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Fe塔 その四

鉄塔の鉄美  profile

§索引

§鉄塔用語集

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水無月二十六日  大正末年 その2
 20号は、此方も、アパートと民家に囲まれ接近は叶わない。大プレートは何とか撮れたが、建設年の記された小プレートは余りに遠く、余りに小さくしか写すことは叶わず。私の愛機の限界である。

新鶴見線20号

新鶴見線20号 新鶴見線20号
新鶴見線20号(大正15年11月)

 20号や前回の19号等の周辺は、現在住宅地である。しかし、これ等鉄塔が建てられた頃、辺り一面を覆うていた農地の一部が今も残り、そこここに点在している。20号も農地、小さな畑越しに、その絵を見ることができる。

新鶴見線20号

 トウモロコシの小さな苗達が、晴天続きで乾いた土の中、葉を光らせ伸ばしている。真夏に若し再訪したら、景色は大分異なるものとなっているであろう。

 近くの野菜直売所でキュウリを一袋買った。夕食に、お味噌付けて食べましょう。
 やや薄日和ではあったが、矢張り暑い。もうヘロヘロである。帰ろう。

 去り際、19号と、その遥か上を越え渡って行く中富線の、91号鉄塔をアパート越しに。

新鶴見線19号と中富線91号
左91号、右19号

 これで終わりと思ったのだが、写したら中富線91号も気になってしまった。たいして距離も無いので、行ってみることとする。
 脚元まで行き見上げれば、これは相当な長身さん。考えてみれば、これ程の塔高の鉄塔を直下(ちょっか)で見たのは初めてである。遠目では何度かあるのだが・・・。いや、小柄な鉄塔を写してきた後なので尚更、この高さは圧倒的に迫り来るよ。

中富線91号
中富線91号(平成4年6月 70m)
右側の小突起は携帯電話基地局アンテナ

 さあ気が済んだ。深大寺の地で生き継いできた人々の傍らで、九十年建ち続けて来た鉄塔達と、サヨナラだ。
 嘗て防空緑地であった神代植物公園辺りの原っぱでパン(昼食)食べて、今度こそ帰りましょう。ハラヘリヘリだ。

(撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、何卒ご容赦下さいますようお願い致します)

2016 6/26

*神代植物公園:都立唯一の植物園。昭和36年(1961)開園。大元は昭和15年(1940)の東京緑地計画による神代緑地。戦時には避難場所・防火帯また高射砲陣地等に使用する目的の防空緑地でもあった。東京育ちの方は一度は遠足でお世話になっているのでは。園外にも出入り自由な緑地(原っぱ)等ある

(20号の最寄駅は京王線の柴崎駅)

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水無月二十四日  大正末年 その1
 新鶴見線に残る、大正生まれの鉄塔二つが続いている。19号と20号。前に書いた13号や45号と同じ大正15年、1926年の生まれだ。
 場所は調布市深大寺。この辺りは時々自転車で走るのだが、何故か良く迷う。深大寺東線を撮りに行った時も、深大寺のお寺から鉄塔に向かう際、見事にはまって道を失った(この19号と20号二つの旧型鉄塔を深大寺東線2号と見誤った所為もあるのだが)。

 この19号と次の20号を巡った日は真夏日。五月も終わり近いといえ、この時期特有の気候は健在で湿度は低いが、陽向は可也の酷暑。迷ったら相当キツイことになるなと、若干遠回りとはなるが、特徴的で目立つ、以前紹介の中富線84号経由で向かうこととした。
 84号は何時もの様に、キャベツ畑の向こう、仲間を引き連れ建っている。

中富線79から84号
キャベツ畑と84号(左端)から79号

 84号から凡その目星を付けて南東へ向かう。そして新鶴見線の姿を捉え、三鷹通りを越え、送電線をたどり、19号へと無事到着。

 19号は、アパート、民家そして複数の事業所に囲まれ接近は不可能。JRの鉄塔の常で、北側の脚に北向きに取り付けられた(褪色防止のためであろうか)小プレートを、アパートと民家の隙間から撮影せざるを得ない。ベビー・カーを押し、丁度お散歩からアパートへ帰って来られたママさんに怪しまれないようにと、敢えて堂々と撮影(でも怪しかったでしょう。ごめんなさい)。

新鶴見線19号 新鶴見線19号
新鶴見線19号(大正15年11月)

 大正の末年、15年は、ダイムラー・ベンツ社が設立され、マリリン・モンローやエリザベス二世(現英女王)そしてクマのプーさんが生まれ、クロード・モネやアントニ・ガウディが亡くなった年。国内では、加古里子さんが生まれ、「伊豆の踊子」が発表され、NHKが設立した年。治安維持法がはじめて適用された年(前年に制定)でもある。大正天皇崩御のため、12月25日で終わっている。

 続く12月26日から、大晦日までの僅か一週間で終わった翌昭和元年より始まる時代は、ご承知の通り戦争の時代である。この鉄塔周辺も戦争とは無縁ではなかった。
 3km程西には陸軍調布飛行場(ターゲット1412)があり、北西3km程の場所には中島飛行機三鷹研究所が、また南の甲州街道方面には多くの軍需工場があったため、周辺地域は1945年(昭和二十年)に多くの空襲があり、日米の犠牲者が出ている。鉄塔すぐ西の現在の神代植物公園内には照空隊(サーチライト部隊)陣地が、更にその少し西には高射砲陣地が、飛行場防衛のため設けられていた。
 19号や20号の遥か頭上も、空の戦場となっていたのかもしれない。

新鶴見線19号
19号

 19号南面からは、駐車場越しに或いは木立や家並越しに20号が望める。もう迷うことはあるまい。

新鶴見線20号
20号

(撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、何卒ご容赦下さいますようお願い致します)

2016 6/24

*クマのプーさん:1926年に児童小説「くまのプーさん」が出版された
*治安維持法:京大生を主体としたマルクス主義研究サークル「全日本学生社会科学連合会」の弾圧に際し発動された(京都学連事件)
*空襲:調布地域は1945年2月より敗戦まで15回あった。B29爆撃機に依るものは三回で多くが空母艦載機及び硫黄島より飛来したP51マスタング戦闘機による。なおこれらについては、調布市立図書館HP「市民の手による まちの資料情報館 (調布の戦争遺跡)」を参照させて頂きました

(19号の最寄駅は京王線の柴崎駅)

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水無月二十一日  歳降りて
 新鶴見線45号は、以前紹介した13号と同級生。鉄道省時代、大正15年(1926)生まれ。この路線には他にも幾つか同級生鉄塔が残っているが、この45号は渡河鉄塔のため珍しく高身長だ。それも特徴的だが、この鉄塔、多摩川対岸のクリソツな46号と共に、ご覧の通り括れが無い単一テーパースタイルであるのもまた特徴的である。

新鶴見線45号 新鶴見線46号
ほぼ三角
左45号(大正15年11月) 右46号(昭和26年11月 昭和55年5月改造)

 45号の立地は、畑と住宅の混在する北岸堤防直下。反対側の河原へ降り堤防越しに見上げれば、懐かし気な景色。
 風渡る若青い五月の草原(くさはら)と広い空、そして歳降(としふ)りた鉄塔。お下髪の女学生が、土手の上を自転車で走り過ぎそうではないか。
 家々のデザインは変われど、数十年、左程の変化は無き様な、ノスタルジックな風景だ。

新鶴見線45号
河原から

 余りセンチ(死語)になっている暇もないので、土手を上り、自動車も通る堤防上の道(撮影の際はご注意を)から、正面仁王立ちとプレートをゲット。第一腕金の中央部分に大きなカラスの巣が見え、親鳥が頻りに出入りしている。

新鶴見線45号 新鶴見線45号
気持ちの良いほどの三角錐
プレートは褪色しまくり

 堤防を住宅地側へ降りれば、畑中の細道が、解放された鉄塔敷(鉄塔の建つ敷地)へと続いている。イネ科外来種の繁茂する結界は、フリーだぁ。
 細道はそのまま、鉄塔を潜り横のアパート脇をすり抜けて行く。
 鉄塔は、いつぞやの府中線50号同様缶下駄を履いてる。渡河するための嵩上げ或いは洪水時を考慮してのことであろうか。コンクリート製の下駄は鉄塔本体程古そうには見えない。(補足:昭和22年(1947)のgoo地図航空写真を見ると明らかに下駄を履いているのが解る)

新鶴見線45号 新鶴見線45号
缶下駄の高さは3mくらいあるだろうか

 結界見上げを撮り捲くって後、建設年の表示された小プレートを探したが、見当たらない。この辺りにあるはず、と見当を付けるのだが、無い。
 散々探し回って、やっと北東の主脚に見付けたが、葉の繁る枝枝と巨大な缶下駄に阻まれ殆ど見えない。そこに存在することが辛うじて分かるのみで、撮影も建設年の確認も残念ながらできなかった。
 しかし、小プレートを巻き付けた主脚のその裏側に、こんな文字を見付けた。塗装に関する記録である。
 三行に分かれ、以下のように読める。
 使用塗料 下塗 中塗 シンクロ(以下下駄で見えず)
 大日本塗料 上塗 シルバ(以下下駄で見えず)
 塗装年月日 S63 2 新生(以下下駄で見えず。最後の「生」の地は微妙)

新鶴見線45号
28年も前の塗装じゃ剥げるな。
金属のバンドは小プレートを固定するもの

 この様に、あれやこれやと彷徨きながら鉄塔下で撮影していると、自転車を押したおばさまが細道を通りかかった。邪魔にならないようにと通過を待っていると、私を見付けたおばさまは、予想外にも、「何をしてるんですか?」と結構に強い口調で尋ねて来た。
 むむっ、怪しまれている、と感じた私は、「鉄塔を撮っているんです」と努めてにこやかに返答をした。すると、「何の為に撮ってるんですか?」とこれまた予想外にさらに口調は強まった。
 やばいっ、可也怪しまれている。しかし、決して怪しくはないとの自信はあったので(何の自信だ)、また努めてにこやかに且つ冷静に、「趣味で撮っているんです」と返答。これを聞いたおばさまは、急に物柔らかな口調と表情になり、「そうなんですかぁ、彼方此方行ってらっしゃるのぉ?」と打ち解けて下さった。
 何が如何おばさまの心理に作用したのか不明だが、取り敢えず、安心・・・。
 それからしばらく、45号鉄塔について会話をさせて頂いた。そうしたらば、その中で「建て替え」と言う語がおばさまの口からこぼれた。な、なんと建て替え計画があるのか。
 ドキッとしたが、お聴きした範囲では、実際オフィシャルに建て替えの話が具体的に出ているという訳ではないようなニュアンスであった(はっきりとは分からないが、そんな印象であったのでツッコまなかった)。しかし、近隣の方々の中では、そう言う話もちらほら出ているという事なのであろう。
 考えてみれば、1926年生まれの築年九十歳である。幾らメンテナンスを施したところで、限界はあろう。上にも書いたが、同じ年齢の13号とは高さが違う。あちらはおそらく30m弱程であろうが、こちらは40m程はあろうかと思われる(自信は無いが)。強度的に、安全性を考慮すれば建て替え云々の話が出ても不思議ではない。
 現場では気付かなかったが、結界見上げの絵を見ると、直角(下左)では分からないが、45度角度(下右)では、正方形が少し歪んでいるようにも見える。カメラの所為ではないと思うのだが。

新鶴見線45号 新鶴見線45号
若干平行四辺形になっていないか?(右)

 私は、歴史的建造物は、出来得る限り残してもらいたいと思うタイプの人間である。しかし、実用物として機能しており、この先もそれを期待されている送電鉄塔の場合、そのまま残す事は難しかろうとも思う。古い火の見櫓の様な、すでに実用を離れたものならば、地域の文化的遺産としてそのまま残す事は可能であるが。
 送電線を外し、新たな鉄塔を近くに建て、引退後そのまま保存、と言うことも案としては可能であろうが、どうであろう。送電線の無い鉄塔・・・でも、私としては、そんな形での古い鉄塔の文化遺産としての新たな価値創造も、悪くないと思うのだが。
 この鉄塔の管理組織は、同じ大正15年に建てられた歴史的駅舎、三角屋根の国立駅旧南口駅舎の保存を拒否された企業さんである。決めつけるのは失礼だが、多分、この45号に限らず古い鉄塔の保存というような事柄は、考慮の外にあるであろう。
(今、大正13年生まれの歴史的駅舎、原宿駅舎の保存問題が起きている。若い頃ほんの数回利用したのみだが、私としては保存されることを望む)
 JR東日本さん(言っちゃった)が如何お考えであるかは別に、都として保存と言うのは無理であろうか。東京都の場合、歴史的建造物の選定基準として以下の四つがある。
 ・歴史的価値を持ち、原則建築後五十年を経過している
 ・ランドマークとして地域の歴史的景観を特徴付け、都民に親しまれるなどの性格を持つ
 ・できるだけ建設当時の状態で保存されている
 ・外観を容易に確認できる(外から見える)
 45号鉄塔の場合、私は一応クリアしているのではなかろうかと思うが、二番目の後半部分は微妙だ。人に依り大分評価は分かれるだろう、と言うより、多くの方にとり鉄塔は親しまれる存在ではなかろう(想像です)。
 効率優先で、文化的遺産や歴史的建造物が惜しげもなく毀(こぼ)たれてゆく世である。古い鉄塔の保存など言うのは、暇人の戯言と扱われたとしても致し方ない、とは思うが。

 しかし、世間はどうあれ、個人的には保存に値する歴史的建造物であると考える45号鉄塔。立地する地域について調べていて知ったのだが、周辺は戦災を受けている。
 鉄塔周辺地域は、昭和20年(1945)5月25日夜から翌未明にかけて米軍による焼夷弾空襲に晒され、国民学校(後の狛江市立第一小学校)や二十数軒の家屋が焼失し、死傷者も出ている。多摩川対岸(神奈川県川崎市)も火に包まれたという。45号の周囲は被害を免れたようだが、その夜鉄塔は、町を焼く炎を薄赤く映していたかもしれない。
 築90年超。こうした経験もしていらっしゃる。

新鶴見線45号
45号

 45号から送り出された送電線は、1945年の同じ5月の日、無数のM69焼夷弾の殻が散乱していたという河原を越え、緩やかなカテナリー曲線を描き、対岸の46号へと多摩川を渡って行く。そして横浜目指し、丘陵を越えて行く。  

新鶴見線46号
対岸、46号

(撮影については十分配慮していましたが、可也長いこと、鉄塔下及び周辺を彷徨ておりました。、御近隣にご心配及びご迷惑おかけしておりましたら、何卒ご容赦下さいますようお願い致します)

2016 6/21

*新鶴見線:東京のJR武蔵境交流変電所から、横浜のJR新鶴見交流変電所まで100基以上連なる。開設は鉄道省時代の大正15年
*旧国立駅舎(南口):都内では原宿駅に次ぎ二番目に古い駅舎であったがJR中央線高架化に伴い市有形文化財指定後2006年に解体された。保存された部材を使用し2020年2月までに復元する予定
*昭和20年5月25日の空襲:都内山の手から多摩地区にかけボーイングB29爆撃機470機により行われた。死者3,651名、焼失166,000戸。
なお、上記戦災の記述は、狛江市HP「狛江の歴史・文化財 語りつぐ戦争体験」中の手記、及び「狛江の歴史・文化財 語り継ぐむかし」を参照させて頂きました
*焼夷弾:上記「狛江の歴史・文化財 語り継ぐむかし 昭和二十年五月二十五日」に「長さ四十センチ、直径十センチくらいあろうか。六角形のものが三十六本一組になったもの」とある。これに最も近いと思われる焼夷弾はM69である。全長50cm・直径8cmの六角形の筒(「殻」とはこの筒のこと)の中に可燃性油脂が装填されている。これを38本まとめE46集束焼夷弾として投下した

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水無月十日  深大寺三姉妹 その二
 中富線84号の脚元に小さく写っていた(下画像はアップ)深大寺東線は、84号下段に併架された久我山線から分岐し、航空宇宙技術研究所まで至るごく短い路線。
 以前は「航技線」と呼ばれ、現在と異なり一回線(鉄塔で言うと片側にだけ送電線が架けられていた)であった。
(以下も含め航研線時代の事柄に関しては、他のサイトさんを参照させて頂きました)

深大寺東線1-3号
左から、1号、2号、3号

 たった三基のみではあるが、皆それぞれタイプが異なる。個性豊かな三姉妹。

 1号(長女)は、極ノーマルなタイプ。中富線84号の東北東、無数のキャベツが絨毯の様に見事に畑を覆うその向こう、二百m程の距離、植木屋さんの畑の中に建つスレンダーな耐張型(送電線を左右から引っ張るように腕に架けるタイプ)。
 咲き残っていたツツジと共に。

深大寺東線1号 深大寺東線1号
深大寺東線1号(平成4年6月 44m)

 航研線時代は2号(1号は欠番)となっていたようだ。

 2号(次女)はレトロな烏賊さんタイプ。でも、他のサイトさんで確認させて頂いたところ、建設年はそれほどに古くはない。
 賑やかにボールと歓声が行き交うテニス・コートの奥に建っている。

深大寺東線2号 深大寺東線2号
深大寺東線2号(昭和33年4月 33m)

 航研線時代は3号。現在は懸垂型(送電線を吊り下げるように腕に架けるタイプ)だが、以前は耐張型だったようだ。
 航技研がこの地に建てられたのは昭和33年なので、その当初からのオリジナル鉄塔と言うことになろうか。

 3号(三女)は航技研構内。地下へと送電線が引き下げられている。枝を広げたサクラに、三分の一ほど隠れ、全身を拝めなかったのが少し残念。
 2号側にある小さな公園からは、もう少しすっきりと望めるのだが、そこからでは、下部の引き下げ部分が屋並に被りあまりよく見えないのだ。で、忙しなく車の行き交う道路脇の狭い歩道から見上げた此方の一枚を。

深大寺東線3号 深大寺東線3号
深大寺東線3号(平成24年8月 44m)

 航研線時代は5号。送電線を下部に引き下げるため、上部の腕金は少しづつ前後にずれている。

深大寺東線3号
カブトガニの裏側みたい

 2号(以前の3号)との間に嘗てあった4号鉄塔は撤去され、現在は空き地となっている(ように記憶している)。

 84号から航技研へ至る途中、新鶴見線が、1号と2号の間で上空を渡って行く。
 右が深大寺東線2号、左が新鶴見線15号だ。

深大寺東線2号と新鶴見線15号
画像右手が航技研側

 新鶴見線15号は、次の16号(赤白)と共に、小柄な大正15年オリジナルも時折残るこの路線のこの辺りのものとしては長身。深大寺東線(航研線)が開設された時に、建て替えられたのであろうか。

新鶴見線15号
新鶴見線15号(大正15年11月 平成10年11月補修)

 前回触れたように、お寺さんの深大寺は、大分と賑やかになったが、深大寺周辺地域は緑地も多く、まだまだ長閑やかだ。2km程東に足を延ばせば、鬱蒼とした国分寺崖線樹林中に、保存・公開された七世紀半ば頃の横穴墓(おうけつぼ)があり、その直下には野川との間に水田が広がる。  

出山横穴墓群8号墓
出山横穴墓群8号墓
画像右手下に山葵田や水田がある

 崖線と水田の里山景観など、古い東京郊外をご存知の方には、懐かしい遠いイメージが喚起されるのではなかろうか。崖線の上には航技研同様見学可能な国立天文台もある。様々な関心を満たしてくれる、多様性に富む地域だ。

(撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、何卒ご容赦下さいますようお願い致します)

2016 6/10

*航空宇宙技術研究所:1955年(昭和33年)設立。宇宙航空研究開発機構(JAXA)の一部門。以前の住所は三鷹市であったが、正門の位置が変わったため現在の住所は調布市深大寺。展示室は入館無料
*国立天文台三鷹キャンパス:大正13年(1924)麻布より移転。国立天文台本部。少人数での見学は申し込み不要とある
*出山横穴墓群:周辺に10個の横穴墓が確認されている。8号墓(都史跡)はコンクリート製見学室内からガラス越しに人骨(レプリカ)の横たわる内部を見ることができる

(7/19:3号鉄塔頂部アップ画像追加)

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水無月七日  深大寺三姉妹 その一
 此度の鉄塔巡礼、お目当ては深大寺東線(じんだいじひがしせん)。中富線84号下段に併架された久我山線から分岐し、僅か三基で終わってしまう、短くも儚い(?)路線である。

 鉄塔だけではすぐ撮り終えてしまうし、「深大寺」と付くことでもあるので、すぐご近所にある古刹、有名な深大寺の写真もお見せしたい、そう考えた。
 で、鉄塔に行く前に、まずは本堂の写真を二三枚撮って・・・等と思いながら、寺院裏手の墓地側(すぐ北側は神代植物公園)の小路から入ったのだが、驚いた。平日であったのだが、「今日は祝日か?」と思わずあれこれ考えてしまった。超と付くほどの大混雑だったのだ。
 山門側へ下る道は、自転車を転がしながらではご迷惑になりそうなほどの渋滞である。やっとの思いで山門前に辿り着いたが、とても本堂へ行くのはリームー。こちらも行列が出来るほど混雑している茶店さんの脇に自転車を置かせて頂き、山門の写真と、鬼太郎茶屋さんの「鬼太郎ハウス」を撮るのが精いっぱいであった。

浮岳山深大寺山門 深大寺鬼太郎茶屋鬼太郎ハウス
左 山門は深大寺で最も古い建造物(重要文化財)。樹々も立派
右 鬼太郎茶屋横の鬼太郎ハウス。かわいい

 深大寺は何度か訪れているが、以前は少なくも平日はこんなに混んでいなかった。良い意味で閑散としていた(良い意味)。この日は確かに5月半ば、気持ちの良い晴れた日であったが、それにしてもである。「◯ゲゲの女房」効果未だ衰えずということなのであろうか。まあ、周辺環境も含め実際良いところなので、多くの方に知られるのは喜ばしいこととは思うのだが。
 数年ぶりに訪れて、深大寺のその変わりように驚いた次第である。

 深大寺を一応は撮り終えたので、いよいよメインの鉄塔だ。
 まずは、深大寺東線の大元、冒頭にも挙げた中富線84号から。

 通常、「なかとみ」と言えば「かまたり」と来るであろうが、東京辺りの鉄塔好きは、「なかとみ」と言えば「せん」である。そう、鉄塔「中富線」。
 この路線は、東京多摩地区東部を北北西から南南東にかけ広く横切っているため、この周辺の鉄塔を愛でていると、彼方此方で遭遇する。でも、何故か態々撮ろうという気にならないのだ。何故であろう。・・・解らない。
 しかし、時折、妙に存在感のある鉄塔があり、それについては、以前書いた71号の様に、紹介したくなってしまう。調布市深大寺に建つこの84号も、そのパターンだ。

 広大な農地の中に建つため、塔高は解らないが、前後の塔の高さから見ておそらく60m程と思う。71号同様の鋼管タイプの主柱で、重量感が無類だ。

中富線84号 中富線84号
中富線84号
プレートが遠ぉいぃ

 上左画像の様に、下段の久我山線が上下に分かれ、画像右方向、それぞれ深大寺東線へと分岐して行く。
 下画像、84号の左脚元には、これから訪ねる深大寺の三姉妹が小さく見えている。

中富線84号と深大寺東線

 深大寺東線1号へと向かえば、逆光に浮かぶ84号が、キャベツ畑の向こうに遠い。深大寺周辺には、このような環境も存在する。

中富線84号

2016 6/7

*深大寺:天台宗別格本山浮岳山深大寺。天平五年(733)開山の古刹。二度火災にあっているため、元禄元年(1695)に建てられた山門がもっとも古い建造物

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皐月二十七日  潜る
 境八王子線22号は、冬に紹介した15号同様、結界フリー。
 一部に草繁る、コンクリートの鉄塔敷(鉄塔の建つ敷地)に入り見上げれば、黒い骨格が逆光に浮かぶ。初夏の陽のまぶしさに目が眩み、またモニターが見えず

境八王子線22号

境八王子線22号 境八王子線22号
境八王子線22号(昭和63年4月)

 結界フリーも珍しいが、22号鉄塔は、送電線を車返線8号と9号との間を潜らせるために、送り手側で送電線を引き下げており、受け手側腕金が上部に三対、送り手側腕金が下部に三対という、大分複雑で珍しいスタイルとなっている。

境八王子線22号

 上部第一腕金の送電線は、下の腕金を避けるため前に回って下部第一腕金へ引き下げられている。上部第二腕金の送電線は下部第二腕金へ、上部第三腕金の送電線は下部第三腕金へと、それぞれそのまま引き下げられている。第二と第三腕金は、被らないように前後(第二が前、第三が後)にずれている。
 写真を拡大して見ているのだが、なんかザツフクで良く分からなくなる。間違えていたら御免なさい。

 下は、車返跨線橋からの絵だが、何となくは、境八王子線と車返線の関係がお解り頂けるのではなかろうか。
 画像右上、車返跨線橋南側に建つ21-1号から上部腕金へ来た送電線は、引き下げられて下部腕金から送り出され、左隣りに写る車返線8号から左(9号)へ向かう送電線の下を潜って左端にちらと見える23号へ向かう。
 車返線が造られたのは昭和42年(1966)、車返跨線橋が造られたのが昭和35年(1960)(建設年についての考察は21-1号の記事を)。それを見ると、車返線が出来た為送電線を引き下げたという事になろうが、22号の建設年は昭和63年(1988)である。と言うことはこの鉄塔は三代目さんか?
 どうなのであろうか。トーシロ(私)の推測はこの辺が限界である。

境八王子線22号
ヤバイ、鉄塔がいっぱい

 しかしこの跨線橋、前回紹介した北方向もそうだが、南(22号側)を見ても、鉄塔だらけだ。
 左端に境八王子線23号、その右は24号、画面右端25号。22号左隣りは車返線8号、右隣りは7号が見えている。ここには写っていないが、その他にも、遥か多摩丘陵の、西北線の21・22号まで見えたぞ(まだ真っ白な富士山も薄っすら見えた)。
 私の様なマニアには堪らん風景であるけれど、鉄塔など興味も関心も無い多くの方々にとっては、視界中邪魔だらけ、と感じられるのであろうな。きっと。

(撮影に関しましては、十分配慮しておりますが、もしご近隣の皆様にご心配及びご迷惑をおかけしておりましたら、何卒ご容赦下さいますようお願い致します)

2016 5/27

*境八王子線:武蔵境変電所から八王子変電所へ続くJR東日本の送電線。昭和初期の鉄塔が一部残っている
*三代目さん:J Soul Brothersじゃないよ。境八王子線開設時の昭和5年に建てられたのが初代、車返線開設時の昭和42年に建て替えられたのが二代目、そして昭和63年建設の現在のものが三代目という見方。昭和42年は建て替えではなく改造かもしれないが

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皐月二十一日  跨線橋
 車返線10号である。畑中に建つ鉄塔を、地上から望めばこのような風情。この路線の鉄塔としては、ごく普通の景色だ。

車返線10号 車返線10号
車返線10号(昭和42年12月 37m)

 しかし、前回紹介の、境八王子線21-1号が法面に建つ、車返跨線橋(くるまがえしこせんきょう)からこの10号を望むと、その景色は大分異なるものとなる。車返線をちょっと面白い形で望むことが出来るのだ。

 跨線橋に上がり、南側の歩道から北に向き、引っ切り無しに行き交う自動車の群れの上、道路を挟んで聳える10号を望むと、否応なしにその先に続く車返線鉄塔列が視界に入って来る。
 堂々たる10号の姿は、ローマ軍の隊列を率いて凱旋するカエサルの様ではないか(たまたま「ジュリアス・シーザー」を読んでいるので)。

車返線10号から先
跨線橋南側の歩道から

 北側の歩道へも行ってみよう。
 道路を横断する場所は無いので、歩道に設けられた階段を使い、チャリを抱えて跨線橋を降り、下を潜って反対側の階段をチャリを抱えて今度は昇る(重た)。
 北側の歩道に上がり見下ろせば、西武多摩川線が緩やかな曲線を描く。視線を上げれば、鉄路の上、延々とガントリー鉄塔が連なって行く。

車返線10号と線路 車返線11から先を号
左、10号と線路 右、電車が潜る11号とその先を

 少し東に移動しながら、見る角度を変えると、合わせ鏡を覗き込むような絵も見える。アップにすると、これは、ちょっとコワいぞ。なんか出てきそう。

車返線12号から先を 車返線12号から先を
12号とそこから先を(白い建物は小学校)

 もっと広く見れば、車返線にほぼ並行する、境八王子線の鉄塔列も合わせ見ることが出来る。
 両鉄塔列が、地平の彼方の一点に収斂して行くようで、面白い。

車返線と境八王子線
左が境八王子線(手前は21号)

 高い建造物の少ない、東京郊外の風景には、心から愛着を覚える。「鉄塔は高い建造物だろ」とつっこまれそうだが、私の場合それは別だ。

 鉄塔とは無関係なのだが、南側を跨線橋から見下ろすと、こうしたものが見える。

白糸台掩体壕
白糸台掩体壕(しらいとだいえんたいごう)

 「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」。WW2末期に作られた、空襲から戦闘機を守るためのシェルターだ。
 「戦闘機は空襲の時敵機と戦うものでしょ?」とお思いであろう。当然である。しかし、当時本土決戦を本気で考えていた政府・軍部としては、その来るべき戦いのため、残り少ない戦闘機を温存する必要があったのだ。そのため、各地の軍用飛行場周辺に多くの掩体壕(一説には1,000基以上)が作られたのである。
 空襲でどれ程の市民が犠牲になろうと、本土決戦でどれ程の市民が斃れようと、知ったことではない。政府・軍部はそう考えていたということだ。彼らが守ろうとしたのは、国民の生命や暮らしなどではなく、自分たち自身とそれを支える体制だけだ。
 全国規模で地上戦が行われていたら、どの様なことになっていたか。沖縄やドイツの状況を考えれば、私の存在も無かったかもしれない。

白糸台掩体壕
白糸台掩体壕

 掩体壕は、跨線橋のすぐ東に位置する調布飛行場周辺に、60基ほど造られたらしい。が、現在、四基が残存するのみだ。
 見慣れた郊外の風景も、過去を語る戦跡も、長く存在し続けてほしいと、切に思う。

(上から三枚目の画像、ガントリー列の写っている下辺り、跨線橋の路肩部分には、無惨な、ネコの轢死体が横たわっていた。
合掌)

2016 5/21

*掩体壕:調布飛行場周辺には、昭和19年(1944)6月から9月に造られた。写真の様なコンクリート製屋根のある有蓋型と土手で囲って木や草を被せただけの無蓋型とがある(案内板解説より)
*ジュリアス・シーザー:シェイクスピアの戯曲(1599)。実際の主役はシーザー(カエサル)暗殺者の一人ブルータス(ブルートゥス)
*白糸台:詩人の村野四郎はここで生まれ育った

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皐月十五日  「のいち」鉄塔
 国道20号線、通称「甲州街道」は、西武多摩川線を「車返跨線橋(くるまがえしこせんきょう)」(白糸台陸橋とも)によって越える。

車返跨線橋
車返跨線橋銘板

 この陸橋の南側の法面に、境八王子線21-1号は建っている。あまり見かけないパターンである。画像右下に見えるのが、跨線橋のガードレールと街路樹。

境八王子線21-1号 境八王子線21-1号
境八王子線21-1号(昭和35年6月)

 「21の1」と言うことは、後々に付け加えられた鉄塔である訳だが、この鉄塔が建てられた昭和35年(1960)に何があって、新たに追加されたのであろう。
 普通に考えると、1960年に21号鉄塔と22号鉄塔との間に跨線橋(陸橋)が造られたため、それを越える必要性から建てられた、と見たくなる。が、陸橋はそんなに新しいのであろうか。
 西武多摩川線(当時は多摩鉄道)の、陸橋が跨いでいる区間、武蔵境−白糸台間(当時は境−北多磨間)は、大正6年(1917)に開業されたそうだ。仮に、1960年に陸橋が作られたのだとすると、40年以上、甲州街道は踏切によって線路を渡っていたことになる。そうなのか?
 「交通戦争」なる言葉が一般に流布するほど、自動車が増加し、それに比例して事故も増え、社会問題化したのは1960年の前後辺りである。電通の年表では、1960年の流行語として「交通戦争」が挙げられているそうだ。
 よって、元は自動車自体少なく(電車の本数も少なく)、左程に無理なく踏切で線路を越えていた甲州街道(旧甲州街道)が、戦後復興期から高度成長期にかけ交通量が激増し、流石に「踏切越え」には無理が出てきて、昭和35年(1960)、跨線橋(現甲州街道)が造られた、と考えても良さそうである(旧甲州街道は現在も跨線橋の南150m程の場所で踏切を越えている)。

 ネットで色々調べてみたが、跨線橋の建設年は、オリンピック(昭和39年(1964)の東京大会)の少し前とか、昭和30年代後半であるとか、そう言及されている記事が散見される。またとある本には、車返跨線橋が含まれる、甲州街道の調布−東府中間は、昭和35年に着工し翌年開通、との記述も有る。そうすると、矢張り、昭和35年に跨線橋が造られ、それに伴い、21-1号鉄塔が建てられた、ということであるようだ。

境八王子線21-1号
法面下から
道路側の脚のみ下部がコンクリート製

 鉄塔は無柵であるが、法面と跨線橋を潜る生活道路との境部分は、鉄板で封鎖されていた。具体的表示は無いが、「立入禁止」と言うことであろう。鉄塔は、道路のすぐ脇に建っているし、封鎖も大分緩いので、入ろうと思えば入れるが、ここは矢張り堪えるべき。ネンザン。

 最後、跨線橋下の民家のお庭の、新葉が綺麗なカキの木越しに、一枚。

境八王子線21-1号

2016 5/15

*西武多摩川線:明治43年(1910)多摩鉄道により開業(1922年西武鉄道に合併)。元は多摩川で採取された砂利の運搬鉄道。他の西武鉄道路線とは接続が無い
*旧甲州街道:現在は都道229号。元は江戸城から甲府への万が一の場合の避難路として設計されたとか。多くが国道20号(現甲州街道)として継承されているが、一部旧道が旧甲州街道として残っている

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皐月八日  渡河 2
 前回に続き、こちらも、多摩川を渡る鉄塔である。桜ヶ丘線15号とはご近所、お隣同士。
 河原からは、堤防越しに拝むことができる。

多摩橋線58号
多摩橋線58号(平成13年1月 49m)

 堤防に上り南望すれば、カテナリー曲線を描いて渡河する送電線を受ける、対岸の59号鉄塔が良く見える。そしてその向こうには、その他の多摩橋線鉄塔群が沖積低地に並ぶ。59号の後は、左から61号、62号、63号(60号欠番)。そして右端は高幡線43号。

多摩橋線59号他
59号
横切っているのは桜ヶ丘線

 川とは反対の側に堤防を降り、立川公園内に入れば、58号鉄塔の脚元まで行くことが出来る。

多摩橋線58号 多摩橋線58号

 鉄塔を離れ、堤防上に戻りサイクリング路を300m程東進すると、こんな素敵な吊り橋が。根川(ねがわ)に架かる、根川貝殻坂橋である。

貝殻坂橋 貝殻坂橋の装飾

 「貝殻坂橋」とは、気になる名前だ。
 この橋から東へ500m程の場所に、江戸の頃、慶安年間(1648-1651)から貞享(じょうきょう)元年(1684))まで、多摩川の渡船場である「万願寺の渡し(谷保の渡し)」があった。その渡し場へと段丘を下る坂が、周辺の土中から貝殻(化石)が多く見つかるため、貝殻坂と呼ばれており、それを橋の名に冠した、という事らしい。
 岡部境線105号でも触れた「新編武蔵風土記稿(巻之九十四 多摩郡之六)」に、「土中をうがてば蛤の夥しく出づ」とあるそうだ。確かに、橋には貝殻の飾り(上右画像)が幾つもついている。が、よく見て頂きたい、それはハマグリではなく、何故かホタテガイだ。  

貝殻坂橋から

 橋上からは、何処かの山中の様な緑陰深き流れが見下ろせる(周囲はすぐに住宅地だが)。よく見ると、枝枝に紛れ隠れるように小さな小屋(ホームレスの方のものと思われる)が左岸に。木々に囲まれた流れの畔の小屋・・・、ブーシェの一連の風景画「水車小屋」(或いは「鳩小屋」)を彷彿させるではないか。
 思いがけずこうした風景に出合うのも、鉄塔巡りの醍醐味の一つである。

 出会いはもう一つあった。

 貝殻坂橋から250m程東、「緑川排水樋管」が青柳崖線(立川崖線の一部)に大きく開口するそのすぐ下であるが、これも、どこぞの高原の様であろう。この写真だけ見せれば、「この間の山歩きの時撮ったやつ」と言っても信じてもらえそうな風景だ。

府中用水排水路

 でも実際は、このすぐ上、崖線寄り(樋管の横)にある府中用水取水口に関わる、水量調節用に設けられた人工の流れである。コンクリート製の流出口からは、落ちたら命は無いな、と思わせるほどの量と勢いの水が迸っていた。

府中用水排水路

 景色の美しさとは裏腹に、その水のオイニーは、可也キツイものであったよ。そういえば、この間紹介した、日電府中線1号付近の府中用水の水も、同様であったな。

2016 5/8

*新編武蔵風土記稿:昌平坂学問所(湯島聖堂)で編まれた、1830年(文政十三年)完成の武蔵国の地誌(文政十一年完成との記述も有る)
*万願寺の渡し:現在の国立市と日野市を結ぶ甲州街道の渡し。のち渡しは上流に移るが、大正十五年(1926年)日野橋ができるまで住民に利用された
*府中用水:多摩川から取水され国立市・府中市の沖積低地を流れ再び多摩川に戻る全長6kmの農業用水。疎水百選の一つ
*緑川:旧陸軍立川飛行場の排水処理のため造られた人工河川。現在は暗渠化されている。樋管(ひかん。樋門とも)は堤防を横断する暗渠化された水路
*青柳崖線:立川崖線と多摩川低地との間に一部「青柳面」と呼ばれる段丘面があり、この面と低地を分ける崖線を青柳崖線と呼ぶ。一般に立川崖線の一部とされる
*フランソワ・ブーシェ(1703-1770):ロココ期の代表的なフランスの画家。彼の作品といえば軽快で華やかな肖像画や神話画がイメージされるが、結構抒情的風景画も残している

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皐月六日  渡河
 以前、境八王子線15号の時に書いた、「長身結界フリー鉄塔」である。やっと、訪ねることが出来た。陽気は春を越えて、もう初夏に近かったが。

桜ヶ丘線15号 桜ヶ丘線15号
桜ヶ丘線15号(平成9年6月 57m)
プレートは付着した藻類や埃やで可也汚れていた

 画像では確認不可能だが、アップで見ると、クリスマスツリー型ダンパーを採用している。長径間(径間は鉄塔間の距離)の場合などに使われる方式らしいが、川を渡るここはまさに長径間である。初めて見た。

 この15号、建つは多摩川北岸、堤防下の住宅街中の公園内。以前紹介した、同じ様に公園内に建つ岡部境線112号と同パターンで、四つの主脚の基部のみ柵で囲われている。

桜ヶ丘線15号

 112号とは異なり、公園は可也広いのだが、長身である分それに比例して脚も広く踏ん張っているため、結界全体を囲ってしまうと、可也の面積を占有してしまう。よってこの方式になったのであろう。一般の鉄塔でもこの方式を採用してもらえないであろうか。そうすれば「結界総フリー」と言う夢の様な世界が創出されるのだが(鉄塔好きの勝手な戯言です。無視してください)。
 煉瓦敷きとなっている結界は、今まで入った鉄塔達の結界に比し、矢張りだいぶ広い。ゆったり気分で見上げる。・・・美しい。が、撮影しようとすると、まともに我らが主星、太陽さんの光が強烈に差し込み、カメラのモニターが良く見えん。
 半ば、勘で撮ったのだが、カメラのフレーム(画面)の縦横と鉄塔の部材の縦横を水平に合わせるのに、相当苦労した。

桜ヶ丘線15号 桜ヶ丘線15号
く、首が・・・痛い

 結界の一隅にベンチが据え付けられている。鉄塔好きのためではなかろう(当たり前だ)。その証拠に中心からは大分ずれている。中心に近いベンチの端に思い切り寄り腰掛けても、見上げればこの様。

桜ヶ丘線15号
ニャンコたちとは遇えなかった

 だが、偶にはこんな角度も、新鮮でまた良し。逆光に浮かぶ歪んだ骨格が、なかなかシュールだ。

 この公園、結界の視界は良好であるのとは異なり、結界外の視界はクリアではない。枝を大きく広げた樹々の樹冠が頭上を覆い、公園内から鉄塔を見上げることがなかなかに困難なのだ。しかし、公園としての雰囲気は、非常に落ち着いた良いものがあって好もしい。
 やっと見つけたポジションでも、下の様。

桜ヶ丘線15号

 鉄塔を隠すその新緑の、涼しい陰を利用させて頂き、昼食(日向は暑かった)。例によりランチ◯ックと野菜ジュース。共に見切り品である。

 食事を終えたら、出発。
 堤防に上がると、何遮るものなく、彼岸に赤白の16号が望める。
 送電線は、カテナリー曲線を描き、多摩川の河川敷を渡って行く。

桜ヶ丘線16号
堤防越しに16号

 平日、プレイヤーの居ないフィールドに、細い影を落として。

桜ヶ丘線15号から16号

 堤防上のサイクリング路から、さらば15号。

桜ヶ丘線15号と14号
右に小さく14号

2016 5/6

*カテナリー曲線:懸垂線。太さ・密度が一様な糸の両端を固定して垂らした時に糸が描く曲線
*ダンパー:振動軽減装置。上の場合は風による振動を軽減するためのもの。他に錘を使用したトーショナルダンパーがある。

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皐月三日  守護者―送電線を守る
 鉄塔が好きとは言っても、好きなのは、「送電鉄塔」なのである。同じ鉄塔でも、火の見櫓や電波塔・TV塔などは、興味の対象外なのだ。そう、孤立した鉄塔には関心が向かないのだ。

 何故に、送電鉄塔に惹かれるかと言えば、それは矢張り、送電線によって結ばれ繋がっているからであろう。何処(いづこ)からか来たり、何処へかと続く、その見えぬ、見知らぬ土地との連続を感じさせる送電線の存在が、鉄塔に魅力を感じる上で、非常に大きいのではないかと、自己分析する次第だ。
 で、鉄塔が支持するその送電線には、様々な付属物があり、それぞれがそれぞれに役割を果たし送電線を守っている。
 下に、代表的な付属物を七つ挙げる。

■スペーサー(Spacer):複数の電線(導体)を使用する場合、風などにより電線同士が接触しないよう間隔を保つ役割をする。普通間隔は40〜50cmだそうだ。画像は2導体(電線二本)用だが、4導体、6導体用等の場合は円形であったりする。

スペーサー
スペーサー

■捻じれ防止カウンターウエイト(Counterweight):電線に着雪すると、雪の重さで電線が回転し、円筒状に着雪が発達してしまう。それを防ぐため、電線に錘を付け回転・捻じれを防ぐ。捻じれ防止ダンパーとも。カウンターウエイトは釣り合い用の錘のことである。

 
ねじれ防止カウンターウエイト
左は地線、右は送電線

■難着雪リング(Snow Resistant Ring):画像では三つ見えている黒いリングがそれ(実際は送電線の端から端まで付いている)。電線に雪が着くこと自体を防ぐ。電線に付着した雪は、電線の撚りに従って滑り移動する。その移動を妨げ着雪が成長するのを防ぐ役割を果たしている。プラスチック製。

難着雪リング
難着雪リング

■トーショナルダンパー(Torsional Damper):風による電線の振動を防ぐ。送電線に直角方向から緩やかな風が当たると、風下側にカルマン渦と呼ばれる風の渦が生じ、送電線が上下に振動する。この微風による揺れが、電線の固有振動数と一致すると、揺れが増幅され、電線が損傷する場合がある。トーショナルダンパーは二つの錘(複導体用は一つ)が反対向きに付いており、電線の上下運動を捩じり振動に換えるのだそうだ。「トーショナル」は「捻じりの」の意、「ダンパー」は制振器の意。

トーショナルダンパー トーショナルダンパー
トーショナルダンパー
左はダブルトーショナルダンパー、右は複導体用トーショナルダンパー

■クリスマスツリー型ダンパー(Christmas Tree Type Damper):働きは上のトーショナルダンパーと同じ。錘を付けるのではなく、送電線に別の電線を添えるように緩く取り付け、風による振動を吸収する。径間(鉄塔間の距離)の長い場所や強風地帯で使われるそうな。特性はトーショナルダンパーより優れているらしい。名称はクリスマスツリーの飾りに似ているところからとか。
 同様な形のものに、ベートダンパー(Bate Damper)があるが、同じものを指すのかどうかは不明。

クリスマスツリー型ダンパー
クリスマスツリー型ダンパー

■碍子(がいし):送電線と鉄塔を絶縁し繋ぐ個々は円盤状をした磁器製のパーツ。これを連ねたものが碍子連。下画像のギザギザしたスティック状のものがそうだ。電線の支持方式には、水平方向の耐張型(上二つ)と垂直方向の懸垂型(下二つ)と有る。

■アーキングホーン(Arcing Horn):下画像の碍子連の両端にある、角状またはリング状のパーツ。落雷時、二つのアーキングホーン間に電流が流れることによって、碍子の損傷を防ぐ。アークホーンとも。

碍子とアーキングホーン 碍子とアーキングホーン
碍子とアーキングホーン(耐張型)

碍子とアーキングホーン 碍子とアーキングホーン
碍子とアーキングホーン(懸垂型)

 こう見てくると、送電線を守るということは、風と雪と雷との戦いなのだね。

2016 5/3

(此方のサイトさん他を参考にさせて頂きました)

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