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北の離れ 2020

古書店主が綴る日常雑記 古本屋な日々...  profile

・2月27日 玉川上水川下り―浅間橋歩道橋
・2月25日 玉川上水川下り―浅間橋
・2月23日 COVID-19
・2月11日 シブい、シブすぎる
・2月1日 歪な五角形
・1月29日 HAD
・1月14日 哲人ドラマー
・1月10日 霊園掃苔―登山家
・1月7日 八高線多摩川橋梁
・1月1日 年末ER


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玉川上水川下り―浅間橋歩道橋
 昔の浅間橋の姿を求め、古航空写真を見る。
 1963年(昭和38年)の航空写真だ。未だ中央自動車道もない大分長閑(nおどか)な風景だが、しかしなんと、今の浅間橋の場所には橋らしきものは無い。
 だが、その200mほど東(下流)に橋はある。現在「富士見ヶ丘通り」と呼ばれる通りが玉川上水を渡るその場所だ。これが元の浅間橋か。

浅間橋航空写真(1963)
浅間橋航空写真
1963年(昭和39年)6月26日国土地理院撮影

 最近の航空写真を見てみよう。

浅間橋航空写真(2017)
浅間橋航空写真
2017年(平成29年)5月30日国土地理院撮影
右下から左下へカーヴする中央道
上水を挟みながら左上へ伸びる東八道路

 現在この橋があった場所は、上水は暗渠となり上を東八道路が通り、更にその真上を中央道が通っている。そして富士見ヶ丘通りが東八に接続するその場所、つまり上の古航空写真で元の浅間橋と思われる橋があったその場所に、「浅間橋歩道橋」がある。前回の最後で、下流方向に見たあの薄青い歩道橋だ。
 行ってみる。

杉並区、浅間橋歩道橋

杉並区、浅間橋歩道橋

杉並区、浅間橋歩道橋
浅間橋歩道橋
下が東八道路、上が中央道
この南には浅間橋公園もある

 古航空写真に写る、元の浅間橋らしき橋のその同じ場所にある歩道橋に「浅間橋」が冠されている。偶然とは思えない。古航空写真で富士見ヶ丘通り上に写る橋が、元の「浅間橋」であったと考えても良いのではなかろうか。歩道橋から東方500mばかりの場所に、第六天神社があり、そこに末社として1897年(明治30年)に字(あざ)前山(上高井戸村)から遷座された浅間神社があるそうだ。字前山が今のどの辺りであったか不明だが、おそらくはこの浅間神社が元の浅間橋を渡る道の傍らか近くにあったのであろう。

 しかしだ、この浅間橋歩道橋が元の浅間橋の位置だとして、なぜ200mも離れた今の地点が浅間橋となったのであろう。
 ここでまた、古航空写真を見る。

浅間橋航空写真(1975)
浅間橋航空写真
1975年(昭和50年)1月20日国土地理院撮影

 上は中央道工事真っ只中の1975年(この区間は翌年完成)のものだ。これを見ると、現在浅間橋と呼ばれている場所の辺りに、可也小さいが橋?の様にも見える何かがある。芥留(あくたどめ。ごみフィルター)、であろうか。もう一枚、14年後の写真を見よう。

浅間橋航空写真(1989)
浅間橋航空写真
1989年(平成元年)10月20日国土地理院撮影

 上と同じ場所に、何か、が同じ様にある。橋ではなく芥留の様に思えるが―。

 然し、浅間橋が嘗ては今の浅間橋歩道橋部分にあったのは間違えなかろうと思うのだが、なぜ「浅間橋」が200mも上流へ移動したのだろう。やはり上水暗渠化ののち、「新」浅間橋的なものがそこに存在したのであろうか。―謎だ。

 以上は、あくまで素人(私)の気紛れな推測なので、何も確言は出来ない。これを読んで頂いている読者諸賢の皆さんに敢えて言う必要など無かろうとは思うが、あてになどなさらぬ様に、是非ご注意頂きたい。

 最後に、浅間橋の西側、一つ上流の岩崎橋も訪る。

杉並区、玉川上水岩崎橋
岩崎橋

 耐震化と歩道空間確保のため2016年(平成28)に架け替えられたばかりの、新しい姿。
 昔は「庄ちゃん橋」と呼ばれていたらしい。庄太郎さんと言う方が丸木橋を掛けたのが始まりだから、と言う事の様だ。のち樋口橋と名を変え、1939年(昭和14年)に岩崎通信機の工場がこの南に建てられたので、現名称となった。

杉並区、玉川上水岩崎橋
烏山分水取水口

 橋の下流側右岸に、且つての烏山分水取水口が残っている。拡大すると、上部の笠石に「水分山烏」と彫られているのが分かる。現在の水面より大分上にあるが、嘗ては今よりずっと水量が多かった事を示しているのであろう。嘗ての「樋口橋」は、この取水口(水を通す管である「樋(ひ)」の口)があったための名であろうか。

杉並区、玉川上水岩崎橋
案内板
地図のシールは「鳥山」になっている

 玉川上水は、羽村取水堰から四谷大木戸まで続き、浅間橋で終わりではないのだが、やはり開渠の終わる浅間橋で終点感が強い。
 しかし、今更遅いが、何故に全て開渠で残さなかったのかと悔やまれる。上水が暗渠化された1960年代から70年代は、環境など省みる余裕もなく日本全体が「成長」に向け突っ走っていた時代ではあった。あったが、返す返すもネンザンである。

杉並区、玉川上水岩崎橋
岩崎橋から上水(上流側)

 と悔やんでも昔の上水は戻らないので、浅間橋より先に僅かに残る部分的な開渠部(京王線代田橋駅・笹塚駅付近、代田橋・稲荷橋・第三号橋の三か所)も、何時か機会があったら訪ねてみよう。

2020年如月27日
(取材は1月初め・2月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・この場所は杉並区久我山、最寄り駅は京王井の頭線富士見ヶ丘駅です

*玉川上水:羽村取水堰から新宿区の四谷大木戸迄およそ43q続く上水路。人口増激しい江戸に多摩川の水を引き入れる為計画され1653年(承応2年)4月4日に着工し11月15日竣功。上水の水は武蔵野を潤したのち江戸市中で様々に利用された
*開渠部:その大部分は浅間橋で終わりだが、この先京王線代田橋駅から笹塚駅の辺りに三か所部分的に開渠となっている
*第六天神社:「第六天」神社。第六天(他化自在天)は欲界大魔王、第六天魔王(織田信長が名乗ったともされる)の住処
*烏山分水:開削期は不詳。烏山村、粕谷村(徳富蘆花が住んでいた)、世田谷村など10村を流れていたという
*岩崎通信機:1939年烏山に工場、1943年久我山に本社が作られた。WW2中は秘密電話機やレーダーの開発・製造を行った。創業者岩崎清一氏は国学院久我山中学校・高等学校の創設者でもある

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

玉川上水川下り―浅間橋
 昨晩秋、玉川上水を遡り、羽村取水堰(取水堰第一・第二水門)と言うその始点にまで達した。ので、今度は上水の開渠部分の終点を訪ねた。浅間橋(せんげんばし)、である。

杉並区、玉川上水浅間橋
玉川上水緑道
右は東八道路(上り)

 場所は、杉並区久我山。男子ラグビーやサッカーで有名な国学院久我山高校から、東南東に900m少しの地点。
 上水開渠部分も、画像の緑道も、清流復活区間も、羽村の取水口方向を始点方向と見ればここで終点。国の史跡指定(2003年)の大半も、ここで終わりである。

 しかし、だ、橋って何処?

杉並区、玉川上水浅間橋
上水案内板

 案内板には「浅間橋」と明示されているが、らしきものが見えない―。
 案内板イラストに示されている通り左手を見ても無いし、

杉並区、玉川上水浅間橋
上水浅間橋付近
右の木立の下が上水

もっと先、交差点へ行っても、橋は無い。

杉並区、玉川上水浅間橋
上水浅間橋付近交差点
左が東八道路(上り)、右の高架が中央道

 そう、今回ここを訪ねて判明したのだが、「浅間橋」と言う橋は存在しない、のだ。
 上下線が左右に分かれ上水を挟む形となって行く東八道路(都道14号線)と、南西へとカーヴする中央自動車道が上下位置で重なっているその僅か上流側、そこが浅間橋だが、そこに橋などは無い。ただ、玉川上水の流れが、道路下へと消えゆくのみなのだ。

杉並区、玉川上水浅間橋
玉川上水開渠の終わり(標高48.4m)

 画像中央左に、上水の水が芥留(あくたどめ。ごみを濾すフィルター)に吸い込まれて行く。つまり画像左が下流側で、ここから先、上水は暗渠となる訳だ。
 嘗て、上水を渡る浅間橋が存在したかと思われる場所の辺りは、歩道となり、開渠側(上流側)はフェンスで囲われ行き止まりとなっている。
 上の案内板イラストに沿い、浅間橋と思しき辺りを南側から見ると、この様な感じ。

杉並区、玉川上水浅間橋
開渠終焉部
南側から

 画像左橋の木立が上水開渠部、その右白い車止めが見えるのが行き止まり部分。この行き止まり部分やその右側の横断歩道の部分(ワンコお散歩中)などは、もう暗渠部だ。

杉並区、玉川上水浅間橋
開渠終焉部
北側から

 これを北側から見る。画像右端の木立が上水開渠部。その左白いガードレールのある所が行き止まり部分。その辺りから左側が上水暗渠部となる。

杉並区、玉川上水浅間橋
行き止まり部分から

 行き止まりの部分から、上水を見ている。奥方向が上流方向。手前のコンクリートの下に、水が吸い込まれる芥留。
 こうして、暗渠化する上水のその上をただ東八道路と中央道が通るのみとなる。

 そうなのだ、今は、浅間橋と言う名の橋はなく、浅間橋はこの地点・場所の名称としてのみ残っているのだ。ただ、浅間橋がどの様な橋で、何時まで存在していたのかなどは、残念ながら不明である。
 でも、ヒントはありそうだ。
 浅間橋から暗渠となった上水下流方向を見ると、

杉並区、玉川上水浅間橋
下流方向の歩道橋

薄青い歩道橋の姿が、ちらりと見える。この中央道と東八道路に上下から挟まれるようにある歩道橋、この名が「浅間橋歩道橋」なのだ。
 少し、ツッコんでみよう。

 つづく

2020如月25日
(取材は1月初め・2月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・この場所は杉並区久我山、最寄り駅は京王井の頭線富士見ヶ丘駅です

*玉川上水:羽村取水堰から新宿区の四谷大木戸迄およそ43q続く上水路。人口増激しい江戸に多摩川の水を引き入れる為計画され1653年(承応2年)4月4日に着工し11月15日竣功。上水の水は武蔵野を潤したのち江戸市中で様々に利用された
*国の史跡:指定範囲は羽村取水口から四谷大木戸までの開渠部分(約30.4km)。よって浅間橋より下流も一部開渠となっている部分は史跡。逆に浅間橋より上流でも一部暗渠となっている部分は指定外
*清流復活:1986年(昭和61年)下水高度処理水を流す形で流れが復活した

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

COVID-19
 新型コロナウイルス感染症―COVID-19―が可也拡大し、誰が何時何処で感染してもおかしくはない状況となった。全国的に、病院や高齢者施設での入院患者や入所者への面会が禁止される傾向がある。これは、当然と思う。COVID-19は、特別重症化し易いものでも死亡率が高いものでもない様だが、やはり体力・免疫力の低い高齢の方や病気療養中の方は、危険だ。院内感染が起こればエライことだ。
 という事を受け、我が家のおばあちゃんが入院リハビリ中である病院も、面会禁止となり、洗濯替えは看護師さんを通して行う事となった。
 私と顔を合わせ、話したりすれば、多少なり認知機能回復の一助となろうと思うけれど、致し方はあるまい。

 COVID-19は、全体的に見れば重症化率も死亡率も高くはなさそうだけれど、感染力は侮れない。おそらく、表には出ない軽症の方や無症状感染者或いは何時の間にか治癒している方など、もう全国に多くいるのであろう。
 感染予防対策は、それぞれの方がそれぞれ考える所があろうけれど、私は、COVID-19は「新型の風邪」と考え、今まで長年やってきた風邪・インフルエンザ予防法を徹底したいと思う。まずは人混み忌避、そして睡眠、栄養、手洗い、消毒。だ。

手洗い

 花粉症が本格化してきた。マスクが無いと困る方は多いと思うのだが―ホント、売ってないね。医療関係者や感染者など本当にマスクが必要な人々にマスクが行き渡らないのは、困る。ウイルスは直径約0.1マイクロメートルと直径約30マイクロメートルの花粉などより桁違いにちゃいちいので、一般的なマスクは、予防に関してはあまり効果は無いと思う。ウイルスが付着した指で口や鼻を触らなくする効果はあろうけれど、無感染者のマスク着用によるCOVID-19予防効果は、気休め程度なのでなかろうか(あくまで私の素人考えです)。

2020年如月23日

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・イラストはAiBONさんによるものをイラストACからお借りしました

*COVID-19:「coronavirus disease 2019」で「2019年に報告されたコロナウイルス感染症」の意。特定の人名や地名と病気のイメージが結びつかない様、今は病名に報告者名や発生地名などは冠さない
*マイクロメートル:1マイクロメートルは1000分の1mm

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シブい、シブすぎる
 そのすぐ後ろを鶴見川が流れる、町田市は下小山田町の「大泉寺」バス停(標高81.2m)。

町田市下小山田町、大泉寺バス停
大泉寺バス停

 待合所、と言った方が正確か。
 それにしても―、シブい、シブすぎる。南多摩線鉄塔訪問中の通りすがりに、思わず二度見してロードバイクを止めた。
 以前、「戦車道路」を走った際、ここも通ったはずなのだが、憶えていない。バス停前は狭い道路ゆえ、対向車があって注意が削がれたのかもしれない。

町田市下小山田町、大泉寺バス停
正面

 縁側の様な作り付けの木のベンチ(奥)といい、コ〇・コーラ、スプ〇イトのベンチ(右)といい、ビールケースを使った手作りベンチ(左)と言い、堪らん。

 しかし何と言っても、ここの見どころは看板だ。何と味わいのある看板たちであろう。現代の、カラフルで賑やかな―主張の強い―看板に比し、白地に黒ペンキの筆書きと、地味極まりないのだが。色はあるにはあるが、赤と青と、グリーンが若干。それだけだ。

町田市下小山田町、大泉寺バス停
左側

 左のベンチは、ビールケースにスキー板を載せ、その上にバスマット(?)を敷いている。

町田市下小山田町、大泉寺バス停
右側

 Spriteのロゴも、今では懐かしい。

 看板に書かれた電話番号は、「渕の辺〇∝♯番」とか「町田▽×☆番」など、現在は使われていない、電話が少なかった時代のものが多い。調べれば、今も現役でやっておられるお店もあるのだろう。
 この待合所、いつ頃のものなのか。文字を追ってみると何とはなしに、時代が見えて来るような気がする。「新原町田駅」という昭和2年(1927)から昭和51年(1976)まで使われていた、現在の町田駅(小田急電鉄)の旧称が見える。また助産院の看板には、現代の日本では見ることのない「家族計画指導員」の文字がある。
 ネットで検索すると、やはり私の様に気になった方は多い様で、この停留所の記事は幾つも拝見できる。バス停名にもある大泉寺は大きなお寺だし、サイクリングや谷戸或いは小山田緑地散策でこの辺りを訪れる方々も多いので、目に止める方は相応にいらっしゃるだろう。其うした記事の一つに、「昭和三十八年四月改修」と記された表示の写真があった。ポンコツの私は気付かなんだが、入口上にあったのだ。昭和38年と言えば1963年、今から57年前だ。改修がこの時という事は、建てられたのはそれよりはそれなり前であると考えられる。看板に見られる種々の文字と併せてみると、戦後間もない頃か或いは戦中のものと考える事も可能かもしれない(素人考えです)。

大泉寺バス停航空写真(1941) 大泉寺バス停航空写真(1948) 大泉寺バス停航空写真(1979)
大泉寺バス停航空写真
左、昭和16年(1941)7月24日陸軍撮影
中、昭和23年(1948)2月25日米軍撮影
右、昭和54年(1979)10月1日国土地理院撮影

 三枚何れも画面中央がバス停位置(右写真矢印)。周囲は屋並の様子以外はあまり変化がなく、中央左から右下へ蛇行しつつ流れる鶴見川はほぼ同じだ。1979年の写真には現在と全く同じ場所に待合所が見える。1948年ではバス停らしきものも見えるが、その左にもっと大きな建物がある様にも見える。1941年では、今よりも少し左寄りに待合所かどうかは不明だが、「何か」がある。
 どうも古航空写真からは、かなり昔からあったようにも見える。まあ、何れにしろ、私なんぞより可也のパイセンであることは、間違えない。

町田市下小山田町、大泉寺バス停
昔の電話番号

 この様なバス停、と言うよりは「停留所」、残っているのがミラクルの様に思うが、地域の人々の生活に一体化した文化遺産と言わずして何と言おう。観光地や都市部に残る古い建造物だけが、文化遺産ではないのだ。
 是非にこのまま、残り続けてほしいと、私としては切に願う次第だ。

2020如月11日
(取材は12月中旬)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・航空写真画像出典:国土地理院ウェブサイト

・このバス停のある場所は町田市下小山田町、最寄り駅は小田急多摩線唐木田駅です

*待合所:段ボールなど資源ごみ集積所でもあるようなので訪問の際は気をつけたい

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

歪な五角形
 あの、国立駅舎(標高75.0m)が戻って来る。平成18年(2006)、中央線高架化と共に失われた三角屋根の駅舎が戻ってくるのだ。

 完成は令和2年(2020)4月(予定)。だが、久しぶりに大学通りから遠望すれば、もうほぼ、昔の姿だ。多摩の市民の一人として、喜ばしい限りである。

国立市、国立駅舎(2019)
大学通りから

 この辺りをサイクリング時に通ることは、時折あるのだが、あの三角屋根の無い駅を見るのが辛く、ずっと視線を向けずにいた。だが、今回紅葉の様子を見る為視線を向けたら、あったのだ。あの、三角屋根が。

国立市、国立駅舎(2019)
歩道橋から
向こうは国分寺線21号鉄塔

 部材は保管されていた元のものが使用されるとはいえ、一度失われたものが同じ姿で帰るはずはない。のだが、それでも昔慣れ親しんだ(私は国立で長年仕事をしていた)、その姿を見ることが出来るというのは、シンプルに嬉しいのだ。
 なお、復元されるその姿は、解体当時のものではなく、大正15年(1926)の創建当時のものだそうだ。解体当時は、屋根にある三つの半円形の窓がなかった。それと、以前よりほんの少し西寄(画面左)に移動している。元は、駅舎中心が大学通り中央分離帯より若干東(画面右)にズレていたが、今は中心と中央分離帯がほぼ一致している様だ。

 よく見るとこの駅舎の形、非常に歪(いびつ)である。画像では街路樹に隠れ見にくいので拝借画像を載せるが、

国立市、国立駅舎(2005)
旧国立駅舎(2005年撮影)
Sotheiさんより拝借

正面部分は随分と変な五角形だ。でも、国立市の地図を見ると―、ははーんと納得、出来るような気がする。
 下の古航空写真を見て頂きたい。駅を頂点にして、南東に伸びる「旭通り」と南西に伸びる「富士見通り」そしてその二つに、一橋大学の南を東西に走る「学園通り」が形作る図形を見ると、あら、クリソツ。

国立駅周辺航空写真(1947)
国立駅周辺航空写真
昭和22年(1947)11月8日米軍撮影
中央縦は大学通り

 富士見通りが旭通りと角度が異なるの、富士山が見えるようにするためと言う。なお、各通りは、今も1947年当時と全く変わりはない。
 駅舎設計の河野傳(つたう)氏(1896-1963)は、イギリスの田園都市の住宅をモチーフにしたそうだが、この形の一致、意図したものかどうか記録はないそうだけれど、偶然とも思えない。氏の遊び心であったとしたらば、私としては、歓迎だ。

2020年如月1日
(取材は12月初旬)

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・参照:国立「三角屋根の駅舎」復活までの長い道のり(東洋経済ONLINE)、トラベルセレクション「復元めざす旧国立駅舎 三角屋根と左右非対称の謎」(日経電子版)

*河野傳:宮崎県出身。フランク・ロイド・ライトに師事し帝国ホテル設計に参加。のち国立を開発した「箱根土地」(現プリンスホテル)所属

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HAD
 昨年暮れにわが家のおばあちゃんが、脳梗塞で緊急入院したと書いたが、無事に急性期は脱し回復期となったので、リハビリテーションがメインの病院へと転院した。救急で入った病院は急性期病院なので、本当はもっと早くに回復期病院に転院させたかったのだが、今の寒い時期はどこも病院は満床状態で、なかなか行き先が決まらなかった。

 変な言い方だが、入院すると衰える。入院は病気を治療することが優先されるので、ほぼベッドで寝たきり。高齢者の場合それが誘因となってADL(日常生活動作)低下が起きる。筋肉を使わないので筋力が落ちて歩けなくなる。運動もしないからお腹も減らず食欲が落ち、痩せて体力も落ちる。全体に脳の受ける刺激が少ないから、認知機能が下がる―、などなど。若い人や元気な高齢者では左程問題にはならないが、元から自立困難であったり認知症があったりする高齢者はこういう全体的なクォリティの低下が起き勝ち。ADLの低下が著しい場合などは「入院関連機能障害(HAD)」と呼ばれ、最近はとくに問題視されている様だ。私も今回の入院の際には、機能の衰えが出るのでリハビリが必要となると思います、とドクターの説明を受けていた。以前の大腸がんインフルエンザでの入院の際にも、実際経験していたので、おどろきはしないが、それでも、およそ一か月の入院でここまで衰えるか、と若干のショックは隠せない。90歳も疾うに越え、一年一年種々の機能は目に見えて低下しているから、当然と言えばそうなのだが―。
 毎日ベッドから出てリヴィングで過ごす、週数回のデイサーヴィスで人と会い体操したり歌ったり折り紙したり料理したりなどする、そういった行為・行動が、どれほど重要であったかよく分かる。これ等の事を、たった一月休んだだけでこの衰えだもの。

リハビリテーション

 毎日、作業療法、言語療法そして理学療法をそれぞれ40分づつ行うという、なかなかハードなリハビリのスケジュールだ。食事も食堂へ移動し、大勢で一緒にする。刺激は、大分増えるであろう。大腸がんと洞不全症候群を連発した際は、三か月入院してその後三か月介護老人保健施設でリハビリ生活をし、なんとか自宅に戻れた。
 しかし、今回はあの時より全体のレベルは確実に下がっているし、緊急入院が年末年始と重なり急性期病院でのリハビリ開始が遅れたりもしたので、リハビリはもっと必要となろう。これからどれほどリハビリ生活が必要となるかは、未知数だ。果たして、自宅に戻ることが可能となるのか、それともどこか施設へお願いせざるを得なくなるか、そこもまた、未知数だ。

 まだ新たな病院へ転院して間が無いので、何とも言えないが、スタッフさんにお話を聞くと結構よく食べているそうなので、それだけでも大きな変化ではある。

  2020年睦月29日

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・イラストはsumi.kさんによるもの。イラストACからお借りしました

*急性期:危機状態或いは病気のなり始めの時期
*ADL(Activities of Daily Living):日常関連動作。普段の生活を行う上で不可欠な基本的行動
*入院関連機能障害:HAD(Hospitalization-Associated Disability)。ADL低下が著しく入院前の生活に戻れなくなる様な状態
*介護老人保健施設:医療を受けつつ居宅復帰を目指したリハビリをする施設。介護保険適用サーヴィス

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哲人ドラマー
 カナダのプログレッシブ・ハード・ロック・バンド、ラッシュ(RUSH)のドラマーである、ニール・パート(ピアート)が亡くなった。死因は脳腫瘍。享年67。

 彼の死は、1月7日の事と言う。私は年明けから暫らく、実はラッシュのアルバムをよく聴いていた。彼の死を知る前からである。彼の死を知ったのは、12日にたまたま視聴していたYouTubeで、「Rush drummer Neil Peart dead at 67」の文字を見て驚き、その映像を見たためである。カナダのニュース番組であった。英語なので部分的にしか分からなかったが、「ブレイン・キャンサー」と言う言葉ははっきり聞き取ることができた。
 年齢的に、私が憧れていたミュージシャン達もみな大分高齢である。最近は、他に幾人ものプレーヤーの死の報に接している(キース・エマーソンやジョン・ウェットンなど)。なので、左程には動揺はないが、それでもやはり暫し茫然とはする。

Power Windows

 ラッシュと言っても、ニール・パートと言っても、一般に日本での知名度は低くご存じでない方が多いと思うが、バンドはプログレッシブ系ハード・ロックのパイオニア的存在で、母国やアメリカ、英国、オーストラリア等では非常に人気は高く、多くのプラチナ・ディスクやゴールド・ディスクなどを得、2013年にはロックの殿堂入りも果たしている。また、一般の評価・人気が高いだけではなく、多くのプロ・ミュージシャンにも敬愛される所謂「ミュージシャンズ・ミュージシャン」でもあった。中でもニールは殊に、そうした存在だった。「史上最高のドラマー」的ランキングでは、常に上位に入っているのを見てもそれが分かる。テクニック、センス、個性そしてパワーが高次元で融合し、唯一無二の孤高のドラマーであった。
 ニールはバンドの作詞も担当しており、初期にはSF的・ファンタジー的、後には内省的なものや社会的な内容が多く、文学的にも評価されていた。「哲人ドラマー」と呼ばれる所以である。
 ドラマーとしても、ソングライターとしても、私の最も愛する存在であった。

 ラッシュは、離合集散の激しいロック界で、40年にも渡り不動のメンバーで活動してきた、ニール、ゲディ・リー(vo,b,key)そしてアレックス・ライフソン(g)によるトリオ・バンドであった。1997年に娘さんを、そして翌年には奥さんを続けて亡くしたニールが、精神的ショックから長いバイクの旅に出、バンドは休止を余儀なくされる事態もあったが、そうした困難も乗り越えて来た三人だ。しかし、ニールは、2015年、すでに健康上の理由からツアーを引退しており、2018年の1月には、もうツアーやレコーディングの予定はないとアレックスは語り、10月にはゲディもツアー計画はないと語り、バンドは実質の解散状態となっていた。

 十代・二十代の頃に知り、今も変わらず聴き続けているアーティストは私には多くあるが、ラッシュはその中でも最もよく聴くバンドであり、あなたの一番好きなアーティストは?と問われれば、迷わず「ラッシュ」と答える様な存在だ。
 素晴らしい音楽を有難う。そうとしか、言葉が無い。

 R.I.P

2020年睦月14日

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*ラッシュ紹介ページ。彼らにもし興味を覚えたら、是非その作品を聴くことをお薦めする。そのご参考になれば、幸いである。画像のアルバムは11作目の「パワー・ウィンドウズ」(1985)で、この頃はハード・ロック/ヘヴィ・メタル色は薄れ一般的なロック・ファンの方にも違和感はないと思う。ポップな楽曲と高度な演奏力そして詞世界を味わえる佳作

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

霊園掃苔―登山家
 木暮理太郎(1873-1944)墓である。

小金井市、多磨霊園、木暮理太郎墓
多磨霊園、木暮理太郎墓(木暮家)

 場所は22区(1種44側)、霊園北部の小金井市エリア。小金井門塔のすぐ東側だが、やや墓域奥にあるため、探すのには可也苦労した。

小金井市、多磨霊園、木暮理太郎墓
墓所周辺

 多くの方は、この木暮氏の名を聞いてもピンと来ないことと思う。がしかし、山好きの方なら―すごく若い人は別にして―まず、見聞きしているはずである。深田久弥の、超有名な「日本百名山」に度々名が出て来る、日本登山界また山岳研究のパイオニア的存在の登山家だ。

小金井市、多磨霊園、木暮理太郎墓
墓碑

 日本山岳会の、三代目会長も務めている(社団法人としては初代会長)。

 十代の頃、登山少年であり、「百名山」を愛読書にして読み耽っていた私には、この木暮氏の名は可也深く刻み込まれていた。しかし、なかなかその著作に接する機会が無かった。しかし、深田久弥の著作を通し、彼に対する幽かではあるがある種の憧れの様なものは、私の中に醸造され、ずっとあった。まだ登山者も少なく、今よりもずっと深かった日本の山々を歩き回ったこの偉大なるパイセンは、一体どんな本を書いていたのであろうと、ずっと頭のどこかに存在していた。
 それが最近になって、木暮氏の作品を「青空文庫」で読めることが分かり、しばらく続けて読ませて頂いている。
 その中で「冬の山」と題された随筆の一節が引っ掛った。

「目前の利益の為に自然を破壊するが如き行為は、厳に警(いまし)むべき」

 これは、氏の求める「登山の民衆化」に関わっての発言であるが、この今から100年近く前の大正の時代に書かれた文章の中に、自然の破壊を批判する言葉が出て来るとは、正直意外であった。他にも、都市化や大気汚染を嘆き人と自然の将来を憂う言葉も見える(「望岳都東京」)。私の無知蒙昧の所為かもしれぬが、この時代の文章に日本で斯うした言葉を見ようとは。

小金井市、多磨霊園、木暮理太郎墓
墓石

 木暮氏に関して有名なのは、「望岳都」と言う言葉であろう。これは「望岳都東京」と言う著作に由来する。氏は、まだ高層建築も少なく自動車も少なく、遥か遠方も見晴るかせた大正の頃、東京市内、愛宕山の愛宕塔や、浅草凌雲閣、また目黒や赤羽の高台など彼方此方から望める山々を見付け、それを文章にしてまとめた。それが「望岳都東京」。東京など山から遠く、山には縁は無いと思われがちだが、案外と、南アルプスはじめ様々な山が見えることを人びとに知らしめた。私も、この「望岳都」の言葉に刺激され、少年時代、彼方此方から望んでみたが、時代が違い過ぎてそうそう見ることは叶わない。しかし、北方に群馬の赤城山や、日光の男体山が可也はっきりと良く見えることは確認できた。これは、非常にうれしかった。この二つの山は、今でも、少し高い場所からであれば、空気の澄んだ冬の午前中など、遮るものとてない平野の向こうに結構良く見える。

 赤城山が出てきて丁度良いが、氏は群馬県新田郡強戸村(現太田市)に生まれ、その赤城山に六歳で登ったそうである。その後、今から比べればまだ人跡稀とも言える日本アルプスや秩父の山々を歩き世に紹介した。彼の登山スタイルは、山名・地名の考証をしたり歴史や自然美などにも触れるなど、スポーツ的と言うよりは人文的な色が濃い。故に「山岳研究」のパイオニアとされる。
 よって氏の著作は、人文科学的な雰囲気があり、それはそのまま「日本百名山」へと繋がっていると感じられる。ただ、古い時代のものだし文学者の筆ではないから―、と仰る向きもあろうと思う。けれど、山好きの方には氏の著作は一読をお薦めしたい。その道を究めたパイセンの言葉には、やはり重みがあるし、それに単純に古き時代の日本の山々の姿を想起できる。そうしたイメージは、傷ついた今の山々を復元するに良き参考となろう。

 木暮氏を記念するレリーフが、彼の愛した奥秩父の金峰山山麓、金山平にある。

 合掌。

 お墓を離れ、少し自転車を転がすと、大廻り東通りを挟んだ隣の21区で、イチョウが色付き、地面を染めていた。

小金井市、多磨霊園21区
21区のイチョウ

 霊園は、市街に比べて気温が低い所為か、例年周囲より黄・紅葉は早めだが、今季(2019)は全体的に秋の高温の影響で黄・紅葉が遅い。霊園も、やはり例外ではなかった。なので幸い、この風景に間に合った感じだ。

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 この多磨霊園に、木暮氏と縁の深い登山家の方々がほかに二名眠っておられる事を後日知り、年が明けたとある極寒の曇り日に訪ねた。

 一人目のお方は、木暮氏と同じ大学(東京帝国大学)の後輩で、氏を慕い共に多くの山々を歩き、氏と共に日本登山界に大きな影響与えた人物、田部重治(たなべじゅうじ)(1884-1972)である。

府中市、多磨霊園、田部重治墓
田部重治墓(田部家)
9区(1種18側)

 お墓はやや、園路から奥まっている。傍らに大きなマツの木があるが、こうしたマツの木は園内他にも多いので、目印にはならないだろう。

府中市、多磨霊園、田部重治墓
墓所前通路

 墓所には大分草木が繁り、墓石左手の墓碑はナンテンとそれに絡みついたつる草とでほぼ覆い隠されている。

府中市、多磨霊園、田部重治墓
墓所

 失礼して、ナンテンの葉をかき分けると、重治氏の名が確認できた。

府中市、多磨霊園、田部重治墓
墓碑

 氏は現在の富山市の生まれ。田部家の養子であり、旧姓は南日(なんにち)。英文学者であり、イギリスの詩人、ウィリアム・ワーズワース(1770-1850)の詩集の翻訳が岩波文庫からから出ており、私も中学生の頃愛読していた。東京帝国大学在学中に木暮氏と知り合い、氏と同様その著作により日本アルプスや秩父の山々を人々に紹介した。
 氏を記念するレリーフが、木暮氏同様彼の愛した奥秩父の甲武信ヶ岳近くの西沢渓谷にある。

 合掌。

 もう御一方は、槇有恒(まきありつね、ゆうこう)(1894-1989)である。

府中市、多磨霊園、槇有恒墓
槇有恒墓(槇家)
13区(1種6側)

 日本山岳会で、木暮会長の時に副会長であり、木暮氏急逝の後、会長となったお方だ。

府中市、多磨霊園、槇有恒墓
槇家墓石

 正面の墓石は、銀行家であったお父上個人のもので、槇家のお墓は左手に建つ。

 槇氏に関して最も有名な事柄は、昭和31年(1956)に日本登山隊(第三次)がその初登頂を成し遂げたヒマラヤの8,000m峰、マナスル(Manaslu)(8,163m。世界第8位)のその登山隊長を務めた事であろう。
 このマナスル初登頂という出来事は当時、日本登山界に於いて画期的なもであることを超え、国民全体を巻き込んで社会現象化し、今のブームとは次元の違う大規模な登山ブームを生んだようだ。WW2敗戦からまだ9年と言うその時代に、相当大きなインパクトと自信を、当時の日本の人々に与えたのであろう。
 なお、マナスルは日本と縁が深く、1974年には日本隊が世界初の女性による8,000m峰塔頂も成し遂げている。

 墓域左隅に、墓碑。

府中市、多磨霊園、槇有恒墓 府中市、多磨霊園、槇有恒墓
墓碑
左が上部、右が下部

 ご家族と共にその名が刻まれているが、ご長男(有恒氏は次男)の智雄氏(教育者)と共にひと際大きい。「崇嶽」の文字が、氏を表している。

 合掌。

 このお三方、今は全く登らないが、嘗ては登山少年であり、今もPCやスマフォの壁紙は四季折々の山の画像ばかり使っている私にとっては、やはり一寸特別な存在の方々である。

2020年睦月10日
(木暮氏取材は11月末、田部氏・槇氏は1月初め)

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・取材の際はマナー遵守を心掛け十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、お詫び致します

・霊園ご訪問・ご探訪の際は、マナーを守り節度ある行動をお心がけ頂けますよう、お願い致します

・この場所は小金井市前原町・府中市多磨町、最寄り駅は西武多摩川線多磨駅です

*日本山岳会:明治38年(1905)設立の倶楽部。登山中心に山に関する種々なることを趣味とする方がたの集まり。この名称となったのは明治42年(1909)。昭和6年(1931)より会長制となる
*愛宕塔、浅草凌雲閣:前者は港区にある標高25.7mの愛宕山に明治22年(1889)に建てられた五階建て八角形の高さ30mの塔。関東大震災で倒壊後東京放送局の電波塔が建てられた(設計は東京タワー設計者の内藤多仲)。後者は明治23年(1890)に浅草に建てられた十二階建て高さ52mの塔(通称、十二階)。こちらも関東大震災で崩壊しその後陸軍により爆破解体された
*マナスル:ネパールヒマラヤの中部にある。日本山岳会が中心となり1952年より遠征が行われ第三次隊により世界初登頂に成功した。これは日本人による初の8,000m峰登頂でもあった

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

八高線多摩川橋梁
 夕暮れせまる昭島市の多摩川河川敷、JR八高線多摩川橋梁(長さ約560m)の下流側、「くじら運動公園」の一角に赤錆びた列車の車輪が置かれていた。

昭島市、くじら運動公園、八高線列車事故モニュメント
昭島市、くじら運動公園(標高87.3m)

 すぐ上流側を渡る、JR八高線多摩川橋梁(鉄橋)上で起きた、列車事故のモニュメントだ。

昭島市、くじら運動公園、八高線列車事故モニュメント
解説板

 この事故が起きたのは、昭和20年(1945)8月24日。WW2日本降伏の僅か9日後の事である。
 拝島駅を出た上り列車と小宮駅を出た下り列車が、その日の朝7時40分頃この多摩川を渡る鉄橋上で正面衝突した。当日の豪雨の中での通信不通や、信号故障またダイヤの大幅な乱れ等が重なる中で、双方駅間の連絡不備が原因で起きたとされている。

昭島市、くじら運動公園、八高線列車事故モニュメント
解説板地図

 両列車は、激しい雨で前方視界が極めて不良な中、互いを直前まで認めることが出来ない状態であったそうだ。

 列車は双方ともに、8850型蒸気機関車に牽かれた客車5両編成。事故当時乗客はどちらも満員で、通勤通学者の他に多くの復員兵や疎開先からの帰宅者が乗車していた。衝突により、両列車も一両目の客車が粉砕され落下。衝撃或いは増水した川に流される等し105名の方が死亡したとされている。しかし、実際は当日の豪雨による濁流にのまれ、確認不能となった方々も数多くいるのでは、ともされている。

 互いにめり込む形となり橋上に残った機関車と転落を免れた客車の内、一部は移動させたが、機関車と移動不可の客車は結局クレーンでも動かすことが出来ずに、そのまま川に引き落とされた。車輪は、そうして事故の後も放置されていたものを2001年に引き上げ、2004年にこうして設置された。当該車両の車輪とは確認はできないが、事故由来のものとしか考えられないため、そう認められているという。

昭島市、くじら運動公園、八高線列車事故モニュメント
事故列車のものとされる車輪

 事故が起きた橋梁は、夕空をバックにモニュメント左手に見えた。

昭島市、八高線多摩川橋梁
八高線多摩川橋梁

 暮れ方の冷たい木枯しに指が悴(かじか)み、カメラの操作ミスで、アートショットになってしまった。でも、いい絵なので、そのまま載せたいと思う。

 話は変わるが、ここから150m程南、多摩川橋梁の11番橋脚から36m程下流(範囲は南北11.0m、東西5.0m)の川縁に、以前に紹介したアキシマクジラの出土地がある。なので、ここは「くじら運動公園」であり、またモニュメント脇には、こうしたものが建っている。

昭島市、くじら運動公園、アキシマクジラ解説板
アキシマクジラ解説板

 昭和36年(1961)8月、ほぼ全身骨格のクジラの化石が、橋梁下の河川敷、約200万年前の地層から発見されたのだ。全長13.5mのヒゲクジラの仲間で、出土場所から「アキシマクジラ」と命名された。そして発見から57年目の平成30年(2018)1月、新種であることが確認され、「エスクリクティウス・アキシマエンシス(Eschrichtius akishimaensis)」の学名が与えられた。

 本年(2020)3月には、青梅線脇の昭島市立教育福祉総合センター内に、アキシマクジラの実物大レプリカが展示予定だ。ぜひ見に行きたい。
 ちなみに、この教育福祉総合センターの愛称は「アキシマエンシス」。アキシマクジラの学名に由来するのは、言うまでもない。

2020年睦月7日
(取材は11月下旬)

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・参照:ブログ「在りし日」さん、ブログ「心身一如」さんほか

・このモニュメントのある場所は昭島市宮沢町、最寄り駅はJR八高線小宮駅です

*八高線多摩川橋梁:衝突事故の二年後には、橋梁通過中の列車に横田基地所属のA-26インヴェーダー攻撃機が墜落し四名が死亡する事故も起きている
*アキシマクジラ:コククジラ(Eschrichtius)属。177-195万年前に生息。現在一属一種のみのコククジラが北太平洋に生息しているが、これとは異なる種とされた

(スマートフォン版は、通信の最適化により画像の画質低下・サイズ縮小となっている場合があります。ご了承下さい)

年末ER
 昨年末、暮れも押し詰まった日だが、夕方、おばあちゃんに食事をさせようと、左手に茶碗を持たせたら、どうも上手く持てない。力が入らないし、腕がすぐに下がってしまう。これは若しや―と思い、チェック。
 おばあちゃんに両腕を掌を上にして前に突き出してもらうと、左腕だけが下がって来る。これは、もう完全に脳梗塞である。顔の左側は変化が無いし、呂律にも問題はないが、脳梗塞が起こっている可能性は非常に高い。脳梗塞は脳の血管が詰まって組織が壊死するもの。時間が経てば経つほどダメージは大きくなるので、なるべく早い治療が必要だ。脳梗塞は時間との勝負なのである。よって様子など見ることなく、即ER(救急外来)へ―。

emergency room

 ERでCT画像を撮ると、右脳の運動野に脳梗塞があることが判明。現状、軽症ではあるが、重症化や再発の可能性もあるので、即入院治療とあいなった。

   その日は、種々の検査や入院手続きののち、救急病棟の病室に入り、翌日改めて本病棟の病室へ移動することとなった。全てが終わり、私が家へ戻ったのは明け方の3時。ドット疲れた。

 で、おばあちゃんは年末年始は病院暮らし。私は、言ってみれば突然の休暇(介護の)。なんか、折角時間が出来たのに呆気に取られて、何も頭に浮かばない。サイクリングに行こうかとも思うが、如何も気持ちが落ち着かない。高齢者が家にいることで、何時何が起きるか分からない、という事は常に念頭にあり、左程慌てはしないし、幸い命に関わる事でもないのだが。困ったものだ。

 しかし、年に何度ERのお世話になっているのだろう(救急車は呼んでいない)。おばあちゃんを診察して頂いている間、ドクターはご多忙で、時々、済みません一寸、と言って他の患者さんの許へ行く。確かに、次々と患者さんはやって来る。
 ドクターを待っている間診察室の中をアレコレ眺めていると、一枚の関係者向けの貼り紙が目に付いた。そこには、
「脳梗塞かなと思ったら、即脳外科医へ」
と、太文字で書かれてあった。やはり、脳梗塞は時間との勝負なのだ。迷わずERへ来てよかった。

 ER、いつも本当に有難く思っております。

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 謹賀新年

 本年も「MYSTIC RHYTHMS」を、宜しくお願い致します。

2020年睦月1日

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*脳梗塞:水分不足だと血流が悪化し血管が詰まり易くなるので、脳梗塞予防にはこまめに早めに水分摂取するのも重要

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