橋是清墓
右は「御誄」

 「誄(るい)」は、個人の生前の功徳・功績を称えた言葉。天皇より賜ったものである(「歴史が眠る多磨霊園」さん参照)。

 是清の官僚・閣僚・政治家としての履歴、そしてのその最期は世に広く知られ、公望さん同様私如きがここで書く必要もないのでカッツアイだが、彼の若い頃の履歴は、余り知られていないかもしれないので少し書かせて頂く。

 幕府の御用絵師(川村家)とその女中さん(16歳)との間に生まれた是清は、仙台藩足軽、高橋家の養子となり成長。のち選ばれて、藩命により英語習得のため元治元年(1864)、10歳で「ヘボン式」ローマ字で有名なジェームス・ヘボンの「ヘボン塾」(現明治学院)に入塾した。更に慶応3年(1967)、13歳の時、再びの藩命により此度はアメリカへ留学となった。こう選ばれているのを見ると、可也秀でた存在だったのかもしれない。でもこの辺りは、この時代ならまあまあありそうなことだ。だが然し、その先が一寸波乱万丈。
 横浜からアメリカへと出港した彼だが、アメリカ人貿易商に渡航費など着服され、着いた先ではよく分からぬままに、ホームステイ先の両親に騙されて契約書にサインしてしまい他家に売られてしまう。その後は、牧場や農場で奴隷同然の生活を強いられることとなった。そうこうするうちに、徳川幕府は崩壊し、彼の属する仙台藩も消滅。だが彼は挫けることなく、苦労の末に奴隷契約破棄に成功し、明治の世となった日本に帰り着いたのである。こういう辺り、流石と言わざるを得ない。
 それから彼は、アメリカ生活で身に付けた英語力を買われ、教官助手など努めるも、放蕩の挙句に辞職。その後、箱屋(三味線持ち。芸者さんのお付き)をやったり、英語教師や翻訳・通訳など職を転々とする。年表を見ると、1-3年ほどでどんどん転職している。その後農商務省官吏となり、33歳で初代特許局長となる。やはり、優秀だったのであろう。だが、これで落ち着くのかと思いきや、この五年後、ペルーの廃鉱山を買わされるという詐欺にあい、素寒貧となる―。
 とまあ、余り知られていない彼の前半生も、可也波乱万丈である。私は、今回記事を書くにあたって調べるうち初めて彼の若き日々を知った次第だ。貴族の御坊ちゃまで、フランス留学し大学で学士になったりしたお隣の公望さんとは、180度異なる洋行体験と言えようか。

 去り際、西園寺さん前から、シンボル塔方向を見れば、カエデの若葉が逆光に美しい。

府中市、多磨霊園、西園寺公望墓所前のカエデ
公望墓所前からカエデ
向こうはシンボル塔

 合掌。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年水無月8日
(取材は5月初旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅or新小金井駅です

*仁翁閣:村越知世著「多磨霊園」には、彼の墓所があることが彼の邸宅が霊園に移設された故(理由)であると書かれている
*ジェームス・カーティス・ヘボン(1815-1911):アメリカ人宣教師・医師。文久3年(1863)横浜にヘボン塾を開き医学と英語を教えた

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霊園掃苔―お隣りさん 1
 今回は、歴史上の有名人お二方。西園寺公望(さいおんじきんもち)と高橋是清(たかはしこれきよ)である。
 お二方、東西方向の通路を挟みお隣り同士。公望さんが南に(8区1種1側)、是清さんが北に(8区1種2側)。ただ、通路はやや広くまた両脇に木立ちもある為、30数mと大分距離の離れたお隣りさんだ。シンボル塔の建つ「名誉霊域」のすぐ東側なので、場所的には分かり易い。

 では、墓所の番号順に。まずは、国葬を賜った公望公から。

府中市、多磨霊園、西園寺公望
西園寺公望墓所

 鳥居(神明鳥居)があるのはめずらしいが、神道の形式なのだろうか。一般のお墓なら神仏習合の名残りとも取れるが、明治政府の要人であった彼の墓がそうしたものであるとは考えにくい。

 西園寺公望(嘉永2年−昭和15年(1849-1940))は、西園寺家の出ではない。生まれは同じ公家で清華家(せいがけ)の徳大寺家である。のちに、徳大寺家とは兄弟筋にあたる西園寺家の養子となり、家督を継いだのだ。

府中市、多磨霊園、西園寺公望
西園寺家墓

 公望は、戊辰戦争では総督あるいは大参謀として転戦。維新後は、明治4年(1871)にフランスに留学し、その後明治13年(1880)に帰国するまで10年に渡りフランス・ヨーロッパの文化に触れ、自由思想を身に着けた。ソルボンヌ大学では、学士にもなっている。当時、フランスの女子にモテたのだそうだが、確かにその頃の写真を見ると、なかなかのイケメンである。ノーブルな顔立ちで、適度なヤンチャ感が漂っている。貴族の家柄で、おそらくは品も良かったのであろう。イケメンで上流の御坊ちゃま、無理もない。
 彼のその後については、皆さんご存知でわざわざ私なんぞが書くのは不要と思われる。が、一つ面白いエピソードを。
 公望は、参事院義官補だった明治15年(1882)、伊藤博文(天保12年−明治42年(1841-1909))(首相になるのは三年後)が憲法調査のためヨーロッパに渡った際、随員として同行した。翌年、一行はワイマールで開かれた祝典において、最晩年の「ピアノの魔術師」元祖イケメン・ピアニスト、フランツ・リスト(1811-1886)の演奏に接する。ここで伊藤氏はリストのプレイにいたく感動し、是非彼を日本に連れ帰り音楽教師にしたいと言い始めた。しかし公望は、リストは当地ヨーロッパに於いて偉大なる存在であり且つ高齢、日本なんぞに連れては行けない、絶対無理、となんとか伊藤氏を説得することに成功した―。
 と言う話が伝わっている。役者がそろい、非常に興味深いエピソードだ。中村紘子さんの「ピアニストという蛮族がいる」の「もしリストが日本で教えていたら」の条にも紹介されており、また別に、原田光子さんの「フランツ・リストの生涯」にも紹介されている様だ。実話かどうか真偽のほどは私には分からないが、ただ、ほんの二年前までフランスに留学し、10年もの間ヨーロッパ社会で暮らした公望は、リストが如何なる存在であるかを、よく知っていた可能性は考えられる。

府中市、多磨霊園、西園寺公望
西園寺公望墓

 そんな、若き日に欧州文化を身に浴びた公望さん、お隣の是清さんとは同時代の政治家として接点があり、公望は大正2年(1913)原敬が暗殺された後、当時の蔵相であった是清を首相(第20代)に推薦したりしている。

 最後に、またお墓の形式だが、こうして見ると妙に墓石手前がすっきりしている。香炉が無いのだ。それに、花ではなく榊(サカキ)が供えられている。確かに、神道ではお線香は使わない。
 神道のお墓は、中央に建つ「棹石(さおいし)」の頂部が平ではなく尖った、ピラミッド様の四角錐になっているそうだが、よくよく見れば公望さんのお墓も、僅か乍ら頂部が尖っている。

府中市、多磨霊園、西園寺公望 府中市、多磨霊園、西園寺公望
左、棹石頂部 右、墓石前

 この形を、「角兜巾(かくときん)」と呼び、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を模しているのだそうだ。
 やはり、神道形式のお墓だった。

 では次回「2」で、是清さんをご紹介。

 合掌。

*多磨霊園用語集・索引 他

2019年水無月6日
(取材は5月初旬)<

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

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・場所は府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅or新小金井駅です

*神道のお墓:上にある様な特徴の他、「墓」の代わりに「奥津城」と彫ってあったり、名前の後に「命(みこと)」「大人(うし)」「刀自(とじ)」と彫ってある場合もあるそうだ
*サカキ:ツバキ科(またはモッコク科)サカキ属の常緑小高木。神道の神事に用いられる。ために「榊」とされた。関東以西、台湾、中国などに分布
*清華家:公家の家格で最上位の摂家次ぐ
*フランツ・リスト:ショパン、クララ・シューマンと並ぶ当時のスーパー・スター・ピアニスト。作曲家としても教育者としても活動。交響詩の創始者。また改編曲の名人でパガニーニを元ネタにした「ラ・カンパネラ」やベートーヴェンの「運命」ピアノ版等も有名。なお、これまた真偽は定かならぬが、伊藤氏はリストを四国の守にしようと言ったという記述もネット上に見られる
*リストを教師に・・・:中村紘子さんはこの話を指揮者の近衛秀麿(1898-1973)から公望より直接聞いた話としてして聞いたそうだ
*原田光子(1909-1946):大正2年(1923)ドイツに留学しピアノを学ぶ。リストやショパンまたクララ・シューマンなどクラシック音楽家に関する著作が多くある
*参事院:国会開設準備のため伊藤が設けた機関

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hikikomori
 5月末、川崎市多摩区の路上で起きた事件、報道に接していると、何となくだが、容疑者男性の行為とその引きこもり生活が微妙に結び付けられているような印象を受ける。「引きこもり」だからこんな事を行った、的な。犯行の背景が分からないので、適当なことは言えないが、事件を起こした人物が「引きこもり」であった、と言う事に過ぎない様に私としては思うのだが。

 多くの方々にとって、今回の様な犯行は理解に苦しむものである。同時に、「引きこもり」という存在もまた理解に苦しむものであろう。なので、両者を結びつけたくなるのは、分からないでもない。分からないでもないが、事件の背景の検証が進むまで、先入観で判断することは、避けたいと思う。

 引きこもりに対する社会の理解や認識は、私が引きこもっていた十代の頃に比せば、随分と進み或いは深まったと思う。「引きこもり」を単なる「怠け者」として見る様なことは、もうほぼ無いと思う。だが、やはり、多くの方々にとってはなかなか理解するのは難しい存在であろうかとも思う。

ドアー
(イメージ)

 引きこもる当人やその家族は、日々葛藤に苦しんでいるのである。何とかしなくてはならない、何とかしたい、でも出来ない―と、努力と挫折を毎日繰り返しているのである。その中でいら立ちを募らせることもあるが、どうにかして「引きこもり」から卒業しようと、希望と絶望の狭間、ぎりぎりの精神のバランスの中で藻掻いているのだ。
 今回の様な報道が続くと、当事者やその家族の方々は、ますます不安になり、追い詰められ、ますます社会との接点を奪われることになりかねない様な、そんな危惧を抱いている。

 容疑者男性を擁護するのでも、その犯行を認めるのでもない。この様な行為は、あってはならないものと強く感じている。ただ、容疑者男性が「引きこもり傾向にあった」人物と説明がなされた際、ああこれで引きこもりの人達はまた肩身が狭くなる、とそう思ったのだ。引きこもりとその行為を短絡的に関連付けるのは避けて頂きたいと、一引きこもり経験者として、切に思うのである。

 今回の事件で被害を受けた皆さま及び関係者の方々に、心よりお悔やみとお見舞いを申し上げます。

2019年水無月2日

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・画像は、写真ACより拝借しました

*引きこもり(ひきこもり):多くの国で社会問題化している(先進国に顕著と言う)。英語でも「hikikomori」。厚生労働省では「様々な要因によって社会的な参加の場面が狭まり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態」と定義している(期間は6か月以上)

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巣立ち
 4-5月の大型連休明けから、近くで、空き家となっていたお宅の解体工事が始じまることとなった。これ自体は別に問題は無く防犯・防災上から言えば好ましい事とも言えるのだが、このお宅の道路に面した古木の洞(うろ)に、シジュウカラが巣をつくり、子育ての真っ最中なのだ。連休が始まる前頃から、親鳥が巣材を運び入れ、連休開始辺りからせっせとエサを運んでいる姿に、少年時代バードウオッチャーだった私は、買い出しの行きかえりの際などに気付いていた。
 ので、或る日掲示された「解体工事のお知らせ」を見て、困ったな、と思ったのだ。巣は幹に空いたかなり深い空洞の底にあり、外からは一切分からない。このままでは、工事開始と共に撤去されてしまう。雛たちが危険である。
 そこで、工事関係者の方に気付いて頂こうと、幹の中でのシジュウカラの子育てを知らせる内容を書いた紙を木に貼ることとした。幸い、この木は工事車両の出入りや家屋の解体自体には支障のなさそうな位置にあるので、取り敢えず、残してもらえるのではないかと考えたのだ。シジュウカラの育雛期間は平均17日程度と言われるので、親がエサを運び始めた頃から換算すれば、解体工事が終了する前には巣立ちは完了するのではなかろうかと思えた。

シジュウカラ(写真AC)
シジュウカラ

 買い出しの際に様子を見ていると、工事開始で足場が組まれ周囲が飛散防止の幕で覆われても、木は残されていた。工事が終わった時間帯に中を覗くと、他の木々は全て撤去されていた。やはり、巣のある木だけを残して下さったようだ。親鳥は、工事の止んでいる時間に、頻繁にエサを運び込んでいる様子が見られた。外から木の幹を軽く叩くと、雛たちの声が聞こえてくる。スムーズに成長は進んでいる様だ。

 そうして、或る日ふと気づくと、エサを運ぶ親鳥の姿が見られない。日数を数えると、私がエサの運び入れに気付いた頃からは、17日ほどは経っている。これは、巣立ったか―。だとしたら、気を使って下さっている解体業者さんにも知らせねば不親切だ。
 という事で、工事開始の前の早朝、巣のある木に上り、ロードバイク用の強力ライトで洞の中を照らした―。すると、そこに雛の姿は無かった。ただ敷き詰められた巣材(苔や獣毛)があるのみ。―巣立ったな。
 ああ、良かった。と安心し、古い貼り紙を剥がし、新たに、無事の巣立ちの報告とご協力への感謝を述べた内容を書いた紙を貼った。そして、また新たに巣が作られるとさすがにもう工事スケジュール的にアウトなので、洞に丸めた紙を詰めた。

 古木は、巣立ちの数日後伐採された。子供の頃から何十年もずっと見掛けてきた木であるので、少々寂しい。

2019年皐月23日

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・画像は、写真ACより拝借しました

*シジュウカラ(Parus minor):スズメ目シジュウカラ科。四十雀と書く。日本、東アジアに広く分布。日本ではほぼ全国の平地から山地に生息し、市街でもっとも普通に見かける鳥の一つ。巣材集め・抱卵は主にメスが行い給餌はオス・メスで行う。冬場は同じシジュウカラ科のコガラやエナガまたヤマガラなどと混群を形成することがある

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

少飛の塔
 以前、武蔵村山市内にある「東京陸軍航空学校跡」を紹介した。

武蔵村山市、東京陸軍航空学校正門跡
東京陸軍航空学校正門跡

 その中で、学校跡地の住宅地にある「揺籃之地」碑が建立される前にあった慰霊碑についても触れた。

武蔵村山市、東京陸軍航空学校跡、揺籃之地碑
東京陸軍航空学校跡
揺籃之地碑

 その碑は現在、同じ武蔵村山市の禅昌寺に移されているのだが、そのお寺と慰霊碑を訪ねることができたので、今回ご紹介したい。

 「岸清山禅昌寺」(標高134.9m)は、恵山和尚により正長元年(1428)に開山されたとされる臨済宗の禅寺。狭山丘陵「野山北・六道山公園」の麓、人気の里山民家に近い地にある(二百数十mの距離)。文禄3年(1594)創建の観音堂は、狭山三十三観音第24番札所。
 「揺籃之地」碑からは、北西に4.5qほどの場所である。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺
禅昌寺山門

 駐車場隅にロードバイクを止め、傍らのカエデの若葉が美しい山門を潜る。入って左手にまだ新しさを感じる本堂(1971年建築)。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺
禅昌寺本堂

 この本堂前に立てば、更にその左手、晩春の昼下がりの陽に花崗岩が眩く白い五輪塔、「少飛の塔」が建っている。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
少飛の塔

 塔左にその名を刻んだ石柱、塔右には石灯籠がそれぞれに建つ。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
石柱

 その石柱と灯籠の裏には、それぞれに功徳主が刻まれる。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔 武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
左、石柱 右、灯籠

 何方も日付は「平成二庚午年十月十日」で、功徳主は、石柱は「少飛会」、灯籠は「東航職員」となっている。
 また、塔周囲を囲む「玉垣」には、各期の奉納を示す文字が刻まれる。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
玉垣

 東京陸軍航空学校については、以前の記事(123)に詳細を書いたのでそちらをご覧頂きたいが、ごく簡単に説明すると、当初、熊谷の陸軍飛行学校に仮設されていたものを昭和13年(1938)9月に当時の村山村(現武蔵村山市)に移転したもので、名称は昭和18年(1943)に「東京陸軍少年飛行兵学校」と改められた。よって「少飛」なのである。15歳前後の少年たちがこの学校で一年間学び、その後操縦・整備・通信の各分野に分かれ上級学校(二年間)に進み、卒業後各飛行部隊に配属されたのだ。
 陸軍少年飛行兵学校は、東京・大津・大分の三校があり、このうち東京は、第6期から第20期までが在籍していた。

 塔背後の石壁には、右に「建立の趣旨」のブロンズ板、左に「なき友の御霊に捧ぐ」の石板がはめ込まれている。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
建立の趣旨

 以下に文面を写す。

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 建立の趣旨

 陸軍少年飛行兵制度は、昭和九年二月、第一期生の所沢
陸軍飛行学校にはじまる。
 陸軍航空の拡充要請により、昭和十三年、村山に東京陸軍
航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少
年飛行兵学校が、また急速養成のため各地に教育隊が設立され、
終戦時の第二十期生まで四万六千の若鷲が巣立った。
 陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として支那事変、ノモンハン
事件を経て大東亜戦争に参加。日本の危機存亡に際して、北に南にと
空の第一線に身命を賭して活躍した。そひて四百五十余柱の特別攻撃
隊員をはじめ、四千五百余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に
散華した。いまだ十代の紅顔の少年たちであった。
 昭和三十八年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し、
以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび、
永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとにこの地に供養塔
をこんりゅうすることとなった。
 遷座にあたり、英霊の遺勲を偲び、久遠の平和を祈るものである。

 平成二年十月十日

 陸軍少年飛行兵学校出身者一同
 少飛会

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 これによれば、46,000の卒業生の内4,500余名が戦死し、その内の450余名が特攻隊員として戦死している。卒業生中のおよそ10名に一人が亡くなり、更にその内の10名に一人は特別攻撃により亡くなったという事だ。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
なき友の御霊に捧ぐ

 以下に文面を写す。

 ・・・・・・・・・・・・

 なき友の御霊に捧ぐ

 下枯れの武蔵野の一角、静かに頭をめぐら
せば、晩秋の陽の中に今や崩れ果てようとす
る礎石を求めることができる。
 この地は、ノモンハン、日華の両事変、太
平洋戦争を通じて、若鷲の名の下に活躍した
陸軍少年飛行兵揺籃の地である。
 昭和九年春二月、日本陸軍に誕生した少年
飛行兵の養成は、所沢陸軍飛行学校に続き、
昭和十三年九月この地に設けられた東京陸軍
航空学校を中心として本格的に行われた。
 思えば十有二年の短い歴史の中に、第二十
期生まで、約二万八千の紅顔の少年たちが、情
熱のすべてを祖国に捧げ、炎熱の朝に酷寒の
夕に、孜々として猛訓練に励み、黙々として
古賢の道を学びつゝ、ひたすら死に通ずる大
空へと巣立っていった。
 そして大陸の空に、南溟の果てに、また北
辺の孤島に、雄戦激斗し、赫々の武勲を誇っ
たが、その多くは祖国の繁栄と同胞の平和を
念じつゝ、莞爾として悠久の大義に殉じてい
ったのである。
 戦火絶えてすでに十八年、今は還らぬ友の
御霊を慰め、その栄誉と武勲を永く後世に傳
えるとともに、眞の平和を祈念して、こゝに
出身生存者相はかり、その浄財を数多くの賛
同者の御支援により、陸軍少年飛行兵戦没者
慰霊の碑を建立する。

昭和三十八年十一月二十四日

陸軍少年飛行兵出身生存者一同

(孜々(しし):熱心に努め励むさま 溟(めい):広い海)

 ・・・・・・・・・・・・

 陸軍少年飛行兵学校卒業生45,000の内、所沢陸軍飛行学校第1期生から東京陸軍少年飛行兵学校第20期生まで、つまり昭和9年(1934)から昭和20年(1945)の12年間で約28,000名が卒業したという事であろうか。正門跡碑の裏には「第六期生から第二十期生まで二万八千名」とあったが、どちらが正しいのであろう。
 何れにしろ、この文面、書き取っていて切なくなる。戦争も戦死も、それを美化するものでも賛美するものでも全くないが、嘗ての少年たちの想いや、残った方達の想いなどイメージすると、胸に迫るものがある。文面最後にある「生存者」の文字が、友を失った想いや、生き残ったことへの想いなど、そのすべてを語っている様にも感じられる。

 等あれこれ思いつつ、ふと、塔左隣の観音堂壁面を見ると、このようなものが掛けられていた。

武蔵村山市、岸清山禅昌寺、少飛の塔
東京陸軍少年飛行兵学校 配置図

 学校についての簡潔な説明と、当時の学校施設の詳細が示された配置図である。これによると、三つ一組になった生徒舎・生徒自習室が計5棟あり、各棟1から15までの番号が三つずつ振られている。揺籃之地碑の場所には4・5・6番の棟があったようだ。
 この配置図、場所的には塔訪問者に非常に見やすい絶好の位置ではあるが、戦国時代(文禄年間)創建のお堂に設置して大丈夫なのであろうか。キズでも付いたら大変と思うのだが。

 なお、塔真後ろの壁面には、小さな黒い石板がはめ込まれ、

 やすらかに ねむれとぞ思う 君のため
 いのちささげし ますらをのとも

の歌が刻まれている。「皇后陛下御歌」とある。書は、昭和天皇侍従でエッセイストでもあった、入江相政(1905-1985)氏だ。香淳皇后(1924-1989)(昭和天皇皇后)の有名な歌で、昭和12年11月30日に戦没者に向け詠んだもの。「ますらを」とは、立派な男子の意。なお、ここにある「君」は友達を指すものではく、天皇を指すものであろうと思われる。

 合掌

2019年皐月21日
(取材は4月下旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・場所は武蔵村山市岸、最寄り駅はJR八高線箱根ヶ崎駅です

*狭山三十三観音霊場:天明8年(1788)に設定されたとされる。所沢市の第1番金剰院から同じく所沢市の第33番明善院まで、東村山市・東大和市・武蔵村山市・瑞穂町・入間市を巡る
*五輪塔:平安時代の密教起源とされる供養塔・墓等に使われる塔。下から、地輪、水輪、火輪、風輪、空輪
*玉垣:浄域を囲う垣で石製。木や竹の場合は「瑞垣・斎垣(みずがき・いがき)」と言うらしい

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着用・非着用
 警察庁によると、2014-2018年の間、自転車事故により亡くなった方の数は2,553名で、その致死率を見るとヘルメット着用者の0.24に対し、ヘルメット非着用者は0.57と、約2.4倍になるとのこである。また、死亡事故の約61%を占める頭部損傷に絞って見ると、これにより無くなった方1,555名の内、ヘルメット着用者44%に対し、非着用者は62%と、凡そ1.4倍になっている。
 自転車愛好者で、サイクリングを趣味とする私にはいろいろと気になるデータである。
 まず、ヘルメット着用の場合事故による致死率が半分以下になること、そして自転車事故で死亡に至る場合のおよそ6割が頭部損傷が原因であること。これがまず気になる。やはり、頭を護ることは重要なのだ。当然と言えば当然だが、改めてそう思わせる数字である(全死傷者中ヘルメット着用率は8.5-9%)。

 私は、近所への買い出しの時などは別として、サイクリングに出かける際は必ず頭部保護具を着用している。以前にも書いたが、「カスク(casque)」である。私の場合、ロードバイク乗りではあるがレースの様に高速で集団走行する訳ではなく、電動アシストとは言えママチャリにも追い抜かれるくらいののんびり走行なので現時点ではこれで充分と考えている。首が弱いので、なるべく軽くしたいのである(私のは〇ッペルギャンガー社製で重量185g)。

八王子市−町田市、戦車道路
カスク着用
冬の戦車道路−尾根緑道にて

 しかし、だ。警察庁のデータで一番気になったのは、頭部損傷の場合ヘルメット着用でも44%と半数に近い方が亡くなっているという事だ。非着用者よりは少ないが、パーセンテージの差は18。想定外に少ない差である。この辺り何を意味しているのか、素人なので深く読み取ることは難しいが、一つ言えるのは、まずは事故に遭わない、事故を起こさないように十分留意するのが第一、と言う事である。
 余りに当然の事で、ここに改めて書くのも恥ずかしいが、やはり、そういう事なのである。
 やっている方は左程見かけないが、事故防止のためには手信号もしっかりやろうと考えている。ただ、自転車の場合右折・左折にしろ停止にしろ、信号を出す際は片手乗りになるのでやり難い。狭くて交通量の多い道路ではこの片手となった瞬間がコワイ。自転車の走る道路左端部分は荒れて凸凹の場合が多いし、マンホールや排水口の蓋などもある。ロードバイクは高速走行時は安定感抜群だが、右左折・停止のため徐行になった場合などは逆に可也不安定になる乗り物なのだ。道交法的に言えば、手信号による合図より安全運転義務の方が優先されるであろうから、アブナイと感じる場合は手信号はやらなくても良いのだろうけれど、その辺りの判断は、微妙だ。

 そうそう、事故と言えば、万が一サイクリングなどで事故に遭い、意識を失った場合など考慮して、財布に緊急連絡先を書いたメモを入れることにした。スマフォはロックしてあるからそうし際には役に立たないので、非常ににアナログな方式にした。もし自分が事故を目撃し倒れた方の連絡先など知ろうと思ったら、まずは財布を見るだろうと思ったのだ。多くの方が財布には健康保険証や免許証が入っているであろうから(自分もそうだし)。ただ、それでご本人の素性は知れてもお家が留守の場合はどうする?ので、ケアマネジャーさんやお隣さん或いは従姉妹・従兄弟など、要介護者や猫がいるなどの事情を分かってくれている人の連絡先を書いて、財布に入れることとしたのである。

 何れにしろ、周囲の方を巻き込まないこと含め、事故の無い様に、気を付けよう。

2019年皐月3日

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*カスク:フランス語でヘルメットの事。1990年代初めくらいまでは自転車レースでも使用されていた

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訴え
 私は、自他ともに認める冷血人間で、泣くことなどほぼないのだが、先日のTVでの会見は涙なくしては見ておれなかった。4月19日に池袋で起きた12人の方が死傷した交通事故で、奥さんとお子さんを亡くされた方の会見である。現実に向き合い、世に向けてこうした事故の二度と起こらぬ様にと訴えるお姿はご立派であった。あの訴えが、世に響くことを願うばかりである。

高齢運転者標識 こうした事故が起こるたび、高齢ドライヴァー叩きの様なことになるが、多くのご高齢の方が、それぞれに訳あって運転を続けているのである。誰もが何時かは老い、判断力も運動能力も低下するのである。此処は是非、自動車の側で対応する方向に、更なる加速をお願いしたい。自動運転でも自動ブレーキでも、あるいは隣り合うアクセルとブレーキを完全に離しアクセルは手で操作する(オートバイクや飛行機はそうだ)などなど、出来得ることを速やかに進めて頂きたいと切に願う。

 免許の返納については、判断力の低下で事故を起こす可能性のあるような方は、免許を自主返納をするという判断力も低下していることが考えられるので、ご家族・親族また友人・知人の皆さんで話し合うのはもとより、(75歳など)一定年齢に達したら、認知機能検査だけではなく、学科・実技試験の受験を義務付け不合格なら免許返納とするなども必要と思う。たとえ認知機能が問題のないレベルであっても、高齢になれば例外なく身体の種々能力は低下するのだから。試験に落ちれば、誰でも返納に納得出来るのではなかろうか。

 私は、人間の子供には正直余り「愛」を持たない冷血人間である。だが、こうした交通事故或いはブロック塀の倒壊(或いは環境破壊、搾取、犯罪、テロ、紛争・戦争)などで、子供達が犠牲となることのない様な世にしたいと思う、そうした「愛」は、多少は持ち合わせているのだ。

2019年卯月27日

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・画像は、イラストACより拝借しました

*手でアクセル操作:そうしたシステムも後付できる。ハンドルは片手操作となるが旋回ノブが付けられるので問題ないそうだ

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社会化期
 我が家の猫「巴」はその育った環境が分かっている。巴の母である「式部」も、長老の「ミケさん」も野良さんだったので、どの様な環境下で育ったのかは、知る由もない。

 巴が生まれたのは、東北の震災の年。野良さんだった母猫の式部が、元居たお宅に勝手に入り込み、テレビの裏で巴たちを産んだのである。それ切っ掛けで、もともと猫屋敷であったそのお宅で、面倒を見てもらうことになったのだ。その辺りの経緯は、私もある程度知っている。その後、飼い主さんに頼まれ母娘の避妊手術の段取りなど付けたりもした。
 詰まり、巴は生まれた時から人と接し、また母親・兄弟姉妹と共に暮らし育ったのだ。母の式部もミケさんも、普通に考えれば、母親・兄弟姉妹と共に暮らし育ったのだと思うが、人とは接していないであろう。

巴(2)
巴(二代目)
お散歩アピールが一番激しい

 その所為かどうかは、何とも言えないが、この三頭を見ていると、式部とミケさんは人見知りが可也目立つが、巴にはほとんどないのだ。
 一般に、成長過程で社会化期と呼ばれる時期に、様々な環境に接したり様々な経験を積んで社会性が形成されるとされているが、猫でそれは、生後2-9週くらいの頃である。この頃に、親兄弟姉妹などと暮らし、また他のネコやイヌまたヒトと接することによりそれらとの付き合い方を学ぶのだ。その結果、人間の社会に適応しやすい性格になるとされている。逆に社会化期にこうした環境から引き離され、親兄弟姉妹や他のネコやイヌまたヒトと接する経験なく過ごすと、新たな事柄や環境また他のネコやイヌ、ヒト等の新たな存在を受け入れにくい性格になり易いとされる。そうなると、ストレスがたまったり過度な反応で攻撃的になったりもすることが多くなる。
 個々の性格と言うものもあるので、断言はできないが、巴の人懐こさと他の二頭の人見知りを見ていると、この社会化期の過ごし方の違いが影響しているのかな、などと思う事がある。

 なんで、こんな話をしたかと言えば、犬猫販売に関わる「動物愛護法」で、社会性の育つこの社会化期を迎える前に出荷・販売することを禁じる「8週齢規制」というのがあるのに、日本ではこれが守られてこなかったからだ。何故守られないかと言えば、子犬・子猫を展示販売するのに、なるべく幼くて「かわいい」方が売れるので、業界の反対が強かったからである。売れるならそれでいいじゃん、と言う声もあるかもしれないが、社会性の確立される前に売り渡されることにより、懐かないとか噛むとか鳴いてウルサイとか、所謂「問題行動」が生じやすくなり、結果、飼育放棄や遺棄また殺処分などが増える大きな要因となっていると考えられるのだ。また「かわいい」がゆえに、十分な知識・準備、心構えもないままの衝動買いを誘発し、それがひいては遺棄や虐待に結びつく場合もあるのではなかろうかとも推測される。これは、ヒトにもイヌ・ネコにも、非常に不幸なことではないか。

 そんななかで、やっと「8週齢規制」が実質的なものになりつつあるようなのだ。背景には、あまり幼い子犬・子猫を販売することを問題視する社会的な傾向が生まれてきたことがあるらしいが、販売大手企業が8週齢販売の自主規制を表明した(1月)ことで、販売業界全体や販売業者協会などが8週齢規制受け入れへ動き出したというのである。8週齢規制はアメリカ、ドイツ、イギリス、オーストラリア、スウェーデン(ネコは12週)などで導入され一般的なようだ。動物愛護・福祉先進国に日本も少しだけ、追いつきつつあると言えるだろうか。
 まあ、8週齢云々の前に生体販売自体に問題は無いのか、ということも当然ある。イヌやネコは子供のうちに「買う」方が多いと思うが、里親を求めている存在は幾らもいるし、大人になった個体でも案外馴染んでくれるものである。我が家のネコ連中は、巴は6歳、式部は8歳、ミケさんなど15歳の時から一緒に暮らすようになったが、もう昔から居るのではなかろうかと錯覚を起こすほど馴染んでくれている(と私は思っているのだが)。

 私は、「ペット」と呼ばれる動物たちの専門家でもプロでもないが、猫―貰い猫・捨て猫・迷い猫・保護猫―とは小学低学年頃からほぼ途切れることなく共に暮らして来たので、そうした暮らしが如何いうものであるかはよく知っているつもりだ(分かっている、とは言い切れない)。何ものにも代えがたいほどの楽しさは確かにある。あるが、それと同時に何ものにも例えにくいほどの大変さも伴うのだ。
 まず、お金がかかる。どんなに健康な子でも、食費含め、予防接種や血液検査・健康診断またノミ・ダニ予防などで年に数万円はかかる。ペットフード協会の2015年データでは、平均余命15.4歳の猫で一頭当たりの生涯飼育コスト67万円と出ているそうだが、それはおそらく正しいと思う。思うが、これはまず最低限の額だ。完全室内飼いであっても、病気もケガもなく一年を過ごすことはまずない。特に年齢を重ねれば、歯周病や猫には多い慢性腎不全など出てくる場合が多い。一度通院すれば最低でも数千円の治療費はかかるし、万を超す場合も普通の事である。慢性的な病気であれば、この出費がずっと続くのだ。手術・入院ともなれば、数十万円かかることも珍しくは無い。保険に入れば補償(5-8割)されるが、当然保険料がいる。あと、病気やケガをするだけでなく、ぬいぐるみではないので、うんちもすればおしっこもするもするし、時にはおう吐もする。おう吐となれば、所構わずである(或る意味これが一番困る)。食欲が無ければあの手この手で何とか食べさせ、暖かくなれば毎日にようにブラッシングし、此方のケガ防止のためにも爪切りをし、ストレスがたまらぬよう毎日一度か二度の散歩にも連れ出す(これは我が家の場合だが)、等々、等々・・・。ああ、数え上げればキリがない。私は子育て経験はないが介護はしているので、見聞や実経験から類推・想像すると、子育てと介護がずっと続いてゆくような感じが近いであろうか。
 私は赤ん坊の頃からずっと犬や猫と生活して来、彼ら彼女らには友達或いは兄弟姉妹的な感覚を持っているので、そうした存在を「買う・売る」と言う行為が正直ピンと来ない。と言って、出会いの形はいろいろあって良いとも思うので、「買う・売る」という行為を必ずしも否定するものではない。しかし、買う場合はネットで調べるなり経験者に聞くなりして十分に予備的知識を持ち、また「引き取る」と言う選択肢を含め十分に時間を掛けて検討して後の事として頂きたいし、売る側も、共に暮らす大変さ含め、十分に事前説明(法律で義務付けられている)し、少なくも衝動買いを煽るようなことだけは無いようにして頂きたい、とその様に思うのだ。

 8週齢だ何だ、生体販売はどうなのだ、などと言って、すべては結局ヒトの都合なので、申し訳なく思うのだが、でも、飼育放棄や殺処分等と言う言葉を見ない様な、社会にしたいではないか。

2019年卯月10日

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*社会化期:ネコは3-9週、2-9週、2-7週、3-7週など、イヌは3-12週、3-16週、3-14週、4-13週などそれぞれ諸説ある。なお当然個体差もある

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

牛群と橋
 多摩川中流域、昭島市福島町(ふくじまちょう)の川沿い道路を自転車で走っていると、このような地形が目に留まる(標高75.0m)。

昭島市、牛群地形
昭島市の多摩川

 河道(堤防間の区域)の一部が広範囲に岩剥き出しとなり、流れの中にも多くの岩の高まりが凸凹と露出している。可也異様な光景である。一部をズームすると、この様だ。

昭島市、牛群地形
川中の岩々

 何に見えるであろうか。この地形の研究者の一人、東京学芸大学の小泉武栄さんは「牛の群れが泳いでいる」様にも見えるとして「牛群地形」と1996年に「多摩のあゆみ」(83号)の中でそう名付けられた。この名称は結構一般化しているようなので、拙ブログ内でも、踏襲させて頂く。
 ただし、小泉さんがこう名付けたのは、ここから1qほど上流、JR八高線多摩川橋梁下流側付近の更に規模の大きな地形を指したものである(こちらの論文に詳しい)。でも、ここも基本的には同じ地形である。
 この地形は、約160万年前の地層―平山砂層―が露出し、それが川水の侵食を受けて形成されたもの。

昭島市、牛群地形
流れと岩々

 露出しているのは第四紀更新世初頭と可也古い地層だし、見た目も如何にも古いものの様に見える。が然し、実は可也新しくできたものなのである。地形そのものは1960年頃から生まれたものだ。
 多摩川では、昔から砂利採取が行われていたが(下河原線や南武線、西武多摩川線、京王相模原線などは元は砂利運搬用鉄道だ)、特に1950年代から1960年代にかけての戦後復興・高度成長期は可也大規模に行われていた(今は全面採取禁止)。その採取の結果、礫層に覆われていたその下の平山砂層(半固結の砂層)が露出し、川の侵食を受け牛群地形が形成されたのである。現れ始めは1960年頃、その後1970年代に可也発達したが、1980年代以降は更なる侵食により縮小傾向が続いてる様だ。

牛群地形周辺航空写真(1947)
昭和22年(1947)10月24日米軍撮影

牛群地形周辺航空写真(1974)
昭和49年(1974)12月26日国土地理院撮影

牛群地形周辺航空写真(2001)
平成13年(2001)11月14日国土地理院撮影
多摩大橋下流牛群地形周辺航空写真

 上(1947年)は大規模砂利採取が行われる前。未だ、牛群地形らしきものは出現していない。中(1974年)は大規模砂利採取禁止後。牛群地形は発達し、岩の露出も広範囲だ。下(2001年)は八高線付近の牛群を大規模に損壊させたという2001年9月11日の15号と10月18日の21号の台風による洪水後のものだが、それの影響もあったのか大分縮小している様に見える。
 季節の違いによる水量変化を考慮しても、上−中−下と出現前−盛期−衰退と言った流れが大まかに見えるように思う。

 世界的に見ても、めずらしい地形なのだそうだが、上記の洪水や、河川改修により現在は消滅の運命の只中にある。
 河川改修については、おおまかに言って以下の理由に拠る様だ。
 川の北岸(左岸。昭島市側)は土丹層(硬質な粘土層。牛群地形はこれに含まれるのだろう)が露出していので、澪すじ(みおすじ。主に水が流れる一番深い部分)が固定化されて浸食が進み、洪水流が北岸側に集中し危険である。南岸(右岸。八王子市側)は北岸とは逆に樹林化して洪水流下能力の低下が起きている。よって、南岸の樹木群を伐採・伐根してオギ原など再生し、同時に深く削られた北岸側を埋めて(土砂の自然な堆積を期待ともある)川の流れを中央によせ、また浅く幅広い流れに変え、全体に洪水の安全なる流下を図る―。
 確かに、冒頭の画像の様に北岸(手前)は岩畳だが、南岸は打って変わって樹木が繁っていた。上の航空写真を比較しても、1947年−1974年−2001年の間に、大分南岸(画像手前)は樹林地化し、流れも北岸へと偏っている様に見える。大量の砂利・砂採取という人の手が加わった結果生まれた地形である故、人の手で元に戻す必要性があるという事であろうか。
 ただ、治水の必要性は理解できるが、この奇景が消えてしまうのは、個人的には少々と言うか可也惜しい感は、否めない。尚、「牛群」の中心であった八高線橋梁付近の地形は、改修によりもう既に2015年に消滅している。

 海から43qの、消えゆく運命のこの牛群地形から上流に眼を転ずると、赤いアーチが見える。

昭島市、牛群地形
海から43km

 多摩大橋(標高約86.0m)だ。

昭島市−八王子市、多摩大橋
多摩大橋

 多摩大橋は2007年開通。全長約461m、中央アーチ部は約151m。「7径間連続PC床版鋼箱桁主径間補剛アーチ橋」と言うのだそうだ。
 専門的な事はさっぱりだが、この橋、何と言っても赤いアーチが美しい。嘗て日野台地の端っこから遠く望み、興味を惹かれた。ついにやって来た。
 渡ろう。

昭島市−八王子市、多摩大橋
渡った

 画像をご覧の通り、私が建つ場所と赤いアーチの架かる部分とは高低差がある。と言うか、よく見ると別の橋なのだ。私の立っているのが旧橋、つまり1965年架橋の古い多摩大橋(約450m。旧称福島橋))、アーチのあるのが新しい多摩大橋ということだ。新橋を建設すると同時に旧橋を補強・歩道設置し一緒に使い、全面架け替えは行わないという、節約タイプの橋なのである。
 旧橋は歩道の設置より二車線が一車線に減った。新橋は下流側(旧橋側)に歩道がない。歩道は広いが、どうせなら自転車レーンを作ってほしかった。
 私が惹かれたアーチだが、この約150mと言う主径間(アーチの端と端の距離)には意味があり、アーチのない部分の径間(橋脚間の距離)約50mの三倍にすることで、下を流れる多摩川の澪すじに橋脚が来ないようにするための長さなのだそうだ。
 橋は、隅田川の永代橋や清洲橋また駒形橋などを設計した田中豊氏(1888-1964)を記念し設けられ、優れた橋梁などに対し表彰を行う「土木学会田中賞」を平成19年(2007)を受賞している。

昭島市−八王子市、多摩大橋
美しい

 橋の事は全く持って無知蒙昧だが、賞を受けているというのは、素人の私にも納得である。この美しさ、さもありなん、である。

 対岸、橋の南詰で橋標をゲットし、

昭島市−八王子市、多摩大橋
橋標(南詰)

八王子市の「粟ノ須緑の広場」(標高84.4m)から、たまらんにゃ〜会長と橋を望む。

八王子市、粟ノ須緑の広場
会長、あれが多摩大橋です

 新しき橋と、太古の岩々。両者を共に視界に捉えらえられるのも、今だけか。

2019年卯月2日
(取材は3月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

参照:「多摩川河床に発達する「牛群地形」の形成と保護に関する研究」(2005年 徳竹真人・若林優子)、「多摩川中流域の河床に発達する「牛群地形」について その1 分布と出現の経緯」(2007年 小泉武栄・徳竹真人)、「多摩大橋周辺における治水と環境の調和した川づくり」(関東地方整備局 京浜河川事務所 河川環境課)

*多摩川の砂利採取:古くは江戸の頃から行われていたが本格化するのは明治以降。大正になると多くの砂利輸送鉄道が敷設される。しかし護岸破壊、農業・漁業への影響他河川環境へ悪影響を及ぼしたため昭和40年(1965)に多摩川全域で採取禁止となった。なお下河原線は中央線の支線で今は廃線
*平山砂層:1961年8月ここから「アキシマクジラ」の化石が発見された
*径間:広義には差し渡しの距離。橋の場合隣り合う橋脚の前面から前面までの距離
*右岸左岸:上流から下流に向いて右が右岸左が左岸

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

アピール
 不覚である。また風邪で寝込んでしまった。
 1月に、数十年ぶりで風邪で寝込んだと書いたが、またしてもである。今年になって三か月の間に二度風邪で寝込むこととなるとは―、不覚。全くの油断だ。面目ない。

 昼間は、介護や猫の世話、或いは家事全般で忙しく、ゆっくりPCで調べ物をしたりブログ記事を書いたり、音楽を聴いたりは出来ないので、ついつい寝る前―おばあちゃんと猫達が寝静まった頃―、シャワー上がりにPCの前で夜更かしをしてしまう。これがイカン。わっかっちゃいるけど、止められぬ。イヤフォン装着でメタルやクラシックを爆音で聴くなど、おばあちゃんが起きているときは出来ない。何かあったらすぐ対応しなければならぬので、常に自室にいながらも、おばあちゃんの居るリヴィングの方に注意を払わねばならないので、耳は塞げないのである。
 とは言っても、PCの前での夜更かしなど今までもずっとやっていたことだ。何故この冬に限って、こうも風邪をひくのだ。やはりこれは、免疫力の低下を疑う。ストレスか睡眠不足か、或いは栄養不足、はたまた加齢によるものか。理由は定かならぬが、疑わざるを得ない。
 加齢は如何ともしがたいので、もう少し食べるものに気を付けて、しっかり睡眠をとることを心掛けよう。食事も、段々食べられるものが限られてきたおばあちゃんに何を如何食べてもらうか、という事に意識と時間と労力が割かれ(ホント大変)、自分の食べるものなどは、どうしても二の次になってしまうからね。

 何れにせよ、今年二度目の風邪ダウンで、体調の不良が続き家事も猫のお世話も手抜きがち。でも、此方のそんな事情などお構いなく、猫たちはマイペースでお散歩のアピール。暖かくなって来たから当然だ。ので、多少熱によるふらつきは覚えながらも、致し方なくお散歩(スギ花粉も多いから出たくないけど)。

式部(2) 巴(2)
左、式部(二代目) 右、巴(二代目)

 式部と巴の母娘は、同じようにアスファルトの上でゴロン。ハーネス装着のまま、私の脚元でころころと気持ちよさそうに転がる。特にころころ好きの式部のハーネスは、路面で大分擦れてしまった。

 交通事故の記憶が残るのか、道路には決して出たがらぬミケさんは、お外に行かずにパトロール。あれほど嫌がっていたハーネスにも、今ではすっかり慣れ、すたすた歩くよ。

ミケさん
ミケさん

 今回は、片頭痛対策を早めにとった所為か或いは多少免疫が出来た所為か、1月の時ほど長引かず、ダウンと言える状態からは三日ほどで復帰できた。でも体力の低下はやはり隠せぬ。介護のためにもお散歩のためにも、早く回復させねば。冷蔵庫も空っぽだし。

2019年弥生13日

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*免疫力:一般に免疫力低下の要因は、睡眠不足・加齢・ストレス・栄養不足・激しい運動などとされる。また免疫力の多くは腸にかかっているともいわれるので、食べるものは重要なのだ

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No(ノー)
 2月24日の、沖縄県名護市辺野古への普天間飛行場移設に伴う埋め立ての是非を問う県民投票、結果は「No」と出た。ご承知の様に、この結果に法的拘束力はない。日本政府もアメリカ政府も、この結果を受けて移設を止めることは無いであろう。しかし、と言って無視できる結果でもないであろう。総理は、ご理解頂けるよう対話を続けたい、と仰っている様だが、対話の相手は県民ではなくてアメリカ政府であってほしい。
 普天間飛行場閉鎖・返還+辺野古移設=100、と言うのが今までのコースだが、これを、普天間飛行場閉鎖・返還=100、で完結できるよう、なんとかアメリカに理解を求めるのが、日本政府のお仕事とと思うのだが。
 しかし、そう日本政府を動かすには、やはり沖縄県以外の市民も、この問題を自分の問題として捉えていかなければならないのであろう。

辺野古の海
辺野古の海

 此度の「No」、この県民投票の結果が公然と無視されるようなら、沖縄の人々から「琉球国復興」「沖縄独立」などの声が出てくるかもしれない。WW2で捨て石にされ、その後も基地を押し付けられて来たことを思えば、その様な考えを持つ県民の方がいらしても不思議ではない。実際、沖縄独立を考えておられる方は多くは無いようであるが、もしそういう動きがあるなら、私は応援したい気持ちだ(まあ、私の応援など無意味だろうけれど)。
 「琉球民族独立総合研究学会(ACSILs)」によると、県民投票で支持を得、議会決議を受け知事が独立宣言し、それを国連が承認すれば独立は可能なのだそうだ(東京新聞記事より)。
 参考までに、ウィキペディアで調べた県民の方の独立に対する意識に関するアンケート結果を二つ挙げておく。

 ■琉球新報 2011年11月実施
 県民意識調査「今後の日本における沖縄の立場(状況)について」
 現行通り日本の一地域(県) 61.8%
 特別区(自治州など) 15.3%
 独立 4.4%

 ■ACSILs共同代表友知政樹沖縄国際大学教授 2013年12月実施
 県内大学生に対する「あなたは沖縄独立についてどう思いますか?」アンケート
 反対 44%
 賛成 6%
 分からない 49%
 (回答140人)

 数年前のアンケートでは「独立」は数%の支持しかないが、でも仮に沖縄の方々がこの後独立を望むようになったとしたら、そうさせたのは日本政府或いは「本土」の人々、つまりは我々、という事となろう。よって、私なんぞが浅はかに「琉球国復興応援」「沖縄独立応援」等と言うのは、今までさんざん知らん顔してきたのに無責任極まる、という事になるかもしれない。しかしだ、日米両政府の一連の動きを見ていると、応援したくなるのが、正直なところである。

2019年如月28日

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・画像は、写真ACより拝借しました

*琉球民族独立総合研究会:2013年に創立された、琉球の独立を前提として研究・討論・実践を行う学会組織。すべての軍事基地の撤廃を目指す
*琉球独立:WW2後アメリカ占領下で独立運動があった

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戦跡 調布飛行場―WW2後
 飛行場は、米陸軍飛行部隊が一次駐屯したのち昭和36年(1961)に閉鎖され、昭和48年(1973)3月に返還された。最終回に、WW2後及びこの返還後の調布飛行場を見てみよう。

調布飛行場航空写真(2017)
現在の調布飛行場航空写真(2017)
平成29年(2017)8月24日国土地理院撮影
南端に味スタ、左上に多磨霊園、右に国立天文台
味スタ南のグラウンドは日本郵船施設

 下部斜めの線が現甲州街道、黄玉が公開中の三基の掩体壕、緑玉は私有地の非公開掩体壕、そして水玉が門柱(白玉は後述するヴューポイント)。現飛行場は右端部分だけとなって旧飛行場に比べ大分狭くなり、いろいろと西側エリアに施設が増えている。しかし、それらを含む輪郭は旧飛行場時代と左程変わらないのが分かる。
 輪郭はあまり変わらなくも、前にも触れた様に旧陸軍時代の面影は余りない。現滑走路は旧滑走路と凡そ同じ辺りにあるが、その北端および南端・南東部分は2000年4月に開園した「都立武蔵野の森公園」である(南北はプロムナードで繋がる)。

調布市、調布飛行場
調布飛行場管制塔とターミナル(標高41.8m)
調布飛行場遊具ひろばより

 現在調布飛行場には、伊豆諸島の大島等とを結ぶ定期便が一日20便離着陸し、他に事業用や自家用の軽飛行機も利用している。管制塔左手にはエプロンがあり、小型機が多く駐機しているのが見られる(小型機墜落事故を記憶の方も多いであろう)。

調布市、調布飛行場
管制塔とエプロン(駐機場)

 更に左手には「プロペラカフェ」があり、「空港用地立入カード」に記入後空港内(カフェ)に入ることもできる。

 北に向かい、武蔵野の森公園北地区へ入ればそこに幾つかある土盛りから飛行場を望むことができる。

府中市、武蔵野の森公園北地区
武蔵野の森公園北地区(標高44.1m)

 「修景池」越しに飛行場を見ている。画像右手方向、滑走路西側隣接部分は野球場やサッカー場が並ぶ「調布基地跡地運動広場」で、南端に接し味の素スタジアムがある。そして更にその西側、米軍時代に水耕農園となっていた一帯は、東京外国語大学や警察大学校また総合病院(榊原記念病院)や福祉施設などが並ぶ。南端付近には味スタに隣接する形で、武蔵野の森総合スポーツプラザがある。これらと西武多摩川線との間に挟まれた部分は、一般の住宅地となっている。

府中市、東京外国語学校
東京外国語大学(TUFS)(標高44.6m)
平成12年(2000)に北区西ヶ原から移転

調布市、東京スタジアム(味の素スタジアム)、マラソン折り返し点碑
東京スタジアム(味の素スタジアム)
平成13年(2001)開業
FC東京と東京ヴェルディ1969のホーム

 味スタ(2003年味の素KKが命名権を得「味の素スタジアム」となっている)手前左は、昭和39年(1964)の東京オリンピックにおけるマラソンの折返し地点に建てられた記念碑(標高42.5m)。2020年のオリンピックではマラソンコースは23区内だが、前回は甲州街道がマラソン(と競歩)のコースで、その折返し地点がここだったのだ。碑は昭和40年(1965)に建立された。

 米軍「調布基地」時代の飛行場を見てみよう。

調布飛行場航空写真(1948)
調布水耕農園期の調布飛行場航空写真(1948)
昭和23年(1948)7月26日米軍撮影
左下斜めの線は現在の旧甲州街道
飛行場に航空機の姿は無い

 これは、当初駐留していた米陸軍偵察飛行隊が他の飛行場へ移動し、「補助飛行場」となった当時の調布飛行場。西側エリアに、1946年12月完成した実用施設としては世界初の「調布水耕農園」(126ha)が整然と並んでいるが見える。この辺りが、現在学校や病院等となっているエリアだ。農園は、極東米軍基地のために水と化学肥料のみで野菜栽培を行った。当時の日本の農場では下肥(しもごえ。人糞尿利用の肥料)が使用され、寄生虫汚染等の心配があったのだ。植え付けは地元の人々が行い、出荷は機密保持のため巣鴨プリズン収容の戦犯が行っていたそうだ(国立薬品衛生研究所 小史 第7号)。
 後に、この水耕農園(1961年6月閉鎖)を含む飛行場西側部分は、1964年の東京オリンピックの為に返還された代々木の米軍住宅「ワシントンハイツ」の代替住宅「関東村住宅地区」となり(1963年12月移転)、220棟、880戸の住宅の他、小中学校、診療所、銀行、教会、劇場などが建設され、約4,500人の米軍人・家族、日本人従業員が居住する「町」となった。下が、その時代の飛行場の姿。

調布飛行場航空写真(1966)
関東村住宅地区期の調布飛行場航空写真(1966)
昭和41年(1966)11月4日国土地理院撮影
飛行場南西縁に現甲州街道ができている
飛行場に二十数機の航空機が見える

 これを見ると、関東村は水耕農園より大分広く、今の福祉施設やスポーツプラザ、また運動広場や味スタの敷地一部も含まれている。この関東村は、飛行場地区に少し遅れ昭和49年(1974)12月に返還された。
 前回見た、無蓋型掩体壕が多く並んでいた西武多摩川線との間は農地になっているが、上の航空写真のオリジナルをアップすると畑の中に幾つか有蓋掩体壕が残っているのが見える。

 現在の飛行場へ戻ろう。
 武蔵野の森公園北地区、災害時には水源ともなる修景池の東側には、滑走路北端近くに飛行場を見るにもってこいの、その名も「展望の丘」がある。

三鷹市、武蔵野の森公園、展望の丘
展望の丘から滑走路を見る
右奥は味スタ

 今の飛行場は、民間機のみの使用で、上で少し触れた様に伊豆大島・新島・神津島・三宅島への定期便、新中央航空の「ドルニエ Do228」が日々発着している。その他にも、小型機やヘリコプターの発着が見られ、この丘には航空機ファンの姿も多い。
 長閑な展望であるが、嘗てこの飛行場ではWW2末期、特別攻撃隊(特攻隊)の訓練も行われ、特攻隊出撃基地である知覧への中継地ともなった。飛行場周囲には、北に中島飛行機三鷹研究所(現在は国際基督教大学(ICU)他)、西に陸軍燃料廠(現在は自衛隊基地他)が置かれ、また軍需工場やその従業員住宅なども周辺には多くあった。何度も繰り返すが、この多摩の地も、戦争に染まった時代があり、その遺構・痕跡は、今もこうして暮らしの場にあるのである。

三鷹市、調布飛行場
天文台付近から飛行場

 上は、飛行場東、国立天文台付近の国分寺崖線上(標高58.0m)から飛行場方向の眺め。右の横長な白いドーム屋根は、航空機関連企業ジャムコの整備工場格納庫。格納庫向こうのマンション風建造物は東京外語大。左の窓が七つ横に並ぶ大きな建物は、調布航空宇宙センター飛行場分室(JAXA)。飛行場のある崖下(立川面)から階段でこの崖上(武蔵野面)へ上がるのは少々難儀だが(階段下は標高41.1m)、ここから見れば、飛行場が市街地に存在することがお分かり頂けると思う。富士山など西方の山々も見えるので、ヴューポイントとしてお薦めだ。
 WW2中の陸軍時代に話が戻ってしまうが、このポイントの右手にある三鷹市立第7中学校のその崖下付近には「射だ」(だは土偏に乃木)があった。「射だ」とは射撃の的を掛ける盛り土だが、国分寺崖線を利用しここで戦闘機の機銃の照準・弾道調整をしたと思われる。

調布飛行場航空写真、射だ(1944)
調布飛行場の「射だ」
昭和19年(1944)1月30日陸軍撮影

 しゃもじ型の白い部分が「射だ」。黄玉左横は大沢1・2号掩体壕、白玉辺りがヴューポイント。
 また、この左手方向崖線続きの南東に飛行場防衛のための高射砲陣地があった。昭和18年(1943)9月東部1903部隊(昭和20年から高射砲112部隊)が配置され、八八式7センチ野戦高射砲6問が設置されていた。現在、4基の高射砲台座と空襲の際の戦死者慰霊碑が保育所敷地内などにある。

 四回に渡り調布飛行場を紹介してきたが、鉄道駅からも近くてアクセスしやすく、また大沢白糸台の掩体壕は間近に見学が可能で、訪ねやすく接し易い戦跡である。勿論私の様にサイクリングを兼ねて訪問するのも、非常にお薦めである。遺構と共に記憶まで消しされがちな今の世の中であるが、是非身近に存在する歴史の刻印に触れて頂きたいと、そう思う次第である。

 最後に話は全く変わるが、実は、この調布飛行場北端付近(武蔵野の森公園北地区)、2020年東京オリンピックの、自転車ロードレース(男子/女子)のスタート地点なのだ。競技場内での観戦はチケットが高すぎて無理だが、街中で競技が行われるものは、只である。マラソン、競歩そしてロードレース等は、沿道に居さえすれば、ロハ(只を分解してロハ)で観られるのである。この内、マラソンと競歩は都内で行われるので私には難しいが、ロードレースは、府中市・三鷹市・小金井市・稲城市・多摩市・八王子市と多摩地域を走るのだ(ゴールは静岡県の富士スピードウェイ)。これは行ける。観に行ける。自分もロードバイクで観戦に出かければ、気分もアガルぞ。

2019年如月24日
(取材は2018年2月下旬、12月末・2019年2月初・中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は府中市・調布市・三鷹市、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅・白糸台駅、京王線飛田給駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

参考・引用:知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、現地解説板、「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」他各市HP等関連ウェブサイト

*武蔵野の森公園:災害時の大規模救出・救助活動の拠点と位置付けられている
*東京外国語大学:安政4年(1857)開校の蕃所調所(ばんしょしらべしょ)を起源とする。明治6年(1873)に東京外国語学校となる(建学)が後に東京商業学校(現一橋大学)に統合。明治30年(1897)高等商業学校(以前の東京商業学校)附属の外国語学校として再興(創立)。明治32年(1899)に東京外国語学校として分離される(独立)
*ワシントンハイツ:移転費用は日本持ち。1964年の東京オリンピック選手村となったのち現在跡地は代々木公園、代々木競技場など
*高射砲陣地:見学は可能だが、平日の9:00-17:00のみで要予約である

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戦跡 調布飛行場―掩体壕 2
 前回の大沢1号・2号掩体壕は、ともに飛行場北東端付近にあるが、残り二つは旧飛行場敷地の南西端付近にある。

 まずはその一つ、白糸台掩体壕(府中市白糸台)を紹介。
 この掩体壕は、飛行場南西やや離れ現甲州街道の南側にある(当時の甲州街道であった旧甲州街道よりは北)。此方の特徴は、何と言っても上から見下ろすことができ、大沢の二基では難しかった形の把握がし易いことである。階段等使い、甲州街道が西武多摩川線を越える「車返跨線橋(くるまがえしこせんきょう)」に上がれば、眼下に全貌が望めるのだ。

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕(標高46.6m)
正面方向(西側)

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕
横から

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕
後方から

 嘗ては私有地内の倉庫として使用されていたそうだが、平和都市宣言20周年の平成18年(2006)に公有地化が決定され、現在は府中市指定文化財(史跡)として保存されている。
 地上からも見学してみよう。こちらの正面は、西側だ。

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕
正面

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕
後部

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕
後部を内側から

府中市、白糸台掩体壕
白糸台掩体壕
天蓋の内側

府中市、白糸台掩体壕
解説板

 天蓋内部、筋状の部分は補修跡の様に見えるが、白い部分は白華現象(エフロレッセンス。セメント中の炭酸カルシウムなどが表面に出て白く残る現象)なのかもしれない。
 なお掩体壕正面前の広場の一角には、「広島の被爆樹木二世」のアオギリが植えられている。

府中市、白糸台掩体壕、被爆アオギリ二世
被爆アオギリ二世
平和都市宣言30周年記念の植樹

 爆心地から1,300mの旧広島逓信局中庭で被爆し、爆心地側の幹半部が抉られながらも芽吹いた親木の、その種子から育ったものだそうだ(親木は平和記念公園に今もある)。

 府中市HPによると、白糸台掩体壕は、入口幅12.3m、高さ3.7m、奥行12mとある。周囲の住宅との比で、おおよそのスケールはお分かり頂けると思うが、可也デカい。しかし、飛燕一型は全幅12.0m、全長8.74m(丙)・8.94m(丁)、全高3.7mなので、格納したらほぼ余裕のないパツンパツン状態である。屋根の厚さは約57cmと可也あるが、こちらもセメントペーストの少ない粗悪なコンクリートであるという。なお砂利敷きの内部地面には排水溝や集水桝・浸透桝が設置され、実際の使用を窺わせるタイヤ跡も残されているそうだ。

 今まで見て来た、大沢と白糸台とこれら三基は見学可能だが、もう一基は旧飛行場敷地と西武多摩川線との間に当たる私有地にあり(府中市朝日町)、当然乍ら見学は不可。住宅のお庭や畑越しに、その一部を遠望することができるのみだ。

府中市、調布飛行場朝日町掩体壕
朝日町掩体壕(標高46.3m)
正面(北側)

府中市、調布飛行場朝日町掩体壕
朝日町掩体壕
西側
畑が宅地化すれば見えなくなるな

府中市、調布飛行場朝日町掩体壕
朝日町掩体壕
西側アップ

 家々の狭間に埋もれ、且つ後ろ三分の一は倉庫内、と言った状態で、そうと知らねばまず気付くまい。北側を向いた正面からのものを見れば、きれいにブロックで塞がれた入口に設けられた窓の曇りガラスの向こうに、積み置かれたライトが透け見えている。掩体壕内も倉庫となっている様だ。他のサイトさんで以前の写真を拝見すると、天蓋は完全に草に覆われているようなので、今は大分状況は良くなったようである。雨漏り対策か、トタン板で天蓋の一部が覆われている。
 個人所有なので難しいとは思うが、こちらも文化財指定できないものであろうか。(当掩体壕は一般住宅に囲まれています。ご訪問の際は、ご近隣への配慮をお願い致します)
 しかし、草が取り払われ状況は良くなったと書いたが、掩体壕は元来草で覆われていたらしい。白糸台掩体壕の解説板によると、有蓋掩体壕の作り方は以下の様であったそうだ。

 1:土饅頭を作り固める
 2:上に紙・筵(むしろ)等を敷き、柱・梁は板枠で型をとる
 3:鉄筋を置きコンクリートを流し込む
 4:固まったら内部の土を掘り出し上に被せ草木で偽装する

 ここからイメージすると、天蓋には実際草が生えていたであろう様に思われる。なので、朝日町掩体壕の以前の姿が、若しかしたら実際の姿に近かったのかもしれない。

 これ等掩体壕と飛行場は誘導路で結ばれ、主に人力で飛行機をロープで曳いて移動した。
 古航空写真で見ると、掩体壕が多く集まるのは飛行場南西端付近で、そこには飛行場と繋がる誘導路と共に、白糸台と朝日町に残るのものを含め掩体壕が幾つも見える。

調布飛行場航空写真、掩体壕誘導路(1944)
調布飛行場掩体壕誘導路アップ
昭和19年(1944)1月30日陸軍撮影

 中央緩くカーヴする斜めの線は西武多摩川線、左側縦斜めの線は多磨霊園参道、下左を斜めに横切るのは当時の甲州街道(現在の旧甲州街道)である。
 現在残る四基の様な屋根付き型はコンクリートの覆いの上に土を被せ草木で偽装したが、屋根なし型は木や草で作った覆いが被せてあった。

府中市、白糸台掩体壕
無蓋掩体壕
(白糸台解説板より)

 無蓋型は、単独型と長屋の様な連結型がある。「コ」の字の単独型は、飛行場南西縁付近に沢山見える。

調布飛行場航空写真、単独型無蓋掩体壕(1944)
昭和19年(1944)1月30日陸軍撮影
調布飛行場単独型無蓋掩体壕群
中央左が朝日町の左隅が白糸台の掩体壕

 無蓋型も、この単独のものは有蓋型同様入口はランダムに彼方此方を向いている。

 連結型は、飛行場東側に多く並んでいる。これを含めると、無蓋型は全部で約100基となったという。

調布飛行場航空写真、連結型無蓋掩体壕(1944)
昭和19年(1944)1月30日陸軍撮影
調布飛行場連結型無蓋型掩体壕群

 少し斜めのL字に並ぶハーモニカのマウスピースのようなものが連結型掩体壕、その右側に見える丸い建造物は戦闘指揮所、そのすぐ下の建物が244戦隊本部、その右が大格納庫。
 然し、誘導路も無蓋型も結構目立つ。裸で飛行場に駐機してあるよりは良いかもしれないが、無蓋型などこれで空襲から護るのに効果はどれ程あったのであろうか。それに掩体壕と民家が近接して、これでは民家まで危険に曝されるではないか。

 航空写真では結構多い様に見える掩体壕だが、数は足りなかったようで、入りきらない分の飛行機は、周辺の「分散秘匿地区」に隠された。すぐ西隣の多磨霊園や浅間山(せんげんやま)などが、その秘匿地区にあたる。

 幸いにも、掩体壕が作られたその理由であるところの「本土決戦」も「ダウンフォール作戦」も行われずに済み、四つの掩体壕のみが、調布飛行場周辺に残された。実際、両作戦がもし行われていたならば、日本と連合軍と問わずどれほどの生命が失われていたであろう。海上封鎖で兵糧攻めされ、農地に薬剤が散布され、更にNBC兵器(核・生物・化学兵器)が使用され、それに対し人命無視の特別攻撃が昼夜の別なく繰り返され、人類史上最悪の戦闘となっていたであろう。考えるだにオソロシイ。国家、軍あるいは企業とその種は問わず、組織と言うものはその組織自体を護ろうとするものだ。いざとなれば、組織を構成する「個」の存在など、眼中には無くなるのである。これは肝に銘じておかねばならぬ。
 然しだ、僅か四基とはいえ、戦争を今に伝える掩体壕が現在まで残されたのは奇跡とも言える。有蓋型のみ残ったという事からすれば、無蓋型と異なり倉庫や納屋として利用でき、また簡単には撤去できなかったからであろうか。

 次回は、今の調布飛行場を紹介。

2019年如月22日
(取材は2018年2月下旬、12月末・2019年2月初・中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は府中市・調布市・三鷹市、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅・白糸台駅、京王線飛田給駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

参考・引用:知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、現地解説板、「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」他各市HP等関連ウェブサイト

*白糸台掩体壕:平成20年に史跡指定され整備を経て24年から公開されている。普段は入れないが毎年11月3日には内部も公開される。旧所有者の方が補修を重ねていたそうで、保存状態はもっとも良い様に見える

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

戦跡 調布飛行場―掩体壕 1
 首都防空の為に激戦を繰り広げた調布飛行場の戦闘機たちだが、常に敵機迎撃をしていた訳ではない。なぜなら、政府・軍部上層は、当時、日本本土に上陸するアメリカ軍を迎え撃ち戦局の逆転を図る「本土決戦」という無謀なる作戦を本気で考えており(沖縄はその時間稼ぎの捨て石にされたのだ)、そのため残り少ない航空機を温存する必要があったのである。実際、連合軍が本土上陸作戦「ダウンフォール(滅亡)作戦」を実行していたなら、幾ら航空機を温存したとて、核爆弾や化学兵器(大量破壊兵器)の使用も検討されていたというこの作戦で、文字通り「滅亡」となったやも知れぬ。
 何れにしろ、本土決戦に備え航空機を空襲から護る為(本当は航空機が空襲から護るのだが)「掩体壕(えんたいごう)」なるものが、飛行場周辺に、屋根付きのコンクリート製有蓋掩体壕約30基、屋根なしの土塁型無蓋掩体壕約30基が、昭和19年(1944)頃より作られた。現在は、有蓋掩体壕が四基のみ、飛行場周辺に残っている。市民の犠牲など省みず、自らと自らを支える体制を護ることしか考えなかった政府・軍部の姿をある種象徴する存在とも言えるこの四つの掩体壕を、二回に分けご紹介したいと思う。
 まず一回目は、飛行場東に隣接した二つの掩体壕、大沢1号と2号(三鷹市大沢)を、番号順に。

 入口に整備中の飛燕のイラストが描かれた此方が、大沢1号掩体壕。

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
大沢1号掩体壕(標高41.8m)
正面(南側)

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
大沢1号掩体壕
西側

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
大沢1号掩体壕
東側

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
大沢1号掩体壕
北側

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
1号解説板

 蒲鉾様の断面で、飛行機の形に合せ後部に向かって全体に窄(すぼ)んでいるのはお分かり頂けるであろう。

 入口天蓋部分の断面を見れば、小石ばかりで相当コンクリート(セメント・水・砂・砂利を混ぜたもの)の質が悪いのは、素人目にも伝わる。戦争末期の物資欠乏の度合いも、ここから想像できる。ところどころ鉄筋の端が覗いているが、白く塗られているのは保存のためなのであろうか。

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
1号入口天蓋縁
下部の滑らかな部分は補修跡

 傍らには、掩体壕と格納された飛燕のブロンズ模型がある。以前機首部分が切断される被害があった為か、監視カメラがしっかりと睨んでいる。

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕
大沢1号と飛燕模型

 「たま発!倶楽部」のたまらんにゃ〜会長と、一緒に見学(監視カメラにばっちり写っちゃったな。ハズカシイ)。

三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕 三鷹市、調布飛行場大沢1号掩体壕、たまらんにゃ〜会長
たまらんにゃ〜会長と1号を見学

 1号の北西に140mほど行けば、大沢2号掩体壕がある。
 此方は1号とは逆に、入口は北面を向く。次回紹介のものも含め、掩体壕の多くは異なる方向を向いているが、これはなるべく空襲による被害を分散させる目的であったのであろうか。最も防御の脆弱な入口が同方向を向いていたら、爆弾や機銃掃射で一気に被害を受けてしまう可能性があるが、ランダムに彼方此方に入口が向いていれば、そういった被害は受け難くなるであろうと思うのだ。如何なのであろう。

三鷹市、調布飛行場大沢2号掩体壕
大沢2号掩体壕(標高43.1m)
北側から

三鷹市、調布飛行場大沢2号掩体壕
大沢2号掩体壕
東側から

三鷹市、調布飛行場大沢2号掩体壕
大沢2号掩体壕
南側から
塞がれていない

三鷹市、調布飛行場大沢2号掩体壕
大沢2号掩体壕
展望台から

三鷹市、調布飛行場大沢2号掩体壕
2号解説板

 展望台は左手方向の飛行場を見る為のものなので、残念ながら掩体壕は木立に遮られ良くは見えない。

 こちら2号も1号同様、コンクリートの粗悪さはよく分かる。

三鷹市、調布飛行場大沢2号掩体壕
2号入口天蓋縁

 セメントペースト(セメントと水を練ったもの)が少なく、砂利を固めただけの様にも見える。

 これら掩体壕は、主に陸軍と建設会社が建設したが、近隣の植木屋さんや学徒も動員されたと解説板にはある。

 現在は、上で見て来たように整備された公園の中に同様整備され保存されている掩体壕だが、昔は如何であったのであろう。

調布飛行場航空写真大沢1号・2号掩体壕
米軍基地時代の大沢1号・2号
昭和41年(1966)11月4日国土地理院撮影

 写真は、調布飛行場が米軍管理下にあり「関東村住宅地区及び補助飛行場」と呼ばれていた時代のものだが、飛行場北東隅に隣接する畑の中に、1号と2号、二つの掩体壕の姿が確認できる。詳細は不明だが、農具入れなど納屋的に使用されていたのかもしれない。

 次回「2」は、南部に残る掩体壕二つを紹介。

2019年如月20日
(取材は2018年2月下旬、12月末・2019年2月初・中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は府中市・調布市・三鷹市、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅・白糸台駅、京王線飛田給駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

参考・引用:知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、現地解説板、「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」他各市HP等関連ウェブサイト

*ダウンフォール作戦:昭和20年(1945)11月予定の九州上陸「オリンピック作戦」と翌年春予定の関東上陸「コロネット作戦」に分かれる。英米のみで日本降伏が可能となったため中止された
*本土決戦:防衛作戦としては「決号作戦」と呼ばれた
*たま発!倶楽部:多摩の魅力を発信する人々の集い。多摩生まれ、多摩育ちの猫、たまらんにゃ〜が会長

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

戦跡 調布飛行場―門柱、飛燕
 中央フリーウェイ
 調布基地を追い越し 山に向かって行けば
 黄昏がフロントグラスを 染めて広がる♪
 (荒井由実「14番目の月」収録「中央フリーウェイ」より)

でお馴染みの調布基地こと、調布飛行場。ここもまた、市街地に残る戦跡なのである。
 主にWW2中、陸軍航空隊が使用していた飛行場だが、戦後すぐに米軍に接収され、舗装滑走路は飛行場として、未舗装部分は水耕農園のちに住宅として使用されていた時代があった。その頃「調布基地」の俗称があった様である。私も子供の頃、この呼び方を聞いたような・・・気もする。「14番目の月」リリースは1976年で、実は基地返還後のものであり、「調布基地」は事実に沿わないのだが、若しかしたら、「中央フリーウェイ」は返還前のエピソードをモチーフにした曲なのかもしれない。1954年生まれの彼女であるから、基地時代に10代後半はかかり、十分あり得ることではある。或いは、若き日のユーミンと、横田立川の米軍基地は可也深い関係であったから、「基地」へのこだわりがあり、敢えてこの名を使ったのかも知れぬ。
 何れにしろ、調布飛行場の正式名は調布基地ではなく、戦前は「東亰調布飛行場」、現在は「東京都調布飛行場」なのである。
 飛行場は、調布市、府中市そして三鷹市にまたがる。今は大半が調布市に含まれるが、戦跡として見ると、現在の面積389,546平方mに対し総面積は1,650,000平方mほど(約50万坪)もあり、西側は現在の府中市に含まれる部分も可也多い。飛行場付近は三市が入り組み、境界は複雑で分かり辛い所も多くある。

三鷹市、調布飛行場門柱
調布飛行場門柱(標高40.4m)

三鷹市、調布飛行場門柱
調布飛行場門柱
左側は、武蔵野の森公園南地区軟式野球・ソフトボール場

三鷹市、調布飛行場門柱
門柱解説板

 当時は、「東部第百八部隊」の表札が掛けられていたそうだ。

三鷹市、調布飛行場門柱 三鷹市、調布飛行場門柱
調布飛行場門柱
向かって右側門柱
「東東」といたずらされている

 飛行場の名称は、今も昔も変化は左程ないが、現在その姿はすっかり変わり、戦前及び戦中の面影は希薄である。陸軍時代は長さ1,000m・幅80mのメイン滑走路と、それに交わる横風用の長さ675m・幅80mのサブ滑走路があったが、現在はどちらも撤去され、駐機場(エプロン)なども含めほぼ全面的に新設されている(現滑走路は長さ800m・幅30m。着陸帯は長さ920m・幅60m)。が、門柱だけは当時のままである。
 他には、飛行場への水の浸入を防ぐため及び周壁代わりにするため外周に造られた水路が北側と東側に一部残る程度。

三鷹市、調布飛行場外周水路
飛行場外周水路
門柱横付近(左手が飛行場方向)

府中市、調布飛行場外周水路
飛行場外周水路
滑走路北端付近(右手が飛行場方向)

 当時の水路は底幅1m、平均深さ1.8m、多摩川から採取された玉石が張られ、野川まで繋がっていたそうだ。

調布飛行場航空写真(1945)
WW2末期の調布飛行場航空写真(1945)
昭和20年(1945)1月6日陸軍撮影
左上は多磨霊園、下斜めの線は当時の甲州街道
飛行場右に東京天文台
滑走路周辺に航空機の姿がある

 調布飛行場は、昭和13年(1938)に、陸軍省・内務省から東京府に飛行場建設の申し入れが行われ、翌14年建設が決定し、三鷹村・調布町・多磨村(現府中市)の農地・山林・家屋等が強制的に買収され、東京府・逓信省航空部・陸軍省の予算で工事も開始された(4月地鎮祭挙行)。基礎工事には、府中刑務所受刑者や中学生が動員された。竣功は太平洋戦争開戦の16年の、春4月である。当初は軍民共用飛行場で、予備国際空港及び航空試験飛行場・陸軍訓練飛行場としての使用のはずであったが、開港後の8月以降は陸軍が全面使用し、首都防空の拠点となった。
 配備されたのは飛行第144戦隊で、中島九七式戦闘機を装備していたが、昭和17年(1942)に編成替えで飛行第244戦隊と改称された(通称が東部第108部隊)。翌年には、アスペクト比の大きな細長い主翼と水冷エンジン装備のスマートなシルエットが特徴の、川崎三式戦闘機「飛燕」(キ61)に機種が変わった(保有約40-50機)。調布飛行場の戦闘機、としてはこの「飛燕」が最も有名である。

川崎三式戦闘機「飛燕」
三式戦闘機「飛燕」一型
米軍によるテスト中かな

 ドイツのダイムラー・ベンツDB601エンジンを国産化したハ40(海軍ではアツタ21型)を搭載した、WW2中では唯一の水冷エンジン搭載戦闘機。同エンジン搭載のメッサーシュミットBf109(下画像)に似るが、機体設計(土井武夫氏)はオリジナルである。

メッサーシュミットBf109E
メッサーシュミットBf109E-3
WW2初期の主力E型(撮影:1940年)

 ただ、その水冷エンジンは当時の日本の工業力・技術力では手に余り、また日本機は空冷エンジン搭載のものが大半で整備も不慣れであった為、特に前線ではエンジントラブルが多発し飛燕の評判は余りよくはなかった。しかし本機から派生した五式戦闘機の高性能を見れば、元の機体設計の優秀さは見て取れる。

川崎五式戦闘機 川崎三式戦闘機「飛燕」
右、三式戦闘機「飛燕」一型丙(244戦隊所属機)
左、五式戦闘機一型(111戦隊所属機)

 問題を抱えながらも、零式艦上戦闘機、一式戦闘機「隼」、そして四式戦闘機「疾風」に次ぎ第四位となる約3,000機が生産された飛燕であるが、戦争末期には、飛燕二型に搭載予定の新型水冷エンジン(ハ140。ハ40の改良型)の生産の遅れから、エンジン未装の機体が続出したため、二型の機体に空冷エンジン(ハ112II)を搭載し、運動性能や稼働性の向上した川崎五式戦闘機(キ100)(上左)に転用された(ハ140搭載の飛燕二型も生産された)。昭和20年(1945)4月に、この思いの外の高性能を発揮した五式戦闘機が制式化されると、調布飛行場の244戦隊も翌月には全機が改変された。

 244戦隊の主な迎撃対象は、ボーイングB-29「スーパーフォートレス」爆撃機であるが、ターボチャージャー(排気タービン)と与圧室を備え高高度性能の非常に高い同機への攻撃は困難を極め、日本の戦闘機としては高空性能の高い飛燕でも、B-29の侵入する10,000m付近の高度では浮いているのが精いっぱいといった状況で、待ち伏せして一撃を加えれば一気に高度を失い第二撃を行うことはほぼ不可能であった。防弾板や機銃の一部など外して軽量化しても、高高度での迎撃は難しく、体当たり攻撃も行われた。昭和20年4月7日に、調布に墜落したB-29の搭乗員がパラシュートで降下後住民に暴行を受け死亡した件を以前に書いたが、そのB-29は、まさにこの調布飛行場所属飛燕の体当たり攻撃により墜落したものである。

B-29「スーパーフォートレス」
B-29「スーパーフォートレス」
(WW2後の空軍所属機)

 苦戦しながらも、B-29撃墜73機・撃破92機、グラマンF6F「ヘルキャット」艦上戦闘機撃墜10機・撃破2機、カーチス・ライトSB2C「ヘルダイヴァー」艦上爆撃機撃墜1機(ウィキペディア)と、多くの戦果を挙げ、昭和20年5月に軍上部から感状(戦功を称える賞状)を贈られるなどした244戦隊も、沖縄戦が始まると、特攻機援護のため知覧陸軍飛行場(鹿児島県)に移り、最後は八日市陸軍飛行場(滋賀県)で解散となった。

 次回は、今も残る「掩体壕(えんたいごう)」を紹介。

2019年如月18日
(取材は2018年2月下旬、12月末・2019年2月初・中旬)

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・取材に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・当地は一般的な住宅地に存します。ご訪問の際は十分ご配慮頂けますよう、宜しくお願い致します

・この戦跡の所在地は府中市・調布市・三鷹市、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅・白糸台駅、京王線飛田給駅です

航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト
航空機写真画像出典:三式戦(244戦隊)、五式戦;ウィキペディア(共に昭和31年(1956)12月31日までに公表) 三式戦(飛行中);ウィキペディア(作者:Bzuk氏) Bf109・B-29;ウィキペディア(パブリックドメイン)

参考・引用:知られざる軍都 多摩・武蔵野(洋泉社)、現地解説板、「陸軍飛行第244戦隊 調布の空の勇士たち」他各市HP等関連ウェブサイト

*東京都調布飛行場:平成13年(2001)3月に正式開港。現在は面積389,546平方m・エプロン107,380平方m
*東亰調布飛行場:「亰」は京の異字体。門柱の「東東」は「亰」を「東」にいたずらしたらしい。主は米軍兵士ともいわれているが定かではない
*着陸帯:滑走路周囲に設けられた安全確保帯
*アスペクト比:縦横の比率。長さ7m・幅1mの翼であれば7/1=7となり数字が大きいほど細長くなる。飛燕は7.2で零戦の6.4より大分大きい
*三式戦闘機「飛燕」:神武紀元二千六百三年(昭和18年)採用なので「三式」。ハ40搭載の一型(武装により甲・乙・丙・丁の違いがある)とハ140搭載の二型とがある
*五式戦闘機:戦争末期の採用のためニックネームは無い。直径の大きな空冷エンジンに換装するため機首周辺は新たに設計されたが他はほぼ飛燕そのまま。運動性能等は向上したが、空気抵抗の大きい空冷エンジンのため飛燕二型の610kmに比し最高速度は580qに低下した。神武紀元二千六百五年(昭和20年)採用なので「五式」。一型とターボチャージャー搭載の二型とがある。なお一型ははじめキャノピーと機体後部が一体化したファストバック型であったが後に水滴型風防タイプ(上画像)へと変更された
*飛行戦隊:244戦隊は「つばくろ隊」(のち「そよかぜ隊」)、「とっぷう隊」、「みかづき隊」の三中隊に分かれていた。244戦隊の他、独立第101中隊、第47飛行戦隊、第52戦隊、第18戦隊、独立飛行第17中隊等が一時展開した
*Bf109:Me109とも。メッサーシュミット社がバイエルン航空機製造(BFW)に吸収合併されていた時代のものなので「Bf」と付く。約30,000機と世界で最も多く製造された戦闘機である。なお写真のE-3型はE型の武装強化型

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子供の私が甦る
 数十年ぶりである。風邪で一週間も寝込んだのは。

 とある土曜日、喉の痛みを感じた。就寝中、痛みで目が覚めるほどの不快な痛みである。其れが翌日曜も続き、流石に心配になって月曜にかかりつけ医を受診。万が一インフルエンザであった場合、おばあちゃんに伝染してしまったら大ごとである(昨年おばあちゃんはインフルエンザで二週間入院した)。
 診断結果は「風邪」で、一安心だが、これとておばあちゃんに伝染してしまったら、やはり大変である。マスクを二重にかけ、こまめに手指を「弱酸性次亜塩素酸」水で消毒し、極力おばあちゃんと同じ部屋にいないように気を使ったが、症状は悪化するばかり。のどの痛みが治まる頃には、ティッシュを鼻に詰めていないと何もできないほどの強烈な鼻水攻撃がやってきたし、体温も38度近くに上昇。体調悪化で、介護にも支障を来し始め、これはマズイと、臨時でショートステイを五日間お願いし、何とかおばあちゃんへの感染は回避できた。
 しかし、私の症状は悪化の一途。風邪は一般に、のどの痛み→鼻水→咳、と言う順番に症状が現れ、この順に治まってゆく。私の症状もまさにこの通りの流れであり、鼻水が治まりかけて来たので、ああ、あとは咳が出て治るのだ・・・とほっとしていたのだが、ここで、想定外の偏頭痛乱入である。
 おばあちゃんを施設へ送り出すあたりから、あれ?もしかしてこれは、とイヤな予兆があったのだが、それからやって来ました、偏頭痛発作。然も超強烈なヤツが。痛みだけではない、猛烈な吐き気を伴うパターンである。もう、こうなったら何もできない。ただ薬を飲んで効いてくるのをひたすら横になって待つだけしかできない。薬(スマトリプタン)が効果を発揮してくれさえすれば、なんとか食事をしたり猫のトイレを片づけたりするくらいは出来るようになるのだが、その効果も、私の場合は6-7時間で切れてしまう。そうなればまた服薬、である。これを計四回繰り返した。通常一回飲めば治るのであるから、いつもの四倍の薬を飲んでやっと治まったという事である。こうした「超大発作」(独自分類)は、通常数年に一度なのだが、昨年春にもあったので、珍しい連発である。しかも、風邪でダウンしているときと言う、最悪のタイミングだ。まいっちゃったよたまんないね(by坂田師匠)。

 しかし、風邪も偏頭痛もどれほど辛くとも何時かは治る。現にこうして、ブログ記事を書けるまでに回復した。まだ完全ではなく、買い出しも出来ず冷蔵庫は空っぽだが、猫連中のお散歩は数日ぶりに再開できた(ストレスたまって喧嘩っ早くなって来たのでガンバッテ再開した)。よかった。

 辛い一週間であったが、良いこともあった。リヴィングでありったけの膝掛けを体に巻いてソファーに横になり、TVを観る毎日であった(本当は部屋のベッドで寝込んでいたかったが、そうすると猫の世話が出来なくなる)のだが、そのおかげで、全豪オープンの大坂選手の準決勝・決勝をほぼ丸々観戦することができた。今まで、テニスの試合など見たことが無かったので、良い経験が出来た(なおみちゃん、おめでとう)。それと、大相撲初場所、こちらも今まで見たことのなかった幕下や十両の取り組みを含めて観戦することができた。下の番付から見て行くと、大相撲のシステムの様なものが朧気乍ら見えてきて、幕内の取り組みを見る目が少し変わって来るのを感じられた。此方も良い経験が出来た。
 また、そんな日々の中、忘れていた子供の頃の記憶も甦って来た。午後、TVでテニスや相撲を観戦しながら、時折窓の外を見ると、そこには冬ざれた庭の景色があるのだが、この景色、あの時見ていた景色と一緒だ・・・、となったのである。風邪で寝込んだのは数十年ぶり、と冒頭書いたが、あの時、とはその数十年前の時のことである。
 あの時、は小学校中学年の頃と思うが、熱を出し、学校を休み、その時も今回と全く同じ様に、リビングでソファーに横になり、午後、一人(猫と犬が居たが)TVを観ていた。やはり今回と同じ様に時折窓の外を見やる。そこには真冬の庭の景色がある。葉の落ちつくした裸の木と、その向こうにお隣の家が見える。今にも雪でも降り出しそうな灰色の空も少し見えている。そんな如何にも寂しさを絵に書いたような景色を眺めて、何とも心細い気持ちになっていたのを思い出し、今のおっさんの自分まで、妙に心細い気持ちになってしまった。と同時に、当時と今の変化のなさに驚いた。庭木の樹種と、向こうに見えるお隣の家屋は建替えられ多少変わっているが、全体的な印象はほとんど変わらない。部屋と庭を隔てるガラス窓に至っては、当時と全く同じ。部屋そのものも数十年前と変わらない。変わったと言えばTVが薄っぺらくなったのと、今では安全のため使わなくなった灯油ストーヴのあの独特の匂い(懐かしい)が無くなったくらいだ。びっくりクリビツである。私だけ、歳とっておっさんになったんじゃん(猫は数代代替わりしているが)。ああ、コワイコワイ。

冬の窓(イメージ)
イメージ。こんな広い庭ではない

 最後に、ついでながら書き添えると、今回風邪に処方された薬を服用し、経験したことのない強烈な副作用におそわれた。鎮痛解熱剤、抗アレルギー薬、咳止めと三種頂きのんだのだが、一回目の服用と二回目の服用の間隔が短かった所為もあるのかもしれないが、二回目のおよそ一時間後、強烈な吐き気が突然こみ上げ、これはマズイと起ちあがった次の瞬間から記憶がない。気付いたときには、本棚に向かって突っ伏していた。失神したのである。机の上のPCで音楽(ワンダ・ランドフスカのチェンバロ曲集)を聴いていたので、意識が戻ってからプレイヤーのタイム表示を見ると凡そ10分ほど曲が進んでいた。びっくりしながらも多少落ち着きを取り戻すと、こんどは強烈な腹痛。トイレに駆け込むと、激しい下痢。ほぼ水様便だ。
 その時点ではまだ風邪そのものの症状は軽く、大したことは無かったのだが、一連の事が治まったのちは、もうフラフラであった。顔も蒼白。処方して頂いた薬局に電話し、これこれの事があったと相談すると、副作用の可能性が高いので、すぐに服用は止めてくださいとの指示であった。
 薬の副作用は、時にオソロシイ。私の場合、幸い大事に至らず済んだが、場合によっては非常に危険である。意識を失ったのが外であったらと思うとコワイ。初めてのお薬は、気を付けねばならぬ。皆さんも、くれぐれもご注意くださいね。

(更新が滞り、申し訳御座いませんでした)

2019年睦月27日

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*副作用:薬物に期待される本来の効果とは異なる作用。有害なものを指す場合が多い。ワクチンによるものは副反応と言う

(画像は、写真ACより拝借しました)

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

アンケート
 そういう方は多いと思うが、私は複数のアンケートサイトに登録しており、毎日幾つかのアンケートに回答しては、せっせとポイントをためている(ポイントは寄付に使うことが多い)。

 このアンケートだが、内容によっては、婚姻状況や子供の有無またパートナーの有無を問われることが多い。これ等の問いに対しては、当然乍ら私の場合すべて「NO」的な答えである。しかし、こう答えるのは少々凹む。
 「あなたの婚姻状況をお知らせください」に対しては、「配偶者はいない」にチェック。
 「あなたは結婚していらっしゃいますか」に対しては、「未婚」にチェック。
 「あなたにお子さまはいらっしゃいますか」に対しては、「子供はいない」にチェック。
 「あなたの配偶者・パートナーは妊娠していらっしゃいますか」に対しては、「パートナーはいない/妊娠していない」にチェック。・・・
 これだもの、正直凹むよ。勿の論で設問にクレームをつけるつもり等は毛頭ない。ただ、上の様にこう続けて答えていると「独り身」と言う現実が改めてひしひしと感じられ、凹むのだ。

独身

 しかし、おばあちゃんの介護と猫のお世話に明け暮れる、この日々のこれまた現実を思えば、(人生の)相方探しなど容易ではない。しかも、おっさんだ。経済力も無ければ頭髪もない(コラっ)。身近に独身女性の方も皆無だ。居ても親娘ほどの年齢差では如何もならん。
 ああ、考えれば考えるほど、カナシクなるぞ。

2019年睦月10日

ネックウォーマー
 ロードバイクに乗り始めて、はじめての冬だ。走っているうち、案の定、新たな不都合が見つかった。
 これまでも、今まで乗っていたマウンテンバイクで使用していたショルダーバッグが使い難かったり(肩がしんどい)、普段愛用の野球帽が使えなかったり(前が見えない)と、ロードバイク特有のその強い前傾姿勢の為に様々不都合が生じていたが、またしても、である。

 今度は何かといえば、マフラーだ。私は真冬には少し厚手のマフラーを愛用し二重巻きにして端をコートの中に入れているのだが、これをロードバイクでのサイクリングの際に使用したら、後ろが見にくい。ただでさえ後方確認をしづらい強い前傾姿勢では、マウンテンバイクと少々勝手が違う。バックミラーは装着しているが、最後は目視確認であるから困る。また前方確認で頭を上げようとした際や、ドロップハンドルの下を持った際など、首の後ろが苦しい。被っているカスクの顎ストラップも、マフラーに押され首に食い込んで違和感が生じる。なので、全般的にロードバイクに厚手マフラーは使い難い。それに、考えてみれば、万が一の転倒の際などマフラーが何かに絡まったりしたら首が締まる。危険である。よって、ロードバイクでサイクリングの際は、マフラーは禁止としたい。
 だが、何もなしでは首が寒い。ので、前々から一度使ってみたいと思っていた、ネックウォーマーを試してみることとした。

 サイクリングでの使用という事で、防風性を謳っているものにしたのだが、これがやや生地が固い。医療用首サポーター程では勿論ないが、自立するくらいの固さはある。よって首の周りに結構隙間ができるのだ。これで大丈夫であろうかと、極寒の日、装着して風もある多摩川の堤防上を走ってみた。

相方
堤防上の相方

 結果は、非常に良好であった。固さがある分、衝立の様に風をブロックしてくれる。確かに隙間は出来るが、車上で前傾姿勢をとると、自分の顔が丁度蓋の様に隙間を塞ぐのだ。それに、巾着の様にドローコードで首元を締めることもできる。正直、厚手マフラーに比せば防寒性は劣るが、サイクリングは真冬でも結構暑くなるので特に問題となるほどではない。それに、首周りの動き易さはマフラーの比ではない。後方確認がし易い。カスクの顎ストラップに関する違和感も、ほぼ解消された。

 真冬のサイクリング、今度のショートステイの時は、何所へ行こうか。

 ・・・・・・・・・・・・

 謹賀新年

 本年も「MYSTIC RHYTHMS」を、宜しくお願い致します。

2019睦月1日

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*ネックウォーマー:いろいろ迷ったが、〇ニクロのフリースタイプが値下げで¥1,000以下だったのでこれにした
*カスク(casque):ヘルメット以前に一般に使用されていた頭部保護用ヘッドギア。「カスク(kask)」という自転車ヘルメットのブランドがあるのでややこしい

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